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は し が き

こんど私の講演集が関西本部から出版されることになり、従来の著述とちがって新たな感概に打たれています。
著述の場合は文体やら議論の統一など考慮に入れながら筆を進めますが、講演だけはまったく白紙の立場で話を進めますので、正直のところ私自体何が飛び出すか、その時にならないと私でさえ不明なのです。
というのは聴講者の様子を見ながら講演をしますので、その時その場の状況で内容が変ってくるからです。
また、私の講演は霊視のきく者が見れば分かりますが、その時の話の内容で守護・指導霊が入れ替り立ち替り、私の意識に出入りしますので、講演しながら私も教えられることがあるわけです。
こんなわけで私の講演が一冊の本にまとめられ、多くの人々に再びこの本を通して接する機会を与えられたことに非常な喜びを感じている者です。
ところで正法は周知のように、頭でいくら理解しても心の安らぎは得られないし、仏智も湧いてきません。
正法を信じたならば、まずその法を規準にして現実の生活に実践を通して始めて自分のものとなり、心に王国をつくることが可能になってきます。
大抵の人はどうしても他力本願になりがちです。他力は楽だし、人間の業を考えると、つい神頼みになってしまいます。
しかし、神頼みはどこまで行っても神頼みであり、本来の自分はありません。人間は神の子であり、神の子の神性を活かすようにできているので、まず、自己の確立、心の王国を確立することが神の子の姿であり、在り方なのです。
自分を本当に愛するのであれば、法を規準に、中道に適う生活をめざしていただきたい。
それがとりもなおさず皆さんの幸せを招来するものであるからです。
法の姿、人間の在り方はこの講演集にすべて盛られています。
したがって、ここに掲載されている内容をしっかりと理解され、実践を通して神の子の真の人間らしいあなた自身をつくって下さい。
最後に、この講演集の編纂に力をつくされた皆さん方に心からお礼申し上げます。

1975年5月 吉 日

高  橋  信  次
posted by ゆき at 11:52 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

発 刊 の こ と ば

本書は、高橋信次先生に初めて関西本部へ御越しいただいてから、約一年半の間に御講演下さった正法神理の一環を、先生のお許しを得て、そのまま集録したものであります。
今や正法の燈は燎原の火の如く全国に広がりつつあります。
北は北海道から南は九州・沖縄に至る国内の津々浦々は勿論、昨年六月に先生が台湾に赴かれて以来、かの地においても数十名の方々が続々と心の窓を開かれて、偉大なる正法の流布に熱意を傾けておられます。
またアメリカのサンフランシスコ、ニューヨーク、そしてブラジル、アフリカ、韓国、と国外の各地からも、縁生の名のりを上げる人が輩出し、正法神理の偉大さと正しさを、全世界に証明されつつあります。
そうした中でGLA総合本部主催のもとに、去る四月五日東京・日比谷公会堂において開かれた創立六周年記念大講演会では、全国から集まった同志の前に、天の配剤、縁生の必然が数多く立証され、会場を埋めた聴衆に多大の感銘を与えました。
さらに四月十三日に関西本部においては、東大阪市立中央体育館を会場として春季大講演会を開催、七千名を越える人々で場内はいうにおよばず場外まであふれその有様でありました。
その盛況ぶりは、正法に対する一般の方々の関心と、今後のGLAの使命の重大さを象徴しているようでした。
思い起せば昭和46年10月3日、この関西本部講堂(旧瑞法会本堂)に初めて高橋信次先生をお迎えしてからすでに三年有半になります。
中谷関西本部長(旧瑞法会会長)が沢山の会員を一人残さず真の正法に帰依させたいと、「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し、智者はりんかく角よりも希ならん、月を待つまでは燈をたのむ憑べし宝珠なき処には金銀も宝なり」と日蓮上人の祈祷抄の一節を引用し、その月にも宝珠にもたとうべき聖者にあい遭遇あえた今日、より勝れたもの、より正しいものがあれば、既往にとらわれず、それに就くのが謙虚な仏弟子のとるべき真の道ではないかと、理を説き、或は節にうったえての同志愛、人間愛が、頑迷なまでに旧とう套を守ろうとする人たちの心まで開かせたのです。
勿論先生の言霊の一つ一つが私たちの心の中にくいこんで来たからでもありましょう。
毎月々々御来阪下さる先生の御講演が待遠しかったのは一人私だけではなかったでしょう。
有名なある種の団体の長が先生の講演を聞きに来られたので、その感想をうかがいますと、「私たちと次元がちがます。もっと私自身勉強してからでないと、おこがましくて質問も出来ません」
「先生の顔相、骨相を見ただけでも只の方ではありません、あのお声、声量は普通の人では出せません、偉大なる方であるという事はまちがいありません」
と云われて、余りお身近かに接しさしていただくものでついその先生の温情に、自らも10パーセントの修行をしょうとなさる謙虚な人間らしさに心がひかれても、先生の偉大さをつい見のがしていた自分を申しわけなく思ったような事も度々ありました。
この三年半の間に説かれた先生の御講演の数々は、会員皆様の心に、日記に、テープに、それぞれ記録されているでしようし、この先生のお説き下さる正法神理の燈が、私たちの心に深くしみ込んで赤々ともえ広がって行く日が必ずくる事を信じ、そのための修行実践こそ大切にしなければならないでしょう。
はげしくうつり変りゆく世相の中で、ともすれば環境や世状に心を奪われ、人間としての本質を忘れ去った生活をくり返している日々の多い私たちの、日常生活の指針とし、座右の書としてたえず本書に接し、単に語句を読まれるのでなく、御講演の内容の底に流れる広く大きいものを正しく理解されて、その実践に努力を重ねて、日々の生活の中に調和と安らぎを築き広くその輪をひろげて社会の浄化安定に心を向け、この地上界の仏国土・ユートピアの建設の一助とされんことを切に希うものであります。
本書の編纂に当られた編集部の方々、御指導をいただきました堀田和成先生、並に前任の中村勇氏の御努力に対し、深甚の謝意を表しましてまえがきと致します。

昭 和 50年5月

G L A 関 西 本 部

事務局長  林  正
posted by ゆき at 11:51 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あ い さ つ

七日の班長会にもお話しさせて頂いたのでありますが、このことは教団の方向をきめる重大な事柄でありますので、繰り返しお話しさせて頂きます。
十月十日の一般法座に、東京のGLAの高橋信次先生との縁のつながりのことについていろいろお話し申し上げました。
そうして昼からは皆さまの質問に答えさせて頂いて、皆さまもおよその知識はもっていただいたことと思います。
九月十二日に、私は東京へ行き高橋信次先生とお話しをさせて頂いて、この方がぶっだ仏陀ゴーダマの再誕であるということを堅く信じたのであります。それから二回三回と回を重ねて上京するたびに、さらにこの確信を強めました。
そして、高橋先生の教えを、教団としてお受けしてゆきたいと願ったのであります。
いろいろと先生にお願いいたしまして、十月三日に当本部にお越し頂きました。その際に先生は「会長はあくまで中立の立場をとって貰いたい、そしてできるだけたくさんの人の目と耳で、私の提唱する神理正法というものがどんなものなのか、また、文証、理証、現証の三証というものを本当に出し得る人こそ世の指導者であるということを、会員の皆さんの目と耳で確めて頂きましょう」ということでありました。
このようなことで三日は班長会でしたが、できるたけ多くの人の参集をお願いしたのであります。
また二十三日にも再度お越し願いまして、ご講演、また霊的な現象などを見、また聞いて頂いて、皆さまも驚きなさったと共に、この方はただの方ではない、という印象を深められたことと思います。
また二十三日の晩には、女の支部長さん方と先生を交えていろいろとお話しを聞かせて頂きました。
その席上で先生は支部長さん方の中から五人の比丘尼を見出されました。この五人の方は、インド時代釈迦教団の比丘尼で、この方々を前にお出しになって、先生が当時の言葉でいろいろと話しをされたのであります。
五人の支部長さん方は、まだ潜在意識の紐が解けていませんから、自分が過去のインド当時の釈迦教団の比丘尼であるということの自覚はできていませんので、ただ黙って座っておられたたけですが先生は二千五百余年前、インドで共に精進した比丘尼たちが支部長さんのうしろにおいでになっているのをご覧になり、感きわまって大粒の涙を流されて再会をお喜びになったのでございます。
それと同時に、先生の体を通してモーゼ様がお出ましになり、信じられないような現象が起こったのであります。
それは先生の口の中から、額から、頭髪の毛穴から、また手の毛穴から、無数の金の微粉が出てきたのであります。
これはとうてい話だけを聞いて信じられることではありません。私は一番前に座っている目の前で、また支部長さん方もこれを間近で目撃されて、もう理屈ではない、信じられなくても、この目の前で見た事実を否定することはできない。先生の偉大さをまざまざと見せられた思いがしたのでございます。
これは物質化現象と申しまして、金という固体が液体になり、これが気体となって先生の体の中に入る。
そして、それがまた毛穴を通して、汗または唾液という液体となって体外に出てもとの固体になり、金となるのだそうです。
この日この現象をまのあたり見せて頂いたのであります。
そして翌二十四日には、徳島の蜂須賀侯の菩提寺である「光源寺」に講演においでになるということで、男の支部長さんにできるだけ参加してお供をさせて頂きました。
この光源寺では、支部長さん方の中で動物霊や亡くなった先祖の地獄霊が憑依して、身体の調子が非常に不調和である方々の憑依霊を取って頂きました。
これらをつぶさに見せて頂き、また般若心経の講演も聴聞させて頂きました。
このような過程を経まして、十一月一日の支部長会におきまして、私は全面的にGLAの高橋先生の教えを教団に受けてゆきたい、という旨を話し、支部長さん方の一人一人の口から意見を聞かせて頂きました。
何人かの方は、まだ細部にわたって信じきれない点とか、あるいは疑問に思う点は多少はありますが、全支部長さんが「会長に追いて行かして頂きたい、高橋信次先生の教えを全面的に受けさせて頂きたい」と一人の反対者もなく同意の言葉を得たのであります。
一般の方々の中にはまだ先生のお顔を見ておられない、またお教えに接していない、こういう方もおいでになると思いますが、ご縁の方々から聞かれたり、あるいは「縁生の舟」神理篇、科学篇、また「天使の再来」等の書物をご覧になって、ある程度の理解はなさっていると思うのでございますが、もし、「高橋先生の教えは間違っている」とか「信じられないから今までの瑞法会の行きかたの方が良い」とかお思いになっておられる方があれば遠慮なく申し出て頂きたいと思うのであります・・・・・。 
それでは、私がこの高橋先生をゴーダマ・シッタルダーの再誕であると信じ、また先生の教えを教団に導入しようと考えましたその理由を少し述べさせていただきたいと思います。
それは、まず第一にみんなが幸せにならなければいけない、ということです。皆さんの幸福のために先生の教えを受けてゆこうということ、これが第一の理由であります。
第二は、高橋信次先生がお説きになっている神理正法が過去二千五百有余年の昔、釈尊がお説きになった教えに間違いがないと思うからであります。
中国及び日本における仏教は、大乗教典を依教としており、釈迦の正統仏教は大乗仏教なりと信じ、その考えが常識となっております。この見方を仏教の本質に立ちかえって、出発点から詮索してゆこうというのが「釈迦に帰れ」ということであります。
日本における仏教のほとんどはそし祖師ぶっきょう仏教になっております。すなわち親鸞の仏教であり、日蓮の仏教であり、道元の仏教であります。
この大乗仏教というのはいつできたかと申しますと、釈尊が入滅なさって五百年の後の紀元前後に誕生しているようであります。
それでは、それまでの間どういうふうにして仏の教えを守ってきたかと申しますと、釈尊が入滅されて後四百年以上にわたって、全部人の口から口ヘ伝えられたもので、記憶の中に刻み込んで伝えてゆく、このような伝え方で四百年以上の間、唯一の教えとして守られて来たのがしょうじょう小乗仏教といわれている阿含(アーガマ)という教えなのであります。
この教えは南伝といってパーリ語で説かれたものが南方セイロンの方に伝わっています。これに対し北伝といって、北の方にのびて、インドから、チベット、中国、日本というふうに伝わって来たのが、漢文に訳された四つのあごん阿含教であります。
この阿含教が、釈尊入滅後四百余年にわたる間、人の口から口へ、本当の仏のなま生の言葉、生のお姿として伝えられて来ました。
こういった根本仏教、原始仏教ともいうべきものが、お釈迦様の本当の声であり、本当にお説きになった教えであります。
この教えを我が国や中国では、非常に幼稚な教えと受けとり、阿含の教えはしょうもん声聞の教えなのだから非常に程度の低いものであるというふうに解釈されて来たのであります。
阿含という言葉は受けつがれ申し伝えられた伝承の書という意味であります。
この阿含の教えを基礎として、紀元前後から大乗教典というものが組立てられてきたもので、当時の論師、文学者、哲学者など、こういう方々が阿含でお説きになった仏の教えを宗教的に神秘化し、文学的に美化し、哲学的に絶対化理論化してゆく、こうした行き方が、当時の衆生の中の思想に応じた教典となってしまったのでございます。
しかし、大乗教典は間違っているのではないのであります。
仏様のお説きになった根本の教えを拡大し、進化し、また発展せしめたら大乗教典になるのであります。
しかし、非常に哲学化されているためになんしん難信であり、かつなんげ難解であるといわれるようなものになっております。
阿含教は、これが非常に解りやすく、素直に教えが説かれてあります。
その一例を上げますと〃ゴーダマ・シッタルダー様が風邪をひかれて非常にお困りになっている〃とか、ある時は〃大へん腰が痛いので横になりたいとおっしゃっている〃またある時は〃バラモン婆羅門にどなり込まれて、ただ黙ってその罵声を聞いておられる〃このようなお姿も説かれているのであります。
たくはつ托鉢に出られて一日中回られたのに、一粒のくまい供米もなく、とぼとぼ帰路におつきになっているお 姿もあります。
そして阿含の中のぞうあごん雑阿含という非常に長い経典の中のだいばつ大般ねはんきょう涅槃経という教えの中に「仏陀がもう八十の齢を迎え老衰なさっていても、地方を回って神理正法を説く遊行をおやめになることはなく、老骨に鞭打ってとぼとぼとチュンダの園においでになりました」
その時にチュンダのさしあげた供養の茸にあたられた様子を「世尊は供養の茸を食ベ、重き病を得たまいぬ、腹下しつつ世尊は『我クシナガラに行かん』」というような、大変素朴で身のひきしまるような思いのする表現がされてあります。これが阿含です。
しかし、信仰がいろいろの分派にわかれてくる、また婆羅門教やその他とその優劣を競わなければならない必要上、我々と同じ人間としてのゴーダマ・シッタルダーがお悟りになった教えが本当の宇宙の真理ではあるがこの教えを最高度に美化し、哲学化し、これを説かれた仏陀を完全無欠、金ピカの仏に仕立て上げたのであります。
しかし、これも自然の勢いでやむを得ないことであって、そういう見方も必ずしも間違っているとはいえないのですが、我々が本当に幸福になるためには、そういう大乗教の理想化されたものばかりを見つめていたのでは、自らの足元を忘れることになるのであります。
私は入会以来、恩師から「おまえは雲の上にいる人間のようだ、足元を忘れている」と、よく教えて頂きました。
法華経が一番正しいのだという信念に燃えていろいろ広宣流布をさせて頂いて参りましたが、本当に一番大事な足元を忘れていたとつくづく思わして頂くのであります。
このように、皆さんもまず一度仏教の本質、出発点に立ち戻って、この阿含に説かれている仏のナマの心というものを、よく見つめて頂かねばならないということ、これが二つ目の理由であります。          
そして第三の理由として、このゴーダマ・シッタルダーという方が、現在お出ましになっても不思議ではなく当然であるということです。歴史上に我々と同じ肉体をおもちになって、人間苦にいろいろと悩まれ、そしてお悟りになった仏陀、この方が現在お出ましになっても決して不思議ではない。
過去にもお出ましになっていることであって、これは宇宙の配剤と申しますか、一つの約束事といいますか、宇宙法といいますか、これは必要な時に、そういう一つの現象が必ず出てくるのだということです。
インド時代のバラモン婆羅門の教えの中に、いろいろな教えがあって真理をつか掴むことができないでそれぞれが覇を競い合う、そういう時代にゴーダマ・シッタルダーがお出ましになりました。
現在もよく似た世相であります。いろいろな宗派が仏の教えはこうだと皆が他を排斥し自らが一番正しい教えだと主張し合い、たくさんの宗派が入り乱れている時代であります。
このような時代に、再び我々人間が本当に必要としている聖者がお出ましになるのは当然のことであります。
また、私が高橋先生をゴーダマ・シッタルダーだと信じさせて頂きましたのは、先生がお出しになる現象も大きな裏付けとなりました。
先生がお出しになる霊道現象や、物質化現象でございます。
東京にたくさんおられるお弟子さんと先生とのいろいろの対話。
私の目の前でインド時代の話をなさるそれはパーリ語でなさったり、サンスクリット語であったり、あるいは中国時代のお弟子さんとはその時代の中国語、エジプト時代はエジプト語、イスラエル時代はイスラエル語でお話をなさいます。
その当時のことをその当時の言葉でお互に話をされ、それを日本語に訳して聞かせてくださるのであります。
こういう過去の時代の自分の潜在意識をひもといて話し合える、霊道をひらかれた方々であります。                                    
こういう面でも、高橋先生をゴーダマ仏陀の再来であると思わせて頂いた裏付けであります。
また間違いないと思いましたのは、先ほど申しました阿含に説かれている教えが、先生が提唱なさっている神理正法なのであってゴーダマ・シッ夕ルダーが四十五年にわたってお説きになった教えは、つきつめれば「したい四諦はつ八しょうどう正道の法則」であるといって間違いはないのであります。
仏陀がお悟りになったのがブッダガヤのぼだいじゅ菩提樹の下で、たんざ端座めいそう瞑想をなさって真理「八正道」をお悟りになりました。そしてこれを衆生に伝えるべきかどうかと非常に思案をなさいました。
そしてぼんてん梵天に「ゴーダマよ神理を衆生に説きなさい」とすすめられて、まず誰に説くべきかとお考えになりました。
仏陀がカピラ王城を抜け出た時に、父親がその身を案じて常に側にあって修業しゴーダマを守るようにと差向けられた五人のお弟子があります。
この方々がゴーダマ様と共に修行しておりましたが、釈尊は六年間の苦行の中から、バラモン婆羅門の教えの苦行というものが本当の悟りに到達するものではないとこの苦行をお捨てになって、一人の少女の差し出すお乳をお飲みになって今までの苦行の身の補いをされたのですが、これを見ました五人の比丘たちは、もうゴーダマは苦行に耐えられなくてこの修行を捨てて堕落した、こんな人では頼りにならないと遠くに行ってしまいました。
この五人の比丘たちにまず自分の悟りを説こうと思われたのであります。そしてガンガー河を逆上って五人の比丘に再会されて自分の悟ったことを話そうとなさるのですが、この五人は頑強にこれを拒否します。
「もうあなたは堕落してしまった人だ、私たちは貴方が神理を悟ったということは信じられません」
と聞こうとはしません、そこでゴーダマは「私の顔をよく見よ、今までこれだけ輝いた顔をしていることはなかっただろう」というように申されますと、五人の比丘は「なるほどゴーダマの顔はこんじき金色に光り輝いている、それではお話を聞かせて貰いたい、然し私たちもいろいろと論議をさせてもらう」ということで、それから長い間にわたってこの悟りというものの話をなさるのであります。
この時のお話がしたい四諦の法則であって仏陀は「私は中道を悟った。
中道とは八正道なり、正見・正思・正語・正業・正命・正進・正念・正定、この八つである」と話され、続いて四諦の法則を説かれるのであります。
肉体をもった人間というものは、どうしても肉体の執着に負けてしまう。
三毒五欲の世界に流されて肉体の欲望に負けてしまった時に人生は苦しみの連続になるのである。
いろいろの肉体の欲からもたらされる結果は苦しみしかないのである。これを苦界といいます。
この苦の世界はどこからやって来たのか、なぜかなぜかと問い詰め原因を探求する、即ちじゅうたい集諦と申
します、どこから苦しみというものがやって来るのかと手繰って行ったら、これはかつあい渇愛だということ
になるのであります。のど咽喉がかわ渇くと耐えられないほど水が欲しいという気持が起こってきます。
大火といわれるように真赤に燃えたぎる火のように強力な耐え難い欲望が起こって参ります。こういう耐え難い肉体の欲望が我が身を焼き、苦しめるのであります。
次に滅諦とは、苦はどうしたら無くなるのか、これはその渇愛という我執、我の肉体の欲望に捕らわれている心を離したら苦は無くなるのであります。
これが滅諦であり、苦滅の真理であります。
我執に捕らわれている心を離して苦をなくした状態に到達する道は何か! それはどうたい道諦即ち八正道であります。
八正道は私たちが人生苦を解脱する道であります。皆さん方は苦しみを逃れるために信仰しているのではないでしょうか、これを説いておられるのが阿含の教えであります。
苦をもたらす原因を一ぱい持ったまま幸福になろうとするところに無理があります。苦しみを断ち切るにはやってくる原因――これは我執であり、渇愛であり、自分を労わる心、自分の肉体が自分だと思っている、この錯覚が苦しみをもたらします――このようなものを断ち切ることが大事なことであります。
しかし人間は永い歴史の間に、いろいろの心のあか垢というものによって、自分の肉体が自分であるという錯覚を強く持つようになったのでございます。 
これを先生は、本当の貴方は〃魂〃なんだ貴方の肉体はその魂を乗せている舟でしかないんだ、とおっしゃる。これが仏陀の教えであります。
どうぞそういう面において、皆さま方は高橋信次先生がお説きになっている神理正法が、過去二千五百四十余年の昔ゴーダマ・シッ夕ルダーがお説きになった神理正法であると思って頂いて間違いないのであります。
私は初めてお会いした時にそう感じました。だから皆さまにも先生の教えを聞いて頂きたい、皆さまが本当に幸福になって頂かなくてはいけないと思ったのです。
しかし、これは会長の一存では決めるべきではない、皆さまの教団である以上皆さまの総意によってこの方向をきめさせて頂きたいと私は願っております。
今の仏教界は、全部が掴まなければいけないものを掴んでいない、本当のことが解らない、ただ今までのしきたりをとうしゅう踏襲してだせい惰性に動いているにすぎないのであります。
教団が古くなったり大きくなったりすると、なかなか方向は変えられるものではありません。
しかし仏教を信仰する仏教徒が、ここにゴーダマ・シッ夕ルダーが再誕なされたということであれば何をおいても、それに帰依し帰一するのが仏教徒の当然のあり方であって、私のところはこうして来たからいくら釈尊がお出ましになっても私たちは今までどおりでゆきます、というようなことではこれは仏教徒ではないと思います。それは自分の道を歩いている私道であって仏道ではないと思います。
ゴーダマ様が出世なさって、それをお説きになったご本人、元祖、張本人その人が「私は法をこういうように説いたんだ」とおっしゃったら、今までの行き掛りを捨てて、当然その教えに帰依すべきであろうと私は思うのであります。
瑞法会教団が、こういうふうにこの高橋先生と昔から深いきずな絆があって、お互に因縁の糸を探り合って今会いえたのであります。
先生の教えを受けて教団の恥でもなければ値打ちの下ることでは決してないのであります。それどころか、かえって教団の値打ちが上る一番正しい教えをこれからやってゆこうというのでありますから、どうぞこれを喜んで頂きたいと思うのであります。
お経本の中にも〃三千年に一度咲くうどん優曇ばらげ鉢羅華に会うが如し〃とありますように、二千五百有余年の昔の因縁の続きとして、今、我々がいちはやくこの先生の教えを受けることになったことは非常に喜こばしいことと思います。
我々の生命(魂)は悠久であります、その間に聖者に会うということは非常に大事なことであります。
今、皆さま方が瑞法会につながって、ゴーダマ様の再誕に会えたということがいかに重大なことであり、喜ばしいことであるかということであります。
どうぞ一人でも多くの方に、また今までほとんど名前だけでつながっておいでになる方にも一度瑞法会に寄ってお釈迦様の教えを受けなさい、ゴーダマ様の教えに相逢いなさい、ちょっとでもゴーダマ様のお心をお聞きなさい、教団へ足をお運びなさい、とおすすめして頂きたいのであります。
仏の教えが信じられない人があります。こういう人はこの(この世)現象界にひんぱんに出ておられない方で、出て来た時にはもう聖者は既に(あの世)実在界へお帰りになってしまって随分の日時が経過してしまっている。だからお説きになった教えも形式化されてしまったりして有名無実になっている。こうした時代に出てくるともう神や仏というものが信じられない、また教えにも会えない、だから肉体の欲望やカルマ物質欲を充足することが一番幸福だと思って、いろいろなカルマ業を積んで実在界に帰ります。
そして積んだカルマ業によって、じごく地獄、がき餓鬼、ちくしょう畜生、しゅら修羅界に堕ちて、ここで何百年、何千年かの長い間かかってやっと潜在意識のカルマを修正して、再び現象界へ出る機運が出て来てこの世に生まれて来るのですが、その時には聖者はもう向うへお帰りになっている、また前のように教えにも会えず神や仏が信じられずに実在界に帰り、地獄、餓鬼、畜生、修羅界に堕ちてカルマの修正に何百年もかかるようなことになり、絶えず聖者とは入れ違いのような形でいつまでも教えも聞けない、教えも信じられないようになるのでありましょう。 
だから私たちは、今世でゴーダマ・シッタルダー様にお会いできて、お話を聞かせて頂ける、お教えを受けさせて頂けるということは本当に幸福なことであります。
世の中には神や仏は信じられない、神も仏もあるものか、といっている人がたくさんおられます。
こんな人はこの想念のまま実在界(あの世)に行きます。神や仏は無いという想念の世界にばかりいるから、よけい信じられない、またたまにしか(この世)現象界に出て来れないということになるのでありましょう。
またお経は大事でありますが、しかしお経をあげたら何かのごりやく御利益がある、神秘的な利益があるというような棚ボタ式の受取り方であげるということのないようにしていただきたいのです。
お経をあげたら心が安まるというようなことは功徳にはちがいありませんが単に自己の心が安まるという自己満足や、そのことを善事に結びつけてゆくというようなことは小さなことであって、己の心が浄化されない限り本当のくどく功徳ではないということを知っていただきたいのです。
だからお経をあげるのは、お経というものを自分の心に言って聞かすんだ、お経に説かれている真理を自らの生活の中に実践するんだ、お経を教科書として、お手本として、自らにこれを言い聞かせてゆく、こういうものになって頂きたいと思うのであります。
仏様の教えは、ちょうど自分の顔の汚れや歪みを映す鏡のようなもので、いくら鏡を大事にし拝んでみたところで私たちの顔のゴミや汚れを取ってはくれない、服装を直してはくれないそれと同じなんです。
だから仏様の教えというものは、私たちの心の不調和――じが自我、がよく我欲、しっと嫉妬、ひが僻み、どんよく貧欲、いか怒り、心の高振り、ひず歪み、むじゅん矛盾――を写し、示してくださるので、これを直すのは自分自身であります。
それを自らの手で直さずに鏡が直してくれるだろうと思っていたんでは当てが外れるというこになるのであります。
それから般若心経について私自身判らないままにちょっとお話し致します。先ほど申しました阿含の四諦の法則の基本になっている真理というものは、いっさい一切かいくう皆空、現在の科学が証明しておりますように、物事というものは総てくう空から成り立っている。この詳しい話はいづれ先生より聞かせて頂きますが、空とは何か、即ちエネルギー・力なんで、森羅万象すべてのものはエネルギーの厚い薄い集散離合によっていろいろと姿が違っています。
これが空の見方なんで、空はしき色にことならず、しき色はくう空にことならず、すなわち中道で、かたよ偏った見方をせずに確かりと物を見て行くこれが般若心経のくうたい空諦という見方であると思います。
このくう空というものを踏まえて、宇宙の真理と我々の心の持ち方を解かれているのが般若心経であり、これが心の根本です。
我々は、仏と同じ智慧を持ち、仏心を内在している。自分でどういおうと何を飾ろうと嘘は嘘だと教えてくれる魂が心の奥にある、この内在の仏様、内在の仏の智慧というものを開発してゆき、この智慧が人様に向けられた時、じひ慈悲となるのであります。
生活の中にそういう身の処し方、出し方、行ない方、こういう慈悲が説かれているのが法華経なのです。だから智慧を強調してるか、慈悲を強調してるかで、般若心経も法華経も真理においては何ら違わないのではないかと思います。
それを宗派の者が、これが一番だ、自分の方が正しいんだと優劣を争い、みな敵同志にしてしまったのです。たからそういう意味あいをよく知って頂きまして、お経を自己満足や、棚からボ夕餅式の功徳を願う考え方でお上げにならぬようにして頂きたいと思います。
それから導きということ、これは非常に大事なことです。縁なんですね大事なのは・・・。
この前の班長会にもお話し申し上げたのでございますが、アナン阿難という方が仏様に「私たちがよき友だちよき仲間の中に身を置かして頂きますことは、苦しみからのげだつ解脱の道、仏道を成就する上におきましてなかば中端にもなることではないでしょうか」とお聴き致しますと、仏様は「阿難よ、それではまだ充分ではない。善き仲間、善き友だちの中に身を置くことは、この道を成就するためのすべである」とお答えになった、こういうお経があります。 
即ちサンガー僧伽というもので、我々は善き正師、善き仲間の中に身を置くことが一番大事なことなので、これが仏教のすべてなんです。
これを仏様は「呵難よ、あなたたちは私という善き友だちを持っておるから普通でゆけば真理が解らずにいろいろと老いてゆく苦しみを持つだろう、また死んでゆく恐怖を持つだろう、それが私という友だちをもって真理を聞いて、自らが老というものから心が離れてゆく、また死という恐怖から解脱しているではないか」というふうに教えられており、いかに大事なことかということであります。 
またねはん浬槃じゃくじょう寂静ということが、こういうことなんで、我々の心が浄化されてくる、本当に平和な調和された心になってゆくと、真理というものは一人で味わってゆけないもので、これを共に味わいたい、共にこの思想をわかちたい、これが人間の本質です。
だから皆さまの心の調和が人を感化し、周囲に調和を作ってゆく、これが高橋先生のおっしゃっている仏国土ユートピアの建設であります。だから、どうぞこういう点に留意されましてよく先生のおっしゃる神理正法の教えを、今までのゆきがかりのために拒否したり否定したりなさることなく、本当に皆さまが幸福になられるために聖者の教えを真剣に、これから受けてゆきたいとお願い致します・・・。

GLA関西本部長

中 谷 義 雄

(昭和46・11)
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釈迦の生誕から仏教の変遷

私は十才の時に原因不明の病気になりまして、夜の八時になるときまって、呼吸困難になり、意識が不明になりました。
一回、二回、三回位は夢中でほとんど解りませんでしたが、四回、五回と回を重ねるに従って、自分自身のむくろ骸を見ているもう一人の自分を発見したのです。
私はこのような体験を幾度か経験しているうちに、科学する心を覚えました。
すなわち肉体は自分だと思っていましたが、肉体を離れた自分は苦しみのない自由自在な自分でありましたので、これは一体どうしたわけかと考えたわけです。
そういう体験を通して約半年近くは、ほとんど夜になりますとそのような現象が起こります。医者に見てもらっても原因不明で解りません。
そのために私の頭はお灸と針でゴツゴツになってしまいました。
私は鎮守の森にあります権現様に十才の子供ではあったが、毎朝早く、また夜通いまして一心に自分の病気を直してもらいたいと、約六年間続けたのです。
しかしそのような神との対話を求めて、一心に信仰的な行為を致しましたが、神は、一度も私に話しかけてくれたことはありませんでした。
こうしているうちに肉体の方はどうにか快復しましたが、もう一人の自分は、もう肉体から離れることはなくなりました。
このような謎が私の人生を大きく変えてしまったのです。かくてもう一人の自分を探し求めるとともに、極微の世界、素粒子の分野を探究することによってこの問題を解決して見ようと考え、物理学を学んだのであります。
物質というものはプロトン(陽子)・ニュープロトン(中性子)とエレクトロン(電子)の構成による一つの原子があります。
水素原子は電子が一つ、ヘリウム原子は電子が二つ、リチウム原子は電子が三つ、こういう極微の世界の構成というものが次第に解るに従って物質とエネルギーというものの実体が解って参ります。
私たちが目にとらえうる物質はすべて仕事をなしうる能力、すなわちエネルギーをもっている。
ガソリンはガソリンとして、石炭は石炭としてのエネルギーというものの存在を私たちは現在科学的にも実証できる段階にあります。
そうなりますと、物質と仕事をなしうる能力、エネルギーの存在は、仏教的に申しますと色心不二ということになりましょう。
肉体(物質)と魂(エネルギー)は共存していますが、魂を見ることが出来ない。しかし不二一体であるということが解りかけてきたのです。
続いて私は極微の世界以外に、この極微の世界の延長されたものが、大宇宙体を作っているということに、その研究の道が開かれてゆきました。
私たちの住んでいる太陽系は、水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星並びに地球という九惑星以外に、三萬数千個からなるアステロイド小衛星ベルト集団を引き連れており、一秒間に二十キロの早さで銀河系宇宙の中を飛んでいるという事実です。
極微の原子核においても、極大の宇宙においても、その組合せというものは、一つも違っていないということに気づいたのです。
しかしいかに物質的な極微の世界や極大の世界を探究したとしても、しょせんは人間自身の肉体と魂というものまで解らなかったのです。
しかし一方において私は事業という経済環境を確立しなければなりませんでした。弱電機器事業の外、いろいろな事業もやっていますが、そういう経済的基盤を背景にして、もう一人の自分を発見しよう、そうしてこのもう一人の自分を発見することによって、神、仏という存在がはっきりと自分自身に納得でさるような現象が起こるであろうとの予測のもとに、あらゆる分野にわたって研究追求して参りました。
ところがもう一人の自分を発見する昭和四十三年の七月以前にさまざまな霊的な現象が起きていました。
たとえば、私は十五年も結婚しているけれども子供ができないのはなぜだろうか、という質間をされれば、私が持った一枚の紙にそくざに、生年月日・子供の姿までもズバリと写し出されてくるのであります。あるいはまた自分が予言したことはすべて一致する。
しかし私一人がいかにそのような超能力を持とうとも多くの人々によってそれが客観的に証明されない限り、私は信じません。
そのような霊的体験を積むに従って、四十三年の七月、たまたま家の中に大きな霊的現象が起きてきたのです。それは全く日本語と異った言葉で現象がでてくるのです。
ドイツ語や英語は学校で習っているから私にはある程度解ります。けれども全く解らない言葉で語られる霊的現象が起こり始めました。
私の義弟は理科系の出身でありますけれども、神仏というものは全然信じていません。
全然信じていない義弟に、霊的現象が起こり始めました。ヘブライ語をまじえ外国語訛りの日本語で私の子供の頃からのいろいろな諸現象を彼の口を通して語り私自身の心をすっかり占領してしまいました。
たまたま浅草に八起ビルという貸ビルを私が作っている時に、東京都の交通局との交渉をもっていました。
当然お役人と事業上の問題で打合わせがあります。夜は夜で料理屋に行って打合わせをする。一日の私の生活は本当に目のまわるような状況です。
ところが、そうした毎日の私の想念と行為にたいして、その霊はことごとく私の後についているように、何もかも知っており、そればかりか、私の心の奥底までほり下げて厳しく指摘してくるのです。私はわずか一週間の間に八キロもやせてしまいました。
三十数年間探究し続けてきたところのあの世、霊的なもう一人の自分というものが、こんな厳しいものであったのか、こんなにもあの世というものは恐ろしいものなのか、私は本当にわからなくなってしまいました。
自分の心を一つ一つ監視され、今やった行為を次々と指摘されていったらどのようになりますか、気の弱い人だったら狂ってしまうでしょう。自己保存の思いは思ってもいけないといわれるのです。
しかも厳しく、それが日本語で喋るならまだしも、外国語訛りの難しい解らない日本語で語るのです。そのうちに、そうした状況の中で私は三日間で悟れといわれたのです。
悟れといっても悟る意味さえ解りません。私は本当に困ってしまった、しかし今さら放り出すわけにはゆかない。
やめるわけにはゆかない。そこで高野山の奥の院から、上野東叡山寛永寺に、そうして千葉の中山寺奥の院にも行き、ともかくここぞというところへまいりまして、現在起こっている現象を説明してまわったのですが、正しくそれを判断してくれる人はいませんでした。
私は本当に困惑してしまいました。私をして一週間も苦しめた者は何者だろう。悪魔ではなかろうか。有名な僧侶に会っても何一つ解答が得られない。
三日目の夜、私は一切をあきら諦めた。地位も、名誉も、財産も、そして生命もいらない。
私を苦しめた者は悪魔に違いない。悪魔ならその悪魔を善にかえてやろう。私は生命を投げ出し、悪魔と対決したのです。
「悪魔よ私の前に出てきなさい。悪魔であるならば、あなたたちを善に変えてやろう。それによって、私の生命が欲しいというのであればあげてもよい」
私がこう決意し、思った瞬間に、今まであれほどきびしいことをいっていた霊はガラリとその態度を変え「今晩はお祝いだ、お前自身のたゆに一週間の苦しみを和げよう」とコロッと変わってしまいました。
私はのうさいぼう脳細胞を犯されたのではないだろうかと、東京大学の医学部の神経科に行って見て貰いました。
異常がないばかりか最も正常だといわれました。こういう体験を通してそれ以後は弟の霊的現象はピシャッと止まってしまいました。
今は全然出ません。九月にはいってから、私の会社に手伝いに来ていた妹に光を与えた瞬間に過去世を思い出してしまいました。
そうしてあらゆる諸現象を見通し、さまざまなものが見えるようになってしまいました。
続いて十月に入り、私の家内がまた同じように解るようになってしまいました。すべて心の中を見通されてしまいます。
しかし人間というものは、執着を離れてしまえば丸い心になってしまいます。
そのために自分の心というものに対して誰に監視されていても、もう晴れやかな丸い大きい心になっていますから心配ありません。
そのような体験を通して事業をやっていましたから、やがて多くの人々が私の家に出入りするようになってきました。
三度の飯より神様の話をしていた方が好きな私のことですから、お客さんであろうが何であろうが、神様の話をしてしまいます。仏教もキリスト教も何も知らない全く我流の話でした。
そのうちにだんだん私自身の心の中にある転生輪廻を繰り返して来た心のテープレコーダーがひもとかれてきました。
人間の生命が不滅であるということもだんだん解るに従って私の家を訪ねてくる人たちも、次々と心の窓が開かれてゆきます。同時に皆さまの肉体舟の船頭さんである皆さま自身の魂がどのような転生輪廻をして来ているか、過去・現在・未来の霊的な諸現象を見る能力を得ていったのです。
そこでそのような心のテープレコーダーをひもといて、仏教がどのような変遷を経てきたかということを皆さまに説明したいと思います。
今から二千五百余年前、インドのカピラというところに、ゴーダマ・シッ夕ルダーといわれる方が生まれます。それより以前約二千年前にクレオ・パローターといわれる道を説く人がエジプトに出ています。
実在界あの世において、この地上界に出る光の天使たちの選考が始まった結果、クレオ・パローターの過去世を持つその天使がカピラという場所を自分自身が選び出生することになりました。
インドを選んだ大きな理由は、自分自身を悟るにはもっともつごうがよい場所であり、伝道の環境が整っているからでした。カピラ・ヴァーストという環境は、まずコーサラという大国の属国で、小さい砦のような城市で、共和制体をとっている国であります。
そのためにいつ敵から襲われるかわからない。そしてまたシュット・ダーナー王、マヤ妃という両親の間に子供がありません。
母親は同じシャキャ族のコリヤ族というロッシニー河をはさんでデヴァダバ・ヴァーストという城市の娘であります。
このような二組、これはもちろん当時日本の戦国時代と同じように、非常に政略結婚というものがインドでもはやっておりました。
そういう環境をまづ選んで生まれると同時に一週間目にして母親をあの世に引き取ることになっております。
ややもすると私たちは死というものについて非常に恐怖心を抱くものですが、あの世から見れば、決して死は恐ろしいものではないのです。
こういう環境の下においてゴーダマ・シッタルダーの義理の母親マハー・パジャパティーにはナンダという子供ができてしまいます。これもあの世で計算してあります。
そうして人生に対する無常を感じる環境というものを選定してくるのです。このように環境は極めて不安定な状態です。
武力もたいしてないし、大きな国が攻めてくればカピラなど一発でやられてしまいます。それから食事にしても毒味をする人がいます。敵のスパイがひそ潜んでいるからです。
このような不安定な場所にあっても人間というものは、慣れてしまえば不思議なもので、そういう環境の中においても育ってゆくものです。
しかし自分の生活環境の中から人間というものはなぜ生まれ、年をとり、病気をし、死んでゆくのかという疑問が心の中からドンドン涌き出て参ります。
一方またカピラ城の生活は優雅であり、春は春の館、冬は冬の館で、いつも取り巻きには美しい女たちが何人も仕えています。
しかし生活が優雅であればあるほどシッタルダーは無常を感じていきます。一歩城を出れば酷しいカースト制度というものによって生活環境は、城の中とは百八十度異っています。
ここでも生活の矛盾につきあたります。同じ人間でありながら、生まれながらにしてこのような差別はなぜあるのだろう。ゴーダマ・シッタルダーは考え始め、疑問は疑問を生んで自分自身で解決することができなくなってゆきます。
しかし父親のシュット・ダーナー王はなんとか自分の跡取りを安心させたいとして、やはり義理の母親の里であるところのデヴァダバ・ヴァーストからヤショダラという娘を嫁に迎えます。
十七才の時です。当時のおうこう王侯きぞく貴族というものは一夫一婦でなく、一夫多妻でありました。とうぜん女同士のあつれき軋轢が生じて参ります。悩みは更に自分自身の作り出したものによってふく膨れあがってゆきます。
二十九才のおり、シッタルダーは、遂に家を飛び出す決心をしてしまいます。城を飛び出し人間の苦しみというものをどのように解決していけばよいのか、一子ラフラをどうすればよいか。
ラフラ出生の際には父親のシュット・ダーナー王から二人の子なのだから二人で相談して決めよといわれ、ラフラと命名した。
もちろんそう命名したのはシッタルダーであります。出家を妨害するという意味で、ラフラとつけた。
ラフラとは障害物ということです。ラとは石、フラとは橋、当時は吊橋が多く、橋の上に石が置いてあっては危なくて渡れない。いつ吊り糸が切れるかわからないからであります。
このようにして家庭的には不調和なゴーダマ・シッタルダーでありましたが、ある夜、遂に自分自身の生老病死という苦しみの問題を解決するために出家し、その後約六年余り中インドを中心にして修行をするのであります。
しかし肉体的な酷しい修行によって悟ることができないということを三十六才の時、ネランジャラの河のほとりに一人のチュダリヤ・チュダーターという牧場の娘が乳をしぼりながら
「げん弦のね音は強く締めれば切れてしまう、弦の音は弱くては音色が悪い、弦の音は中程にしめて音色が良い」
という民謡をうたっているのを聞いてしまいます。
その歌をきいて人間というものは城の中にいて優雅な生活をしていてもためだ、悟れない。
逆に滝や断食など酷しい肉体修行によっても悟ることができないということを初めて悟るのでした。
その結果、ウルヴェラという村のピパラー(菩提樹)の大木のある丘に上って、己が悟るまではここから一歩も動かぬと堅い決意をします。
いうなれば死を決して中道の物差しをもって、誕生から三十六年間の地上での生活行為の一つ一つを反省し、自分の心というものが常に丸く、大きく、広い心であったか、人を恨み・妬み・誹り自分のことしか考えなかった過去の心を修正していったのです。
瞑想をはじめて一週間目です。瞑想していると眼前にある正覚山、そこから昇る明けの明星が自分の足の下に見えてきた。体は宇宙の姿になってしまって自分の肉体は遙か下方に小さく見えています。
自己の中に宇宙があり、宇宙は即ち我であるということを発見するのです。同時に生老病死の原因、苦しみの原因というものはどこにあって、その原因をとり除くには自分自身の心と行ないにあるということを悟っていくのです。
二十一日間、ウルヴェラにおいて自分自身の過去を反省しつつこのような神理を諸々の衆生に話したところで解るものではない、このまま死んでしまをうと決心をした時に、バフラマン(梵天)が出て参ります。
梵天の名はモーゼやクラリオ(イエス・キリストの分身)といわれる光の天使たちです。
「ゴーダマ、その方は今までこのような苦しみの中から今悟りを開くことができた。この苦しみの原因を追求し、この神理を諸々の衆生に教えなくてはならない。お前がたとえ命を絶とうとも、そして地球の、宇宙のどこの隅に逃げようともあの世にこようともお前をそくざに帰してやる。それはお前自身が生まれる前に約束してきたからだ」。
梵天からきびしくいわれる前に、ゴーダマの心の中にいろいろと誘惑や悪魔が出てきて、
「ゴーダマよ、そのような神理を説いたところで人を救うことはできない。お前はそんなことをやるよりか自分の国に帰って優雅な生活をした方が幸せだ」
といってゴーダマの悟りを邪魔します。こういう諸現象は私にも起こりました。
お前は事業家として力をつけていけば月に何十億という金が入ってくる。よけいなことを考えず事業だけしておればよいではないか。
お前はあの世があるなんてうまいことを説いているが、あの世なんか無いよ。そんなことをやめて、もっと優雅な生活をやったらどうだ、と私にささやきます。
そんなとき私は「お前はどこから来ているのだ、お前はあの世の者だろう」といったら「解っちゃ話にならない」
といって帰ってしまいました。インド時代のゴーダマ・シッタルダーの周辺にもこういう問題が起こって参ります。
さてこのような経過をたどって、ではいったいいかにして人々に説いていけばよいのか、ゴーダマは悩みます。けれども心の窓が開かれてしまいますから、今説かねばならない人々が身近にいることを知ってしまいます。
ことに悟りを開くまで、カピラから苦楽をともにしてきたコースタニヤ、バッテイヤー、マハー・ナーマン、アサジなど五人の人たちがいます。
ネランジャラ河の周辺でゴーダマ・シッタルダーが口にした牛乳の一件でゴーダマ様は修行を捨てた、あのような者と一緒にいてもしようがない、私たちは別のところで修行しようと、去っていった人たちが思い出されます。
心の目にハッキリとその人たちがイシナパタにある川の流れている小高いところにいることが解ります。
守護霊に聞けばパラナッシーのミガダヤというところにいることがハッキリと解ってしまいます。中インドラジャグリハから西南の方向に向かって約三百キロメートル入ったところにウルヴェラというところがございます。
そこから四百キロメートルはなれているところです。心の中でチャンと判ってしまいますからネランジャラ河をどんどん下っていきます。サラタプトラからさらに西方へ入ってきますとパラナッシーという都があります。
そのはずれに彼らが修行所として定めたイシナパタといって仙人たちがいっぱい修行しているところがあります。
ここは現代の仏教と同じように、釈迦の前世クレオ・パロータが説いたバラモンの経典であるヴェーダーやウパニッシャドという神理が存在しているのです。
すでに二千年前、インドにおいてこのような道がハッキリと説かれたのでありますが、時代とともに哲学化されてきたものであります。
ゴーダマ・シッタルダーは小さい時からそのようなバラモンの先生について神理というものを学んでおります。ある程度のことは解っております。
バラモンはまず十二才頃までは、日本でいえば寺子屋のようなところでヴェーダーという神理を教えられます。
そうして十二才から二十五、六才・三十才頃までの間に家庭に入ります。さらにまた三十才、四十才を過ぎまして自分の子どもが一定の年になりますと彼らは再び山の中に入り修行をします。
このような人々をサマナーと呼んでいます。続いてサマナーを卒業し遊行の旅にでる人たちをサロモンといっております。
修行者ということです。このようにミガダヤというところにはバラモンを含めてあらゆる宗教家の人たちの修行所として多くの仙人たちが集っております。
その場所をゴーダマ・シッタルダーはそくざに解ってしまい彼らに会う前にコースタニヤの心の中を読んでしまいます。
「ゴーダマが来た、あの男が来ても、もう既に王子でも師匠でもない。我々には関係がない。たとえ来ても足をすす濯ぐではないぞ、アサジ解ったか」
このようなことをいっていますが、みな、心の中にピンピン響いて参ります。
ゴーダマの姿を見ても見ぬふりして彼らはボソボソ話をしています。四十四、五日もかかってパラナッシーの都を去り、ようやくミガダヤについた朝、彼らはゴーダマが来たということでさっそく予定の行動をしておりますがつつぬ筒抜けです。解ってしまいます。
だからゴーダマ・シッタルダーはそれにかまわず彼らに近寄り
「お前たちは今このように修行をしているけれどもそれはむだなことだ、そんなことをしていたら、私がかって肉体的に不調和をきたして死んでしまおうと思ったあの時のように痩せおとろえた姿になってしまう。きびしい肉体行はやめるがよい」。
懇々と話をすると、いちばんかたくなな心を持っていたコースタニヤが以前の師弟の関係の時と同じように足をすす濯ぎ始め「シッタルダー様、あなたは顔色が前とはだいぶ異っております」といってゴーダマの足下にひれ伏してしまいます。
「そのとおり、私は四十数日前に、ウルベラにおいてついに悟りを聞きブッタになることを得た。お前たちの心はすみずみまで解ることができるのだ」
といいます。彼らはブッタの最初の弟子になっていきます。
コースタニヤはカピラ・ヴァーストでクシャトリアといいまして武士階級であり彼はサムライ大将だったのです。他の四人よりは剛直な面が強かった。
しかしブッタの言葉に素直になり師弟の関係を結んでいくのです。五人はいずれもクシャトリアであり、弓や槍をよくつかい、みな体の丈夫な人たちであり、シュット・ダーナ王(シッタルダーの父親)の命によってゴーダマ・シッタルダーを守るために出ている人たちです。
しかも彼らは六年も出家同様の生活をし、生老病死の問題について、悩んできていますから、ブッタの言葉に真剣にならざるを得なかったのです。
ブッタはいいました。四つの苦しみから解放される道は中道の道しかない。つまり八正道の実践行為の中においてこそお前たちも悟ることができるのだ。
といって教えている間に、コースタニヤがまず自分自身がクレオ・パロータの時代において今、眼の前に立っているゴータマ・シッタルダーの前世においても共に同じ神理を聞いたということが解ってしまいます。
心のテープ・レコーダーの窓が開かれたのです。続いてマハー・ナーマンも心の窓を開いてしまいます。バッテイヤも開いて五人の人たちがついにアラハンという一つの境地に到達してしまったのです。
現在の私たちのグループの中にもこの神理を聞いて、自ら心の窓を開き、あらゆる諸現象を自分自身が見出す力を持った人たちがだいぶ出ています。昨目も堺の講演におきましてわずか二回しか聞かない学校の先生が心の窓を開いて、中国の時代の言葉を語り始めました。
この中にもいるのです。皆さん自身が心というものを知り己自身が一切の執着をはなれて調和された日々の生活をしている時に、皆さん自身の心のテープ・レコーダーは神の光によっておのずとひもとかれていくということであります。
インドの当時も心の窓をひらいた人たちは多くの人々に道を説いていきます。六番目の弟子にヤサというのがいます。
パラナッシーの大金持の一人息子で、女性問題で悩みガンガーの河に身投げをしようとする時にゴーダマ・シッタルダーが通りかかります。
「お前は今死のうとしているけれども、そんなに若い身空で死ぬなどもってのほか、自殺は神が与えた大事な生命を粗末に扱うものでもっとも恐ろしい行為である。自殺すれば長い期間あんこく暗黒じごく地獄に堕ち苦しまねばならぬ。心を静め、なぜ死のうとするのか、よく考えてみよ・・・」。
このようなことを懇々と説いた結果、ヤサはゴーダマ・シッタルダーの神理にふれ、やがてアラハンとして立派に立ち直っていきます。
ヤサの周辺の人たちもゴーダマの弟子になっていきます。人間という者は不思儀なもので、自分が育ったところや修行した場所というものは懐しいものです。
ブッタはここにしばらく滞在すると、出家して最初の修行地であるマガダ国のラジャグリハに向かいます。
ここの郊外にラジャグリハの王であるビンビサラという方がおります。年も同じです。
出家して間もなく、ここに立寄るとビンビサラはこういいます。
「あなたも知っていると思うが、今の私はウルベラ・カシャパーといわれる立派な師について道にはげんでいる。よかったらそのカシャパーに紹介してもよいが」
しかしゴーダマは彼に会っても大した結果は得られないと思い、今日まで一度も会っていなかったのです。
しかし今度はそのカシャパーに会い、彼の修行の誤りを指摘し、過去世において神理を説いたことを理解してもらおうと思います。
カシャパーはガヤ・ダナというところで修行し、拝火教をやっております。木をいげた井桁にくんで一心に祈りを捧げ火の神を祈っております。その時たまたまお祭りの日だったのです。
ゴーダマ・シッタルダーは一人でたくはつ托鉢のわん碗をもちながら山を登ってゆきます。泊る場所がないために洞穴の中でねます。
彼らはゴータマ・シッタルダーという人間は知らないけれども、どうもこの野郎は臭い野郎だ。顔を見てもふつうの修行者とはどうもちがう。
当時のインドの行者の人たちは特にウパニッシャウドという学問を習っており、ヘりくつ理屈がうまいのです。
そこでこれはバラモンの相当研究した人ではないかとみています。ウルヴェラ・カシャパーはビンビサラ王から聞いていますからなるべく遠ざかろうとします。ところがお祭も終わった次の日、ブッタはウルヴェラ・カシャパーの心の中をみな読んでしまいます。
「カシャパーよあなたの心はこのように燃えている火であってこれでは正しく物を見ることはできない。あなたたちの組織もまた同じように燃えている。宇宙の仏というものは大自然を育て生かしているものであって火のように燃えるものではない。人間の心が燃えていては正しい判断ができないばかりか自然の心を知ることさえできない」
と説きます。彼はブッタの説法にはじめて目がさめ、九百七十人近くの弟子と共にゴーダマ・シッタルダーに帰依してしまいます。
昨日、大阪で心を開いた方は当時のナンディヤ・カシャパーという二番目の弟です。
このナンディヤ・カシャパーとクナンダ・カシャパー、この人たちも帰依しますが、兄貴の姿が見えないので、山賊に殺されたのではないだろうかと心配します。
川から流れてきた祭壇を見て、ウルヴェラ・カシャパーは殺されたのだと判断しますが、村の人たちに聞くと修行者といっしょに山を下り、ラジャグリハの方へ行かれると言っていたとききます。
二人は兄貴に会い、事情をきき、兄弟三人とも帰依してしまいます。ビンビサラの親戚のガランダといわれる方はベル・ヴェナーというちょうどラジャグリハの南、約二キロメートルばかり行った山の間に竹の林がありますが、その竹の林に法座を設けた建物を作ります。
これがベル・ヴェナー、日本語で申しますと、ちくりん竹林しょうじゃ精舎といいます。こうしてブッタの教団は次第に大きくなってゆきます。そうして神理のあり方、人の道、人間は心なりというその神理を説いて執着の苦しみから人々を解放していきます。
四十五年間中インドを中心にしてあらゆる国々にブッタの神理が広まっていきます。やがてクシナガラの地においてゴーダマ・シッタルダーは八十一才、この世を去ろうとする時にブッタの陰のようにしたい身の回りを世話してきた秘書のアーナンダが問います。
「ゴーダマ様、あなたさまがこの世を去ってしまったら、私たちはどのように道を説いたらよいでしょう」
「アーナンダよ、お前はそのようなことをいうのではない、お前たちは四十五年間、わしと共に悟りへの道、ブッタ・ストラーの神理を学んだはずだ。お前の心の中にわしのこの神理があるということを知りなさい。私を思えばお前たちの心の中に私はいるのだ。人間というものはいつどのようになるかも知れないが、しかしお前たちは、自分自身の心の偉大さを知るために、道を怠ってはならない」
またブッタは永遠の輪廻転生を説くのです。
「西の方へ太陽が沈めば暗くなってしまうが、また明日になれば同じ太陽が東から出て明るくなるように、わしもまたそのようになろう。やがて後の五百才後においてその道を説く時は、ジャブ・ドーバー(日本)ケントマテイー(都)の国に出るのだ。その時には今このように汚ない足を濯ぐことなく、道も美くしく、道路の周辺には立派な建物ができており、それはルビーやダイヤモンドで作られていることであろう。この時にそのジャブ・ドーバーの都では、既に仏教(ブッタ・ストラー)は形式化され末法の時代になっているであろう」
と多くの弟子たちに教えます。
たまたまなくなるしばらく前に一人の年老いた老人(シュバリダ)が参ります。
この方は今、心の窓を開いて本日ここに来ていますが、当時私たちはマガダ語という言葉をしゃべっていました、この方は当時は百十七才近くの老齢でございます。
自分自身が足もこのようにやせおとろえて、すでに相当な年齢のために杖をついて参ります。
しかしゴーダマ・シッタルダーはその時に、この方の前世シュバリダが何を考えているか解ります。
「最後の弟子が来た、アーナンダ、わしのまくらべ枕辺につれてくるがよかろう」
その時、シュバリダはこのように問うてきます。
「ゴーダマ様、本当の神理はどのようなものか、インドには多くの修行者がいて、我こそは本物だ、我こそはブッタといっているけれども、神理というものはどのようなものか教えて欲しい」
シュバリダはあらゆるところの門をたたき、百十七才になるまでその神理を本物であるかないかを探し求めて、死の直前にブッタに会うことができたのです。
その時にゴータマ・シッタルダーは真に人間自身の生老病死の苦しみの原因を断ち、八正道の実践を生活行為の中に生かしているものこそ、真の正道者であるということを説いたのであります。
そのとき彼はついに、自分の考えていることと同じであると悟ったのです。
「ゴーダマ様のニイルヴァナ涅槃に入るところを私は見るに忍びません。一足お先に失礼します」
といって百十七才の老齢をそのままパタンとそこに倒れてこの世を去ってしまいました。
このシュバリダという人は、長い年月バラモンやあらゆる宗教を学んできておりますために、当時本当の悟りへの境地ということは知らなかったそうです。
彼はついに百十七才、最後の土壇場において神理を己自身が知って息をひきとってゆきます。
そのために続いてこの方は中国に、二世紀に生まれて神理を説きました。(I氏が過去を語る)
「・・・・・この大河のはんらん氾濫にあい私は両親にはぐれました。そして出家をし仏の道を探究したのでございます。そして広い中国をすみからすみまでいろいろと旅を致しました。そしてあみだ阿弥陀じょうど浄土、今の言葉でいいますと西方浄土に、人々はこの世を終えた後、善いことをした人はそこに生まれ変わり、悪いことをした人は地獄という光のない世界に行かなければならない。人々はたとえどのように環境が苦しかろうと、どのように辛らかろうと心は常に明るい希望をもって生きてゆかなければということを人々に説いたのでございます。テンシンと当時の名前を申します・・・・・。」
このように人間の生命というものは、あらゆる国々を転生輪廻し続けています。
四十五年間にわたってブッタが説かれた神理は中国に渡りだんだんと仏教というものが儒教の影響をうけて非常に哲学化されてゆきます。インドの当時に説いたその神理は、方便というものを通して説明したのです。
皆さまは南無妙法蓮華経を唱えている。
その根本も、最初は天台山においててんだい天台ちぎ智が、法蓮華僧伽呪(ほうれんげさんがんじゅ)として説いたのです。
法とは仏の心、仏の意志、神理、蓮華とは汚ない泥沼の中においても美しい蓮の花が咲くように、人間の肉体というものは、目を見れば目糞、鼻からは鼻糞、耳糞、汗、一つとしてきれいなものは出ない。
しかし心というものは宇宙の神理を知って日々の生活をしていたならば、あの美しい蓮の花と同じように、安らぎの境涯を送ることができるのだ、このように説いたのが法華経の根本です。
特に天台山においてはゴーダマ・シッタルダーの分身、ちん陳という少年が十七才、また同じような運命にさらされます。
いくさ戦に敗れて父親や母親や兄弟たちとバラバラにされ十七才の時に、陳少年は当時のほうらいさん蓬莢山というところにおられたなんがくえし南岳慧思という僧侶の下で修行するようになります。
南岳慧思といわれる僧侶は法華経を学び、それも夜ねむっている時にみろく弥靭ぼさつ菩薩が枕辺にきてその神理を説いていきます。陳少年は後の天台智という人です。
約二十年間慧思の下で修行をし、陳少年の兄が天台山というところは非常に見晴しもよいし、おまえは一つ天台山へ引越して来ないか、といわれ、天台山に入り、仏教の道を説いていきます。
天台智は、人の心は一念三千であり、本来誰しも広く大きな心を持っているが、一念の思うこと考えることによって、善にも悪にもつながり、悪を思えば小さくなってしまう。
大きな豊かな心を持つためにはしかん止観によって心の針を正さなければならないということを説きます。
まか摩訶しかん止観はこうして生まれ、そうして人間のあり方ということを次々説いてゆきますが、次第に哲学化され解らなくなって参ります。
その当時天台山の僧侶でありました方がここに二人おられます。
その方にちょっと当時の模様をきいて見ましょう。(NGが、まずチベットの経文の一節を唱え、続いて当時の模様を語る)
「私は高橋武様の過去世であるチコータとは朋友でございます。共にチベットにおいてラマ教を学びましたが、中国の天台山に陳様と申される高僧のおられることを知り、共に入国し法華経を学びました。今私が唱えました経文はチベットにおいて唱えた経文です。それでは法華経に帰依してからの経文を唱えさせていただきます」(経文を唱える)
これが五世紀から六世紀にかけての法華経です。
つづいて八世紀に日本からは比叡山延暦寺を作りました伝教大師最澄が留学され天台山においてその神理を学び日本に持って参ります。
このようにして比叡山延暦寺で説かれたその神理は妙法蓮華経と日本的に変えられてゆきます。
つづいて十三世紀に入って日蓮はさらに南無という言葉をつけ南無妙法蓮華経という形に変わってゆきます。
こうしてだんだんと他力本願に変わり、お経はあげることに功徳があるという間違った考え方になっていったのです。
私たちはお経の意味も、またインドの時代に説いたその神理というものも人間というものの偉大さ、神の子として仏の子としての偉大なる己自身の心を悟るということ、その中に己自身が神の子として偉大なる仏智をひもとき転生輪廻の永遠の生命を悟って、人間らしい調和された世界を作るというのが本来の仏教の根本的な意味です。
私たちはこのようなことを知った時、皆さまの心の中には神の子として偉大なるあらゆる国々を転生輪廻して来たところの仏智というものが存在しているのです。
その仏智は皆さま自身の潜在されているところの九○パーセントの意識の中にかくされており、それを具現し永遠の生命の中の今の修行に自覚を持たれることが大事なのです。それにはまず人間は足ることを知ることです。
私たちの現代社会は人間の作り出したるところの物質文明の奴隷に変わっております。お互いに歴史の中に作りあげられた資本主義、社会主義においてもその根本は、物質経済であり、相争いながら文明社会が発達するという不調和な理論を生んでしまいました。
いかに、皆さま自身に財産があろうとも、地位があろうとも、この世を去る時には皆さまは、自分の愛する妻も子供もすべて置いていかなければならないのです。
金ももっていくことはできません。物質文明経済というものはただの生活の知恵であり、魂修行の手段にしかすぎないことを自覚しなければならないのです。
足ることを知り、与えられた環境の中で正しく仕事をし一心不乱に実践行為しつつ、一日一日の心の中に、恨み、妬み、謗りの心がなかったか、あるいは心の中に思わなかったか、あるいは行動をしなかったか、一つ一つ皆さま自身の心の調和度というものを、布団の上でも好いから静かに反省し、心というものを磨いていってご覧なさい。
皆さまの心は怒り、謗り、妬み、自己保存、自分の立場ばかり考えていると、一念三千といって、悪の一念の心は悪の世界に通じ、広い心をますます小さく狭いものにしてゆきます。
私たちは恨めば恨む世界に、あるいは慈悲を与へれば慈悲の世界に通ずることを知るべきです。一念三千の心を常に平和と安らぎの人々に対して慈悲を与え、愛を与える生活をするならば皆さまの心の針は常に光の世界に通じ真の安らぎある皆さま自身をつくりあげていきます。
病気や色々な悩み、苦しみこのような心をもっている時は地獄の世界に通じ、心は不安と動揺をくりかえすことになります。このように一念三千の心を神理にそって常に調和された日々の生活をし、光の世界に常に心の針を向けた行ないをする時に、皆さま自身の心の中には神の光がさんぜん燦然と入ってきます。
太陽の熱・光のエネルギーは地位、名誉、経済、学識全く関係なく総べて平等に与えられているのです。神の光も万生万物にみな平等に与えられているのです。
この神の偉大なる慈悲と愛の光を受けとめないのは、皆さま自身の心の中の恨み、妬み、謗り、自己保存という暗い想念が曇りを作ってしまうからです。
この曇りを皆さま自身は作らないことです。
皆さまはそのことをよく知り常に自分自身を正道の道を通して日々の生活をし夫婦は円満に、調和された日々の生活をすることが人類に課せられた目的であり、使命です。神の体であるこの地球上という場は大宇宙体の中の小さな細胞にしかすぎません。
この細胞こそ大神殿であり大仏殿だということです。皆さん自身の心の中に、偉大なる大仏殿、大神殿が存在しているのです。
このように偉大なる大神殿の下に我々は、先ず人と人との心がお互いに嘘のない生活をしお互いに助け合う日々の生活環境をつくることによって、私たちはこの神の体である地球上も人間の心と心の調和によった平和な仏国土、ユートピアを築きあげていくことができるのです。
そのようなことを皆さまが知り、共に皆さま自身が永遠の生命の中に転生輪廻を繰り返してきたところの皆さま自身の業というものを、修正しなければなりません。皆さまは過去を知りたいというならば、それは皆さまの今考えていることと行なっている今の姿が皆さまの過去、現在を集約した姿と思ってください。
そのようなことを皆さまが知ったならば、我々は今このような縁により、皆さま自身、心の中に偉大なる光の息吹きが、そしてこの地上界に平和な、争いと闘争をなくしたところの万物の霊長、神の子としての真の道を実践してゆかなければいけない、ということを気づくのです。
このように真の仏教というものは皆さま自身の心の中に、かっては中国に生き、ある者はまたイスラエルの地において受けたイエス・キリストの神理が、皆さまの意識の中に記録されています。また私たちはこの地上界に生まれてくるには決して地獄から来たのではないということです。
皆さまは丸く大きいひかり輝いた偉大なる神の使徒としてこの地上界に肉体をもっているのです。それも皆さま自身はあの世において自分の両親を自分で選び、そしてしかもあの世において登録されて、皆さまはお父さん、お母さんの精子と卵子と調和された時に、初めてあの世に通信され皆さまの意識が入ってくるのです。三ヶ月位たちますと大低十センチメートル位の大きさになり五体というものが形成されて参ります。
その時にあの世から皆さま自身の意識が丸い大きなすべてを悟りきった生命でお母さんの腹の中に入ってくるのです。
そのために三ヵ月目位になりますと、お母さんと子どもの意識が調和されないためにツワリという現象が出て参ります。もしこの中でツワリで困っている人があればそくざに直してあげます。
これは子どもの意識とお母さんの意識が調和されないためなのです。このようにして十月十日たち生まれてくる子どもというものは、親の教育、思想、環境そのものによってだんだんと育っていくうちに、偉大なる智慧、偉大なる神の力を失って人間は苦しみと悲しみを作ってゆくのです。
この地球上の善と悪の作り出された環境の中に皆さまは修行してゆかなければならないのです。
その中から皆さまの心の中を自ら紐解き、神理のたいどう胎動に気づいた時に、今、自分自身の現在が大事だ、今の一秒一秒の積み重ねの中に皆さまの偉大なる仏智が、偉大なる神の智慧が、具現してくるということになるのです。
このように私たちは漸く三十数年間、極微の世界から極大の世界を学び、学ばなかった仏教の神理、学ばなかった国の言葉が次々と出てくるのであります。
皆さまも人間として生まれた真の目的と使命というものを果たしてこの世を優等生で卒業していただきたいと思うのであります。たとえ貧乏人に生まれようとも、それは皆さま自身があの世で選択してきたからなのです。
金があり、環境がよければ、生活におぼれ地獄に堕ちてしまうために、そうした環境を選んできたのです。
自ら悟れる環境を選んできたことを知って欲しい。貧乏だからといって決して皆さまは悲観することはないのです。
皆さま一人一人の心は神の子として偉大なる智慧と偉大なる愛と偉大なる慈悲をもっているということを皆さまは知らなくてはいけません。
それだけに今を大事にお互いに手をとり合い争いと闘争の現代社会を皆さま自身の偉大なる力によって修正し、仏国土ユートピアを作ってゆかなければならないのです。
最後に皆さまのご要請があれば私たちは自分一人でもここへ来て皆さまに心の偉大さを、そして皆さま自身の仏性を目覚めさせて行きます。私たちはあらゆる教団からそのような要請をうけており、いつでもどこへでも行きます。
そして人間はみな神の子仏の子だ、人間はみな兄弟だということを私たちは説かなければならないのです。
皆さまの中にもそのような力をもつ人がこの中にだいぶおります。インドの当時は二万余人のアラハンがおりました。
そしてその神理を説きました。我々の今のグループは約百五十数人の人たちが心の窓を開いております。
皆さまも真に自分自身の心に目覚め嘘のない生活と、自分の心に嘘がつけない、嘘のない生活を築いた時に、皆さまの心の窓は開かれてゆきます。
その時に皆さまの心の目は開かれ皆さまの目を通して現象を見ることもできるのです。
あるいはまた語ることもできます。あるいは相手の病気もすべて癒すこともできるようになります。
それは皆さま自身の行ないと心が神理にそったものでなければその道は開かれないということです。
posted by ゆき at 11:49 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現代宗教に対する疑問

過日の講演では私は小さい時からの信仰とその疑問の解明を通して、神の存在、仏の存在、人間自身が何の目的で生まれて来たのか、また貧富、地位、名誉その他の面からして、なぜ人は苦しむのか。
インドの時代のゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏は当時何を説き人々を救っていったか、このような点についてご説明してきました。
さて本日は現代宗教に対する疑問ということについて説明してみたいと思います。
私たちには長い歴史の中に、肉体的先祖代々によって受けつがれてきた習慣的な信仰というものがあります。
この習慣の中においても私たちは多くの疑問をもっているはずであります。
釈迦牟尼仏の教えから作られたはずの経文の意味を解し、それを生活に活かすこともなく、ただ経文をあげているだけという事実はどうしたわけなのでしょう。
まずインドの当時においてゴーダマ・シッタルダーがその時代と宗教と人生に対してなぜ疑問をもったかということを皆さま自身考えてみていただきたいと思います。
彼は今から二千五百有余年前においてカピラ・ヴァーストというコーサラ国の小さな一属国――ミガダヤのふもとロッシニー河の流れているところにシャキャ族の小さな国の王子として生れました。
彼は逆子だったので母親は産後のひだち肥立ちが悪く、彼を産むと一週間目にこの世を去ってしまいました。
インドの時代はほとんど子供を産む場合は自分の実家へ帰ります。
中インドのロッシニー河をはさんで対岸にデヴァダバ・ヴァーストがあり、当時はここに住む人たちをコーリヤプトラーと言っておりました。
コーリヤ族はシャキャ族の一支族であり、実の妹であったパジャパティにつきそわれてデヴァダバ・ヴァーストに帰る途中マヤ(シッタルダの母親)はルビニーというところでじん陳つう痛をおこし、シッタルダーを産みおとしてしまいます。
マヤは妹たちの手あつい看護の甲斐もなくこの世を去り、このため妹であるパジャパティがシュット・ダーナーの正夫人となり、カピラ・ヴァーストで生活をするようになります。
当時の環境は非常にきびしく、食事にも昔の日本の大名のように毒味をした後でなければ食べられません。
カピラには敵のスパイが常に入っているために毒殺されるというケースが非常に多かったからです。
また外敵のしんりゃく侵略は日常さ茶はんじ飯事であり、外見は平和でもその中身は常に争いの渦の中におかれていたわけです。このように不安定な環境と、亡くなった母親に対する一つの悲しみがあり、また城から外へ出ればきびしいカースト制度によるところの不平等、日本でいえば士農工商のような制度、否それ以上のものであり、当時はバラモンの思想が千数百年もつづいていまして神仏の名の下に人々を支配してきた制度が日常の生活の中にし滲みこんでいます。
当時のインドの支配階級である武士階級クシャトリヤは、バラモンという種族をようご擁護すると同時に商工業者ヴエシャーの生活権を守るということで豪族がいつの間にか武将になっています。
それだけに日本の十二世紀、十三世紀、十四世紀の混乱期と全く同じような社会現象が存在していたのであります。
このような時代ですからシュドラーというもっとも低辺のどれい奴隷階級に生まれてしまいますと、学ぶことも財産をもつこともできません。牛馬同然になってしまいます。
きし鬼子ぼじん母神という名を知っているでしょう。
この女性は神でも仏でもありません。もっとも低辺のシュドラー階級の女性でありました。子供たちをさらってゆき、自分の子供のように育てていました。
ハリティーと当時の名前はいいますが、彼女がジェーターヴェナー(ぎおん祗園精舎)にいる時に一人しかない自分の子供が誘拐され、初めて子供をさらわれた親の苦しみを知りました。
前非を侮いた彼女は最後は比丘尼としてゴーダマ・シッタルダーの弟子になりますが、これなどは当時のきびしい階級制度への反逆という形で現われた事件なのです。
太陽の熱・光のエネルギーは貧乏人、金持ち、地位、名誉、全く関係なく平等に与えている。
それなのに人間の作った環境だけが、長い歴史の中に築きあげられ、種族保存の旧来の要求が生活の中に溶け込んでおります。
シッタルダーの生活は優雅ではあるが、一歩外へ出るときびしい環境である。
なぜだろう。同じ人問に生まれながらなぜこうも違いがつくられているのだろう。
当時のインドの人たちには百才、百二十才という高齢の人たちが大勢います。
しかしそのような老人は骨と皮だけ。シッタルダーはそういう姿を見るにつけてもなぜ人間は年をとるのだ。
自分の母親が一週間目に死んでしまったという話、なぜ死んだのだ。ここで初めて生老病死、苦の問題の糸口をつかんでゆくのでした。
人間はなぜ生まれたのだ。なぜ年をとるのか。なぜ病気をするのか。なぜ死んでいくのか。
この四つの問題が解決しないためにシッタルダーは二十九才の時に家を飛び出してしまいます。
このようにして悟りへの道へ入っていったわけですが、当時は今のインドのヒンズー教のように、バラモン教というものがありました。
インドのバラモン階級の一つの教えであります。
後世、日本に伝来した仏教にはバラモン教やヨガ教などいろいろなものがいつの間にかミックスされてしまいました。
インドの当時は仏教などといっていません。ブッタ・ストラーといっています。
悟りへの道、神理への道という意味です。
これが中国へ渡ってくるに従って仏教という一つの固定した枠の中に入ってきたのです。
しかし六世紀から七世紀にかけて、南中国に天台ちぎ智という方が出て学問仏教ではない行ないの仏教ということを主張します。
法華宗というものの根本を作り始めてゆきました。
当時の仏教はまだ純粋なものです。自分自身の心というものを磨くことが主体でした。他力ではありません。
皆さまは自分の体の痛さを人に分けあたえることができない、人の痛みを自分自身がとってあげることもできないはずです。
なぜならば甘いものを全く食べたことのない人たちに、これは甘いんだよといったところで、果たしてその意味を理解することができるでしょうか。
匂いもまた同じです。ある人はこの匂いはよい匂いだと思う。しかし反対にいや―こんな匂いは嫌いだという人もあります。
また匂い自体も慢性化してしまうとはっきりこれが解らなくなります。
このように仏教というものも二千五百余年の間に、いつの間にか拝めば幸福になる、信仰というものは一心にお経をあげることだ。このように変わってきました。
そのために、この中の皆さまの多くのこういう信仰に対しての疑問はいっぱいあったはずです。
その疑問が解けないために盲信をする、あるいはまた特定の宗教家たちは罰が当たる、罰が当たった、このようにいいます。
しかし、本当に神は罰を与えるのでしょうか、仏が本当に罰を与えるでしょうか。さらにまた本当に先祖は私たちに不幸な罰を与えるでしょうか。
それならば私は皆さまに質問をしたい。果たしてかわいい子供が不幸になることを親が喜ぶでしょうか。あるいはまた祖父さんや祖母さんが、孫たちが不幸になることを喜ぶでしょうか。
それならばなぜ先祖が私たちを不幸にするでしょうか。
それぐらいのことは神の子である人間であるなれば誰もめいかく明確に判るはずです。
神は絶対に、私たち人類に対して罰など与えないのです。
罰は人間自身の心と行ないが作り出すということを皆さまは知らなくてはなりません。
苦しみも悲しみも他人が作ったのではありません。
皆さま自身の心のあり方と行ないが作り出したということを知らなくてはならないのです。
私たちは地獄も極楽も自由自在に行ってきます。皆さまの肉体的先祖が現在どこにいるかについても私たちはすぐ判ります。
さらにまた、その人たち方の生前において何をなし、その当時どのような話をしたかということも私たちはそくざに判ります。
しかし一般の人々はそのことが判らないだけに、人間は祈ることによって救われると思っています。
仏教においてもまた同じ。お坊さんは朝ごんぎょう勤行といって朝早く起きて拝んで手を合わす。
経文だけ幾度あげたところで心の安らぎは、これだけでは得られません。
まづ経文の意味をよく己自身が知って今の一秒一秒の心のあり方を正しく、神理に適った生活を重ねてゆくことです。
皆さまは一念三千という言葉を知っているでしょう。
一念三千とはどのような意味か。皆さま自身の心というものは、無限大に広く大きいもの、そして皆さまは想像することも、思うことも自由自在です。
恨むこともあるいは喜びも心の中では自由に思うことができるはずです。
この思うことが私たちの心のあり方を決定していくのです。
皆さまは現在このような肉体をもっていますが、これはあの世においてお父さん、お母さんと皆さま自身がお互いに約束したものなのです。
あの次元の異ったくう空の世界、すなわちこの地球を含めて大宇宙に広がる光の世界、(あの世)実在界から見ればこの(この世)現象界は立体画像にすぎないということです。
こういたしますと私たちはあの世という実在の世界からこの地上界へ出るために肉体という舟に乗りました。
この人生航路を渡って行くための肉体という舟の提供者が私たちの両親であるということです。
そこでまづこの舟をいただいた船頭さんは誰であるかということを知っていただきたい。この船頭さんこそ皆さまの心であり魂なのです。
それを両親が魂までくれたと思っている人たちが多いのです。
もし両親が肉体以外に魂までくれたとしたならば、なぜ子供は親のいうことを聞かないのでしょうか。
私たちは長い転生輪廻の中にそれぞれが縁というものによって、あの世では皆さまは友だちであり兄弟であったり、お互いに約束をして出てくるのです。
しかし私たちはこの地球上という場に出て肉体という舟にのってしまうと、わずか一○パーセントしか意識は表面に出ていません。
これについて一つの氷を主体に考えて見ましょう。
水面に浮かんだ氷の部分は約一○パーセント、九○パーセントは水面下にありますね。
この現象は氷ばかりではなく、鉄であっても銀であっても同じです。
皆さまも今この地球上という場にその意識の一○パーセントしか出ていないのです。
私たちの住んでいるこの世は、あたかも実在界から投映された現象界でありますが、それはちょうど氷の表面に出ている一○パーセントと、沈んでいる九○パーセントと全く同じことなのです。
このために、あの世とこの世は紙一重の違いだけといえます。
皆さまはすぐにでもあの世に行くことができます。
こうした意味で、この世とあの世は全く一体となっているのです。
そうしてあの世でも地獄界というのはこの地上に近い状態の環境といえます。
地獄界という環境、その環境から天上界へとたくさん段階があります。
それは皆さまの心が、先ほど調和の生活といいましたが、神理の中道の道を毎日の生活の心と行ないに活かした時に、皆さまの心は神の光に包まれ安らぎの生活が生まれてきます。
その安らぎは心の調和度、すなわち光の量によって違いあの世の段階を決めているということです。
私たちは皆さまの心の状態を語ってみることができます。
そうしてこの形のひづ歪みの起こっている人が、その人の欠点であり、心の調和度に関係してくるわけです。
皆さまは心は丸く、大きくという話を聞いたでしょう。
そのとおり、心というものはあたかも、風船玉のように広く大きく丸い心、この心の中を断ち切ってみますと、まず神より与えられている本能というものがあります。
さらに知性という領域があります。理性という領域があります。
感情という領域があります。
そして一番中心に想念という領域があります。
心の中で私たちが思うこと、考えること、つまり想念というものがすべて中心になっているということです。
私たちは肉体舟の眼・耳・鼻・舌・身を通してこの眼で見たものがしかく視覚神経・鼻でかいだものがしゅうかく嗅覚神経、このような神経を通して大脳の中の神経繊維に電気的振動が起こります。
この電気的振動がそくざに想念に伝達されます。
想念に伝達されたものが自分の本能や感情、あるいはまた知性や理性の変化によって心の全体の領域が変わってくるのです。
例えば私たちがものを耳で聞きます。自分のつごうの悪いことを言われた場合に、そくざにスーと想念に入って来ます。想念はそくざに感情に出て参ります。
この感情に出た時に感情の領域の部分がプーとふくらんでゆきます。すると理性は引込んでしまいます。
こういう状態は想念に曇りを作ってしまい神の光をさえぎります。
あたかも地球の曇りが太陽の熱光を覆ってしまうように私たちの心の想念の曇りはここから発生して神の光をさえぎるのです。
神の光は万生万物にみな平等に与えられているのです。
取らないのは自分自身の想念と行為なのです。
こう考えてきますと皆さまは、神は罰を与えないということが判ると思います。
私たちは感情だけで物を判断して果たして正しく解答を得ることができるでしょうか――できません。
そもそも私たちのこの地球上に出てきた目的というものは調和にあります。
水面に石を投げたところでその石の波は大きく広がっていくけれども、やがて調和された滑らかな平面にもどります。
大東亜戦争によって四年間の不調和な大きな犠性を払って斗争をくり返したけれども、その後三十年間はあのいまわしい戦争がありません。
戦争がないだけ、ある意味では調和されているでしょう。
私たちの本能もまた同じ。きれいな女性を見ると男性はつい心を動かされて、この動かされているうち、美しいなあと思っているうちはよいけれども、その先まで考えてしまう。そうするとどのようになるか。
理性というものは引込んで参ります。いわゆるハート型になります。
感情が出てきて理性は引込み知性はあまり関係ない。
恐らく皆さまは、若い頃、若い人たちもそうですが、恋愛をする、一目ぼれも同じですが、そういたしますとこれをよく見て下さい。(図示される)ハートになります。
本能がふくらんで感情が出て理性と知性が引込んでしまう。
こういう時に、ものの判断が正しくできるでしょうか。
自分の好きな相手を見てアバタもエクボに見えてしまう。まず見えるのが当然です。
私たちはこういう心のあり方を五官を通して見たものに影響されて、こうもしよう、ああもしようということが行為になってくることを知るべきです。
皆さま自身の心が、いつも丸い大きい心であるということはそれがそのまま悟りを意味し、インドの時代にはこのような問題に対してくじゅうめつどう苦集滅道ということを説きました。
私はこの地上界に出て、四十年にもなりますけれども、仏教とかキリスト教とかは全く学んでいません。専門は電気とか物理工学です。
現在これを主体として生活していますからプロとして詳しいです。しかし仏教のことなどは全く私は学んではいません。それなのに読まなくてもなぜ解るかということです。
それはテープ・レコーダーやビデオ・コーダーは誰が発明したのでしょうか、人間なのです。
人間の中や自然の中に、こうしたものがあるから発明として出てくるのです。
発明はすべて疑問の中から生まれてくるものです。
ですからまず皆さまも人生に対して解らない疑問をそのままにしておかないで、皆さま自身で解明することです。
解らない疑問は人に聞いて解答を得ていった時にはこれまた必然的に神理に到達するのです。
皆さまもよくご存じの木村名人という方がいます。この方は将棋というものを通じてなかなかよいことを云っております。
また作家の山岡荘八先生などもやはりその神理を生かしています。この方たちのように名人クラスになると究極の場は神理であります。
芸術家が芸術を通じ、文学者は文学を通じ、事業家は事業を通じて真剣に正しい心の状態で毎日の生活をしている人たちこそ、本当に信心深い人ということになります。
このように地球上は次元の異った世界から投映されている現象界であり立体画像の世界であるということが解ったならば、この大自然こそ大神殿だということがお判りになるでしょう。
地球そのものは大宇宙大神体の中の一つの小さな細胞にしかすぎないということを皆さまは知らなくてはなりません。
その細胞を私たち人間同志が神の子として万物の霊長としてお互いに心と心の調和を自分自身がはかりながら平和な社会を作るということです。
ところが人間は肉体をもってしまうと、肉体先祖とか、肉体が絶対だと考え、すべてに執着をもってしまって神の子、仏の子としての本性を忘れてしまいます。ここに問題があるのです。
皆さまは本当に心の窓を開いて一切の執着からはなれて人々のためにつくす。自分も神の子、仏の子としてその道を実践しようと心と行ないが調和された時に、人間が誰も心の窓が開かれるのです。
なぜならば想念の中の曇りがなくなるからです。
からりと晴れた青空には太陽の光が万生万物にすべて平等に当たるように、神もまた私たちに慈悲と愛の光を平等に与えています。
それは自分自身の心にひっかかりがなく、執着がない、恨み、妬み、謗り、怒りがない、いくら口先でうまいことを言ったところで、あるいは顔とかたち姿と態度だけで外面だけをあたかも調和したごとくしたところでそんなものは何の役にも立ちません。
うわべ上辺はどうであれ、心の中から発するところの慈悲と愛がなければ私たちの魂を高い境地に進化させることはできないのです。
さて私たちは先ずここで、肉体というものの先祖、肉体先祖というもの、さらにまた魂の先祖というもの、この二つのものが存在しているということに気がつかなければいけません。
これはインドの時代、ゴーダマ・シッタルダーが四十二才の時にたまたまコーサラ国の使いがジェター・ヴェナー祗園精舎に参ります。
マハー・コーサラ王の息子であるカツラピンという王子です。これはゴーダマ・シッタルダーとは年はそんなにちがいません。
こういう関係ですからカツラピンは「ゴーダマ、あなたは自分の家からたびたび使いの者が来ているのだし、家を出てからすでに十二年、父親も年をとっていることだからあなたは帰って親孝行をしてやって下さい」。ということで悟った後初めてカピラに帰った時に、お父さんやお母さん、あるいは第一夫人のヤショダラとかあるいはまたその他ゴーパとか、二号、三号というとおかしいけれど第三夫人、第四夫人までいます。一同が迎えに参ります。
その時にシュット・ダーナー王が「お前どうだ、これだけの修行をしてきたけれどもお前の姿を見るとこじき乞食同然だ。お前も王子ではないか。そんな汚いしたくをしなくともわしがさっそく良い着替えをあげよう」といいますが、ゴーダマ・シッタルダーは断わります。
なぜならば人間は心が大事だからです。いくら立派な着物を着ていたところで心が屑ならば何にもなりません。
そういうことから「お父さん、それはちがう。私はこのように泥だらけであっても心に安らぎと調和をもっています。生まれによってその人間の価値が決まるものではありません。だから私は一生懸命に先祖を供養します」といいました。
ところが父親のシュット・ダーナー王は「その通りだ。我が家はこのカピラにくるまでに十五代も続いている。この十五代の先祖は偉大なる人たちだ。シャキャというのはよくできた偉大なという意味だよ」。このようにゴーダマに説明します。
これに対してシッタルダーは「ところがお父さん、それはちがいます。私の供養するのは私の魂の先祖に対して供養するのです。お父さんからはこのように肉体を頂いたが、このことに対しては私は心から感謝し親孝行をいたします。ですが魂の先祖こそ永久に変わらないところの自分自身だということを知っているのです」と答えたのであります。
シュット・ダーナーは、「そんな先祖があるのかなあー」ということでした。
現在の人々も同じです。
魂はお父さん、お母さんがくれたんだ。くれたはずなのに親不孝したり、ゲバ棒をもってかえんびん火炎瓶を投げてみたり、どこに肉体先祖と魂の先祖というものがあるのだと思うでしょう。
しかし親子の縁は、かって友だち同志であったり、あるいはかって両親になった人たちをたのむのであります。
このようにして私たちがあらゆる転生輪廻の中で生命は不変であるという事実は、あらゆる国を転生輪廻して参りましてこのように永遠の旅をつづけているのであります。
あの世に帰りますと一○パーセント表面意識が逆転しまして九○パーセント潜在意識が表面に出て参ります。
それですから心でお互いに話し合うことができます。
私は何回もあの世という実在界へ行きまして皆さんとも話をしております。
この時に私は日本人ですから日本語で喋りますと向こうの光の天使たちは胸のところにバッチをつけております。といって日本人ばかりはいません。オリンピックと同じです。皆さんは全部兄弟だということです。
そして日本語で喋った言葉はそくざに彼らの国の言葉で伝わります。
あるいは黙っていてもかまわないのです。通じるのです。心で思えばよいのです。相手に通します。
このようにあの世の世界、天上界は人類の神の子としての自覚をもった調和された世界です。
そのためにあの世の肉体は光子体といって光でできております。
皆さま自身の肉体は約三十二種類から成るところの原子細胞によって、また約六十兆からなる細胞集団によって形成されています。
さらにまた皆さまの頭脳は約二百億からなる細胞集団によって脳葉というものが構成されています。
その中の神経繊維は電気的振動を起こします。これをのうは脳波といっています。
ところが皆さま自身が、肉体と魂とは別だということにもし皆さまがはんぱつ反撥するならば皆さまが眠っている時、脳細胞はどうしているのでしょう。
耳の穴も鼻の穴もあいてはおりますが、眠った時に脳というこの機関が全て記憶し思い出す能力をもっていますか――、聞くことも匂いを嗅ぐこともできないはずです。
なぜできないかというと肉体から魂が離れており、脳の機能が失われているからなのです。
この事実からみても魂の先祖と肉体の先祖は別であり、肉体は人生の乗り舟だということを自覚せざるを得ないはずです。
肉体というものは万生万物すべて縁というものによって結ばれて出て来ます。
そうしますと私たちの魂というものの存在がもっと明確になってくるはずです。
皆さまが感情的になる時、悲しみや喜びの時には胸にこみあげてくるものがあります。
このこみあげてくる力は一体何でしょうか。こみあげて来て初めて涙になるはずです。
これは想念の中の感情の領域がふくらんでくるからです。それで胸にこみあげてきます。
それが眠っている時には、肉体舟の船頭さんである魂は皆さまの体から離れている。
そのために頭は記憶ができない。匂いもかぐこともできない。寝言は肉体に意識が伝わるためにおこる現象だが、口は意識的にきけない。
このように考えてみますと私たちは魂と肉体というものが明確に分離されているということが解るはずです。
仏像画を見ますと後光というものが出ています。
神の光は万生万物に平等に与えられておりますが想念に曇りがなくなりますと、心の調和された度合いに応じて神の光を受けていることになります。それが後光となって出て参ります。
この後光が皆さまがあの世へ帰る時の肉体なのです。
皆さまがあの世へ帰る時には、心がきれいならば後光によって包まれて自分の肉体が例え病気であっても、その時、病気から訣別します。
ところが心を悟らずに、神仏を信ずることなく、恨み・妬み・謗り・自己保存自我我欲の生活を送って、あちらが痛い、ここが痛いといっている間は死んでも同じです。
なぜならば、私たちは電車にのったり、自転車にのったりしている時に急ブレーキをかけると急ブレーキのかかった進行方向に体がもっていかれるはずであります。
なぜでしょう。これは自然の法則。とうそくど等速度運動です。
これと同じように私たちもまた心というものが本当に執着と己自身の自己保存、自我我欲の心を捨て去った時には執着がありませんから、調和された世界へ抜けていきます。
私はあの世へ行く時には自分の魂といいましょうか、意識が抜けていくのが全部判ります。
そうしてどこの国へ行っても皆さまの家庭でもそくざに行って見ることができます。
そういう時に心に引っかかりがあると、どうしてもそこだけ抜けないから苦しみます。ばたばたとして振動が起こります。
ところが心が調和されていますと、スーと抜けていってしまいます。
この現象は私一人なら私は否定します。
ところが今まで同じ現象が私たちの周囲にいっぱい起りました。
私一人だったら信じませんが、しかし現在は百人を越す人たちが、わずか一年間の間に心の窓を聞いてアラハンの境地に到達しました。
すなわちアラハンの姿に到達して己自身の心というものは調和されダイヤルがピッタリ合うようになったために、さまざまな能力を持つようになったからです。
もし十人が十人同じような現象が起こったとしたならば皆さまはこれを非科学的と言いますか。
非科学的ではありません。
科学的というものは一○○パーセント確かな結果が出たならば信じざるを得ないのであります。
そうなって参りますと、私たちの心というものがいかに重要であり、そしてしかも私たちの魂はこの世を去るまでの一切をテープ・レコーダーと同じように記録しているということを理解することができると思います。
皆さまは反省ということをご存じでしょう。
反省というものは、神から私たちに与えられた慈悲なのであります。
わずか一○パーセントの表面意識で人生を渡ってゆくために人間はあらゆる苦しみや不調和なことをやっています。
盲で人生を歩んでいるのです。それだからまた修行場なのです。
こういうきびしい環境の中において私たちがはっきりと正しくものを見る毎日の生活行為をしてゆくならば己自身の心の状態をより高い境地にもってゆくことができるでしょう。
反省というのは心で思っただけではだめなのです。
そのあやまちを正し、それを行ないの上に表わしてゆくことです。
正しく思うこと、行なうことが全ての基準になってきます。
私の言うことを皆さまは信じなくても結構です。
神理は信ずる信じないにかかわらず必ず現われるものだからです。
皆さまは他人に嘘がつけても、自分の心に嘘はつけないでしょう。
本当のことは自分の心が一番よく知っているからです。
嘘をつかない自分自身の心で、皆さまは一日思ったこと、行なったことを一つ一つ反省してみて下さい。
それを繰り返しているうちに、皆さまの心の中には自ら神の光がはなたれて参ります。反省は想念の曇りをとりはらう神から与えられた慈悲なのです。
このようにして私たちの心というものを磨いていくにしたがって、私たちは執着というものを離れてゆきます。心は自ら丸く大きくなって参ります。
私たちは先祖に対して感謝する心を失ってはいけません。
真に先祖に対する供養の根本というものは、まず現在の皆さま自身が肉体先祖からこの肉体の舟を載いたことに対して感謝し、健全なる肉体をつくるということです。
そうして夫婦が共に明るく笑って生活できる愉快な環境を築き、お互いに嘘のない心と心の話し合いができる環境をつくることが先祖に対する本当の供養だということを皆さまは知らなくてはいけません。
また私たちは先祖に対する感謝の心をいつも持ちながら、私たちの肉体を保存することのできる、一秒間に二百万トンもの石炭を燃焼するに相当する熱・光を太陽は無償で地球に与えていることを知り、報恩という行為を果たすことです。
地上の三十六億人の人類に太陽が一秒間に与えているところの 9.3 ×1022 キロカロリーという約二百万トンの石炭に相当する代価を平等に支払ったとしたならば、皆さまは全員破産してしまうでしょう。
これこそ神が与えられたるところの慈悲であり、愛でなくて何でしょうか。
この太陽の熱・光のエネルギーがあればこそ、地上の水を循環させ、雨を降らして植物に対して成長のエネルギーを与えています。
一方において皆さま自身の吐いた二酸化炭素は空気中に戻るとこれらは植物の栄養源となり、太陽の光を利用しての光合成作用によって炭水化物や蛋白質や脂肪を作っているのです。
私たちは外から植物の澱粉、蛋白質、脂肪をとって皆さま自身の血や肉や骨にしているのです。
そうなれば太陽に感謝する、大自然に感謝する心はただ「有難うございました」だけで済ませるものでしょうか。
それは人間同志がお互いに今、生きているのだ。
今、魂の修行と共に、神の体であるこの地上界に平和なユートピアをつくり、お互いに心を開いた嘘のない生活環境を築くということは本当の神に対する、そしてまた先祖に対する供養であり報恩の姿ということになるでしょう。
これは今から約一万二千年前にアトランティス大陸においてアガシャー系グループの光の天使たちが人々の心に神理を説いたのも同じです。
大宇宙に対する感謝の心、人々の心と心の調和によったその道を実践することにありと説いたのです。
イエス・キリストも今から二千年前にイスラエルの地において、諸々の衆生に説いた愛の道もまた同じ神理なのです。
しかしゴーダマ・シッ夕ルダーも、あるいはまたイエス・キリストも決して宗教家ではありません。全くの素人です。
私たちは素人の立場から、その神理、心と人間の問題、自然というものと信仰の関係、こういうものを堀り下げて参ります。
中国から渡ってきたところの経文と、私たちが説いている科学とも全く一致するということを私は発見したのであります。
それ故に宗教と科学は不二一体である、色心不二であるということがいえるのであります。
皆さま自身も、今肉体と心、肉体と魂の一体の中にこそ色心不二、現代の修行があるということを皆さまは自覚して頂きたいと思います。
そして信仰は己自身の心に嘘のない生活をすることだ、そしてそれは正道の、八正道の実践行為の中に生まれてくるということを知っていただきたいと思います。
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人生の目的と使命

本日は、「私たちがこの地球上に何の目的を持ち、どのような使命をもって生まれて来たのであろうか」という事について説明してみたいと思います。
多くの人々の中には、両親が、自分たちの都合によって、好き勝手に私たちを生んだのだと思っている人たちがいます。
もう一つは、この地上界に肉体を持ち、親、師、先輩より受ける教育、あるいは先祖や国がつちか培って来た歴史的な環境の中において、自分なりに、悲しみや苦しみ、喜こびなど、苦楽の人生を体験して一寸先が闇の人生を計りかねている人たちです。
いづれにしても、私たちがこの地球上に出て来た以上は、安閑として無為無作の人生をすごしてよいのだろうか、という人生に対する矛盾、その解決を求めたはずの信仰、その信仰に対する矛盾などを皆さまは痛感しているはずです。
それは私たちが、肉体的な五官を通してとらえ得たものを、目を通して見たもの、耳から聞いたもの、あるいは肌で感じたものによって、その人の学んで来た、教育や、思想や、あるいは習慣によって判断をしているからです。
あまりにも物質文明だけが発達してしまって、私たちは本当の人間としての価値と、そしてその使命というものを忘れてしまっているのが多くの現代の人々です。
あくまでも私たちの肉体を通して、感じ得たもの、あるいは皆さま自身が想像して、心の中で思うことによって、自分なりに判断して生活をしているはずであります。
その結果、女性の方は、より美しく、そして結婚をして平和な生活をしようとする者から、結婚した人たちは、良い子を生んで、立派に育てようとか、経済的な安住を得て、もっと自分自身がより以上に優雅な生活をしたいとか・・・。
男性の方は、学校を出て、社会に出たならば、すくなくとも社会的な地位を築いて生活環境を安定しようとか、会社に勤めている人たちは、少しでも役職を得て地位を築いてゆこうとか、それぞれ人によって違いはありますが、私たちが生まれて来た目的は果たしてそのようなものなのでしょうか。
皆さま自身が、この地球上に出てくる前、皆さまの中に、そんな馬鹿なことはない、肉体が絶対なんだ。
親から頂いたこの己自身の肉体が絶対であるんだ、それ以外に何物もないとゆいぶつ唯物的に考えるとしたならば、これをどう説明するのでしょう。
人間の脳細胞は約二百億あります。
二百億の細胞からなる頭脳が、すべてを記憶し、想像する能力を持っているとしたならば、皆さまが、なぜ眠っている時に、私たちの耳の穴も、鼻の穴も、チャンと立派にあいているが、視覚も、聴覚も働かないという事実を何と説明しましょうか、現代医学においてはまだそこまで行っておりません。
さらにまた、皆さまが学校やあるいは男女関係、恋愛問題、親子の対話などの不調和により心を悩まします。
恋人にふられて悩んで身体が痩せ衰える人もあるでしょう、なぜ悩んで私たちの肉体は疲労を感ずるのでしょうか。
これについて現代の医学も物理学も証明することはできないのです。
悩みの原因というものは、どこから発するのか、苦しみの原因は、どこから出て来るのか、しかもなぜ肉体は年をとるに従って、老化現象を起こしてゆくのか、なぜ人間は死んでしまうのか、この大きな問題を追求していったならば、私たちは全く肉体以外に、何物かの存在があることを否定することができる人があるならば、説明して下さい。
ということは私たちの現在持っているところの肉体は、この地球上という場に対して適応したもので、神が保存し、我々が神の子として、先祖代々継承されてきて、現在の肉体を持っているからなのです。
そうなりますと、肉体以外に何物かがあり、人は魂ともいう、あるいは意識ともいう、精神ともいう。
その根本であるところの魂というものの存在を、皆さま自身は否定できないはずであります。
なぜならば、今の皆さまの肉体は、親から頂いたものですが、魂は親から頂いたものではありません。 
もし魂を親から頂いたものであるとしたならば、なぜ、親が子供の心が解らず、子供が親の慈悲も解らず、親不孝という現象がなぜ起こるのでしょうか。
もし魂を両親から頂いたものであるとしたならば、私たちはどこにいっても、意思の断絶はないはずです。
ラジオもテレビも無線機も、人間の作ったものです。
私たちが今スイッチを入れれば、どこの放送
局も、キャッチできるだけの能力を持った受信機を発明しております。
あるいは映像をも映し出せるだけのものを発明しています。
しかしこれらは人間の文明生活の知恵で、万物の霊長である人間自身が、なぜこのような能力を出せないのでしょうか。
親と子の意思が、親と子の魂が、同一のものであるならば、どこにいても自由自在に、心の中の思っていることから、考えていること、行なっていることが、通じ合わねばならないはずであります。
ということは皆さまは、魂、意識の次元ということを考えねばならないのです。
今の肉体舟を絶対なる基盤として考えるところに、間違いが起きて来るのです。
そうなりますと肉体以外に、また別のものがあるということを私たちは否定できないはずであります。
眠っている時に、皆さんは自分の五官・六根がすべてだと思っていたが、脳細胞の二百億の集団がすべてを思い想像し、計算もする場所であると思っていたが、眠ってしまったら、ただの一個の物質にしか過ぎない。
しかしこの物質である私たちの肉体も、五官を通して調和されずとも私達の五臓六腑は少しも機能は失ってはおりません。動いています。
といたしますと、私たちの脳細胞は五体をコントロールしている制御室にしか過ぎないということを、皆さまは知らなくてはならないのです。
なぜならば制御室である理由は、肉体以外の、意識、魂が離れている時には、全く無能だということです。
眠っている時に、数学の計算でも学んでいるものがわかるならば、それは脳細胞がすべて記憶しているということを私は肯定します。
しかし、その事実は無いはずであります。
これは私たちの感覚器管に感受された信号は脳細胞の神経織維の中に電気的振動を起こすのです。
これを脳波といっております。
この電気的振動の波動が、人間の肉体の船頭さんである意識・魂に通信されて記憶されているのです。
このような次元の違った意識・魂の根本というものを考えた時に、肉体はただの人生航路を渡って行く、一つの乗り舟にしかすぎないということになるはずであります。
しかもまた、神理というものは永遠不滅であり、線香花火のように消え去るものではないのです。
肉体というものは、この地上界において、己の魂を磨く乗り舟にすぎず、魂というものこそ永遠不滅の己自身なのです。
眠っている時に皆さまの魂は肉体から離れて次元の違った世界へ行っています。
この地上界を皆さまが去る時に、帰らなければならない魂の世界へいっているのであります。
そうなりますと、私たちはまず次元の違った世界、あの世こそ実在界だということになるのです。
すべてのものを作り出しているところのくう空の世界、仏教の根本は〃くう空〃ということが判ったならば、すべて解決するとまでいわれているようですが、このくう空の根本原理、根本理念ですら、現代仏教はすでに忘れ去っております。
そこで私たちが実在界という次元の違った意識の世界は、この地上界より以上に文明も進歩し、地上界における原子細胞ではなく、精妙な光子体ともいうべき、光の細胞を持った肉体であるという事実、これは皆さまが、仏像を見たり、あるいはイエス様の姿の映像を見る時には、必ず体から後光というものが出ているはずです。
これは皆さんのあの世に帰る時の自分の肉体なのです。
あたかも太陽が熱・光のエネルギーを、この地球上の万生万物に平等に与えているように、神もまた、この地上界の万生万物に慈悲と愛の偉大なる光を、すべて平等に与えているということです。
太陽の熱・光のエネルギーが、貧乏人、金持、地位、名誉、こんなものに全く関係なく、平等に与えられるように、神の愛と慈悲もまた同じであります。
しかるに私たちは、永い歴史の中に、先祖代々伝わって来たところの信仰体系の中から、一生懸命に祈ることが、本当の信仰の道だと大きな間違いを犯しているのであります。
私たちは自分の心の中に、神は慈悲と愛の光を、万生万物に平等に与えている事実を見た時に、神はすべてのものを人類に与えているということを知らなくてはなりません。
だが、神の慈悲と愛の光を受けることの出来ない人が多いのです。
神の子たる己自身の本性を失ってしまっているために、うらみ、ねたみ、そしり、自己保存、自我我欲の暗い想念が、心の曇りを作り、あたかも太陽が、地球上の曇りによって、その光をさえぎられるように、神の光を己自身の不調和な想念と行為によっておおってしまうのです。
仏教の根本精神は、人間がこの地球上に生まれてくると同時に、修行のために、神の子としての自覚の九○パーセントが潜在してしまい、肉体舟の五官六根がもたらす自己保存、自我我欲の黒い想念が神の光をさえぎり、己の魂を曇らせて生老病死、あい愛べつりく別離苦、おんぞう怨憎えく会苦、ぐ求ふとくく不得苦、ご五うんじょうく薀盛苦といわれる四苦八苦の苦しみを作ってしまいます。
その苦しみの原因は、全て神の心を忘れた皆さんの魂・意識の中心である心というものが作るのです。
その苦しみの中から、己自身の反省がその魂を調和させ、平和な、執着から離れた安らぎのある人間としての本性、己自身を悟るにはどのようにすればよいかということを教えているのです。
それを当時の無知文盲の衆生にも解りやすく説明するために、方便をもって説いたのです。
それが、皆さんもよくご存知の法華経です。
インドの当時、中国の時代においても、ほとんど泥沼の中に美しく咲く、あの一輪のハスの花の姿を通して教え導きました。
「皆さん、あの泥沼の中をご覧なさい。
あの泥の中は、ウジ虫やハエがいっぱい群っている。
あの汚ない泥の中に咲く美しい、一輪のハスの花をよく見るがよろしい。
・・・・・・あなたたちの肉体というものは、あの泥沼のようなものなのだ。
なぜならば、目を見れば目糞しか出ないではないか、鼻を見れば鼻糞、口を開けば痰、あるいは体から出て来る汗、これも汚ないものだ、このように大小便に至るまで、人間の肉体から出るものは、一つとしてきれいなものは無いのです。
この汚ない泥沼のような、人生航路の乗り舟である肉体も、その船頭さんである意識、その中心である心というものが、神理を悟って執着から離れ、生老病死という根本を悟って、己自身が八正道の神理を実践したならば、あの美しいハスの花のように、あなたたちの心は、仏の心と調和されて、安らぎの境地に到達して、苦しみから己自身を開放することができるのだ」とこのような方便の説話なのであります。
しかるに仏教もいつの間には難しくなり、智と意の哲学的学問に変わっております。
〃観自在菩薩行深般若波羅蜜多〃といったところで解りますか。
無学文盲のインドの当時の衆生に、ラジャグリハーの郊外において説かれたあの仏教の神理が、そのような難しいものであったと思いますか、「ゴーダマ様は、何によって生活しておられるのですか。
私たちは、このように農耕をして、米を作って生活しております。
あなたはなぜそのようにしておられますか」と問われたことがあります。
その時に「あなたは米を作って生活をしているが、私はあなたたちの心に神理の種を蒔いて、その実るのを待って生活をしている。人間は米のみによって生きるのではないのだ。人間の心こそ偉大なる不変のものなのだ」
そして「あなたは今、このようにひよく肥沃の土地によって稲を蒔いて生活をしているが、まず稲を蒔くならば、あの上の方の痩せた土地に蒔くか」と聞きました。
その時に農夫は「上の方の土地は砂利が多く、そのために米は実りません。土地に地味が足りません」といいました。
ゴーダマは「私の説いている神理も、受け入れる機根の無い人たちに、いかに説いたところで、この神理の種は、人々の心の中に入って芽生えるものではない」とこのようにこんこんとその農夫に説きました。
そのように方便を通して、その時の衆生の機根に応じて、神理を説いたのであります。
仏教というものが、二千五百余年の間に、本当の心の偉大性を失なって、排他的に変わってしまったのですが、本来は転生輪廻をくり返す毎に、自ら誓って来た皆さまの魂の意識の中のテープレコーダーには、綿々として、神の子としての偉大なる真実が、あまさず記録されているのです。
皆さま自身が、一心に信仰をしている中においても、なぜなぜという疑問が出て来る原因もそこにあるのです。
人間は心をふさいではなりません。
あくまでも疑問は疑問として、解答を得た時に、皆さんの心の中に神理の芽が、芽生えてくるということです。
このような事実をよく知ったならば、私たちは次元の異なったあの世があることを否定できないはずです。
なぜならば物質というものを一つ考えても、仕事を成し得る能力であるエネルギーというものの存在をハッキリと物理学の上においても、実証できるからです。
そうなると物質に対するエネルギーというものの次元と、物質の次元というものは、物質とエネルギーは一体となっているはずです。
物質そのものも、エネルギーの一形態である事実は、原子力科学の基礎理論になっているアインシュタインの理論においても正確に立証されているのです。
そうなって参りますと、皆さま自身が、この肉体と、もう一つの肉体、光子体を支配している魂の偉大性を知らなくてはならないのです。
皆さまは、実在界(あの世)において、すべて神の子としての偉大な智慧と、偉大な魂を兼ね備えて来ているのです。
そして皆さんはあの世、次元の違った四次元以降、多次元の世界から、自分が望んで今度はこの日本に生まれよう!。
あの世において、お互いに「あなたは今度はお父さんになって下さい」「あなたは今度お母さんになって下さい」と、あの世ですでに約束して来ているのです。
ところが、お父さん、お母さんはこの地上界に先に出て来ます。
生まれて来たこの環境や思想や教育と、長い歴史の中に、人間の作り出した習慣によって両親は、その中で盲目の人生を歩み、神の子としての自分自身を見失ってしまいます。
そのために、お互いに適令期になるに従って、ある者は恋愛や、見合いをして夫婦になって行き、ある者は夫婦になる約束を破棄して、いろいろと問題を起こして自分自身が、苦しみを作ってゆくのです。
そのうちにこの世において、夫婦としてお互いに愛のきずな絆という中に結ばれて、神の子としての自分が何をなすべきかということを悟った時、天上界からまた子供が出て来る事実も知って出て来ているのです。
あの世から皆さまが、光子体という肉体を持って、お母さんの腹の中に入る、三ヵ月頃まではみな大人なのです。
そうしてその時には、皆さまは九○パーセントの潜在意識というものが逆になります。
実在界においては、表面意識が九○パーセント出ていますが、この現象界においては、表面意識はわずかの一○パーセントしか出ておりません。
お母さんの腹に入るまでは、九○パーセントの意識を持っておりますから、人間はこの地球上に何の目的で生まれて来るかを自覚しております。
昨日も三月ヵ位のひどいつわりの方が参りましたが、即座に癒しました。
これもお母さんとあの世の子供との意識が合わないために起こる現象なのです。
それも心でお互いが反省し調和されれば、そのようなものは即座になくなってしまいます。
そこであの世から出て来る時は、今世においてこの地球上の一年間の修行は、あの世の百年にも匹敵するだけの、善と悪とがミックスされた厳しい修行所であり、だからこそ魂の修行になるのだということを知っているのです。
嘘と真が並び合ったこの世の中において私たちは本当の魂の修行を経て、その道を実践修行して来るということを、あの世にいる時は、皆さまはみな納得して来ているのです。
そうして皆さまの魂の兄弟、あるいは多くの友だちに送られて勇んで出てくるのに、この地上界に出てしまうと、五十年、百年間というものはそれぞれ断絶します。
心の窓が開ければ別ですが、窓が開けていない場合は断絶です。
いうなればあの世からは、この地上界に出て来ることは死であります。 
そこでその当時は、今度は医者になって立派に多くの人々を救って来ますといって人々は出て来るのです。
あるいはまた、その神理を、病める多くの人々に流布いたしますと出て参ります。
あの世へ帰りますと、人類はみな兄弟だという事を悟っているからです。
この地球上へ出れば、それぞれ長い歴史の中に、私利私欲、自我我欲に基づいて、神の体であるその地球上を占領して、これこそ我が国である、これこそあの国であると、お互いに国と国との争いを繰り返しておりますが、そうした争いがあるのはこの地球上と地獄界だけです。
実在界では全くそんな事はありません。
人間はみな神の子である以上、皆さまは九○パーセントの表面意識が、あの世では開いているから、光の天使と全く同じような光子体になっています。
それですから自分自身の心で思うことは、即座に相手にも通じてしまいます。
自分の生命を持っておっても、これは自由になりません。
それだけ悪い心が起これば、即座に神の光は消えてしまいますから、自分ですぐ反省します。
なぜこのように心が暗くなったのか、その原因を追及して来て、再び反省した時に、神の光は我々にさんさんとふり注いで参ります。
そしてこの地上界に出て来て「今度こそは、今度はやるぞ」といって出て来るのです。
この地上界に出て、わずか一○パーセントの表面意識で、人生を渡って行くために、私たちの心というものは解りません。
そのために皆さま自身が今自由に行動をしておりますが、本当はあんちゅう暗中もさく模索の人生ですから、また修行にもなるのです。
このことは実在界においては全部解っております。
今度こそ使命を果たしてきますと送られて出て来たところが、その約束を破棄して、自分自身が物質のどれい奴隷となり、心というものを見失っていくのです。
そういうことを皆さまが本当に知ったならば、今、両親に対して感謝する心を、行為に表わし親孝行するのは、万物の霊長として、神の子として当然なことなのです。
ところが現代の多くの人々は、そのような心の持ち合せはなく、親が勝手に生んだのだとか、教育するのは親の当然の責任だとかいいます。
貧乏に生まれれば、親を恨み、世間を恨みます。
この地上界へ出て来る時、あの世において、金とか、地位とか、名誉とか、こんなものは関係ないのです。
ただひたすら永遠に変わらないところの、皆さまの船頭さんである魂、この魂を磨くということがまず第一なのです。
その魂の中心である心が、すべての苦しみや、悲しみを作る、その根本を説くべきキリスト教も、また仏教も、永い歴史の中にゆがめられて人々の食いものになってしまったのです。 
そのために、偉大なる心の働きという「正法」は、人々の知と意によって、ほこりとちりにまみれてしまったのです。
私たちは、このほこりを払いに地上界に出て、その道を説いているのです。
私たちは今から二千年前のイエスの神理、また、二千五百余年前の釈迦の神理に戻すために、ほこりを払いに来ているのです。
そこで皆さま自身が、正法神理の偉大性を悟り、心こそ永遠に変わらない己自身であり、永遠の生命の中で今地球上の最も不安定な修行所において、己自身が今も修行しているのだという自覚を得た時に、私たちは偉大なる神の子としての神理の実践行動の中に、皆さまの心は神の光によって包まれて行くのです。
このような事実を我々は知って、実在を通し、神の子として、この世の中でなすべきことは、お互いに助け合うことなのです。
己自身が足ることを知ることなのです。
現代社会に心を失ってしまった多くの人々は、足ることを忘れて、己の私利私欲、自我我欲を満足させようとしております。
果たしてそれで調和がありうるでしょうか、その事実を歴史を追って考えてみましょう。
私たち人類は、この地上界にてんそん天孫こうりん降臨して来たのです。
その当時の文明は、現代の科学よりはるかに進歩していました。
そして地上界に出て来た人類は数千万人でした。
この人類はこの間にユートピアを作り、心は実在界(あの世)と常に直接通信されていたために、心に執着がなく、このために当時は、八百才、千才と、この地上界で優雅な楽園を築いていたのです。
人間はそのうちに、子孫が殖えるに従って、己が子孫を大事にするようになり、子孫子孫と一つの枠を作り、その中についに原始共産体制というものを作り、権力によってこれにはむかう者は滅ぼされていったのです。
こうして武力はやがて豪族を生んで行きます。
そして豪族はいつの間にか他の豪族との争いを展開していったのです。
その展開していった豪族の争いは、武力、権力の力の差によって、弱肉強食の現象を起こして斗争と破壊を繰り返して行きます。
そのうちの有力な豪族によって統一されて行くに従って、その武力は武将を生んでしまいます。
武将は自分の地位と環境と名誉を守るために、彼らはその武器の力によって、封建社会というものを作っていたのです。
日本でいえば、士・農・工・商、自分の永久的地盤、子孫を崩さないために、金力と武力と権力によって、彼らは自分の地位を築き上げて行きました。
その中に武器というものを商品とした商人が、彼らと組んで要領よく介入して、不調和な争いと斗争を、しかけていくようになったのです。
そして彼らは資本主義社会というものを作っていったのです。
武力の時代には自由というものがありません。
日本では、特に日蓮の出た当時などは、厳しい封建社会の環境でありました。
そういった時代に正しい法が説けるでしょうか。
いわんや私たちがかっての封建時代に、今のようなことをいったらどんな事態になるでしょうか。
商人の台頭により除々に封建社会が崩れ、ついに資本力が、この世の中を支配するようになって行きます。
この資本主義社会というものでは、経済という力を持って相手が築き上げて来た会社、株を買い占めることもできるのです。
金力をもって人間を奴隷にすることもできるのです。
このような不平等な社会に、常に疑問を持って、底辺の人たちが、このような世の中で良いのだろうかと、ついにこれが理論体系づけられて、千七百九十八年、オーギユスト・コントという人が出て実証哲学というものを発表します。
この世の中というものは、ナポレオンのような権力者によって多くの人々が犠牲になってよいだろうか、これが本当だろうか、彼らは疑問を持ち、社会というものはこんなものであってはいけないのだと説きました。
千八百二十年には、八ーバード・スペンサーといわれる方が、イギリスに出て、社会有機体説というものを発表し、カール・マルクスは資本家と労働者が斗争する中に、文明は発達して行くのだと、斗争によってこそ勝ち得ることができるのだというマルクス・エンゲルスの唯物史観というものが生れて参りました。
こうして資本主義に対する共産主義が生まれて来たのであります。
しかし、資本主義にしても、共産主義にしても、その根本になる心というものの存在が、どこにあるでしょうか。
すべて物質と経済という、この二つのものを根底にして、彼らの基礎は成り立っているのです。
しかし自らの真の心を、己自身が求めようとするならば、もはや、このような資本主義にしても、共産主義にしても、この中から発見することはできないのです。
それを人々は、宗教に求めていったのです。
ところが宗教もすでに末法と化しているため、安住の世界を探し求めても、心というものが、ハッキリとつかみ得なかったために、私たちはその本質的なものを己自身にキャッチすることができなかったのであります。
また現代社会における、資本家と労働者がより反目して争っている、これは現代の物価の不安定も、その原因はどこにあるのか、それは労使双方にあるといえます。
人間は心を失ってしまい、神の子として、この地上界に出て、己の魂を磨き、神意の仏国土を作る目的なのです。
斗争と破壊は万物の霊長である人類のなすべき行為ではないのです。
万物の霊長に進化するところの動物たちが、そのような斗争と破壊を繰り返すのです。
人類はすべて話し合いによる調和、己自身の心をお互いに譲りあい、そして己自身に足ることを知った生活をすることが、まず大事なのです。
心を見失っているために、私利私欲に走り、人間がいつの間にか動物以下になり下っております。
あの猛獣たちは、自分の腹がいっぱいになっていたら、決して他の動物を襲いません。
人間は自分の腹がいっぱいになっても、欲望のとりこ虜となり、あくことを知らない行為を繰り返している。
これが本当の人間として、神の子として、なすべき行為でしょうか。
太陽は熱・光のエネルギーをすべて平等に与えているはずです。
人間はみな平等なのです。
だから皆さまは、自分の生まれた環境は、自分が選んだということを忘れてはならないのです。
なぜ人間はこのような経済的な苦しみをするのであろうか、なぜ病気をするのだろうか、という皆さま自身が疑問を持った時に、私たちは人のせいにしてはならないのです。
自分が貧乏の環境の中から、いかに経済的に裕福にしていくかと考えるべきで、このようなものによって自分の心まで、貧乏にしてはならないのです。
例え人間が、人生を渡って行くところの肉体舟が欠陥車であろうとも、その船頭さんである魂まで欠陥車にしてはならないということを確かりと自覚しなければならないのであります。  
こうなった時に、私たちの心こそすべての根本である。
そしてこの心を永遠に我々は進化させ、そして過去、現在、何億万年も転生輪廻して来たところの改善された姿は、今皆さまの思っていること、行なっている姿をよく見た時に、皆さま自身の過去は、今すべて集約された自分自身だと思うことです。
私たちは、このように魂の偉大性を知り、物質経済の中にあっては足ることを知り、お互いに己というものを中心にせず、大自然界は大調和の中に助け合って、生きているということを知ったならば余っているものは人々に布施し、足らん人たちに愛と慈悲を与え、お互いに平等である人間同志の心と心とのふれ合いによって、この社会を築いて行くことが、神の子として私たちの一番重大な使命なのであります。
この地球も大宇宙体から見たならば、小さな細胞にしか過ぎません。
この大宇宙体は神の体であり、そして大宇宙体を支配しているものは、大宇宙体の意識であり、これこそ本当の神なのです。
これを私たちは知らずに、あらゆる時に神様を祭ります。
皆さまがこの目で、この体で、その神とふれ合い、話し合う能力を持っているならば神と認めることです。
私たちはそのような神とは即座に自由自在に話し、彼らの実体をつかむことができるから真実を持っているのです。
神は罰などは与えないのです。
皆さまが、自分の可愛い子供たちや、兄弟たちが不幸になることを、親として望みますか、愛と慈悲に満ちている神が人間を不幸にすることをしますか。
罰は皆さま自身が、神理を悟らずに、己の心にうそ嘘の生活をした時に、嘘の行為をした時に、己自身の心の曇りによって神の光をさえぎって、その結果が原因を作って行くのです。そのようなことを考えた時に、病気をしても、すぐに医者へ行って注射をうてばすみやかに治ってしまうと思ってはいけません。その前に、まずじっくり自分はこのような病気になぜなったのか、そのなった原因を追及していった時に、必ずその中には悪の根っ子があるはずです。それから医者に見て貰っても遅くはありません。
病気も一つの反省のチャンスなのです。我々はこのようなことをよく知り、毎日毎日の生活に対して、貧乏したからといって、自分の心まで貧乏にしたり、体が悪いからといって、自分の心まで欠陥車にしてはいけないのです。
私たちの魂というものは、今世がすべてではないのです。永遠の生命の中に、私たちは転生輪廻を繰り返し、あの世に帰り、この地球上に出る時に、皆さんの肉体という舟を頂き、またこの地上界を去る時には、親から頂いた肉体は、地上界へ置いて帰らなければならないのです。そしてまた新しい肉体を持って、永遠の転生輪廻を続け、この地上界においては、太陽の熱・光のエネルギーで大自然の万物万生ははぐ育くまれ、皆さんの肉体を保存する事ができるのです。
一方においては、神の光はすべて万物平等に与えられて、慈悲と愛の中に、私たちは存在しているということを知ったならば、今の一秒一秒の人生に対する価値というものが判るでしょう。皆さまが何億、何千万年も転生輪廻して来て、自分自身が作った心の曇りを修正すること、これが私たちの地上界に生まれて来た目的なのです。
そして私たちが魂を磨くと共に、神の体である地上界を、万物の霊長である人間が心と心の調和によって、平和なユートピアを作っていった時に、皆さまはこの地上界に、偉大なる卒業者として、あの世で迎えられるのです。
私たちは、やがてあの世に帰り、自分自身の一生はすべて意識に記録されております。
その記録された、思ったこと、行ったことを、自分に嘘のつけない善なる己自身が裁くのです。
皆さまは、自分の心に嘘がつけないように、その善なる神のあかし証の己の心が、なして来た己自身を裁くのです。
その時に皆さま自身がなし終えなかったならば、執着となり、いったんは地獄界に堕ちて神の子として、自覚するまで地獄で厳しい修行をするのです。
自分が神の子であると悟ったならば、皆さまの心の曇りは晴れて、あの世にも照されているところの神の光を受けるのです。
このように、私たちが八正道を、中道の神理を通して、毎日毎日の生活をして、お互いに人々と助け合った人生を歩んで行くことが大事だということです。
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神と人間の関係について

私たちは長い歴史の体験の中から信仰というものが、神仏を拝むことであり、そしてそのことによって人間は幸福を得られるものだと思っています。
しかし本当の神仏とかいうものはどのようなものでしょうか。
私たちのまわりの、あらゆるところにお祭りしてある神というものは本当に神様なのでしょうか。
今まで私たちは先祖代々伝わってきたところの信仰対象というものに対して、何ら疑問をもったこともなく、日々の生活の中に信仰というものが溶けこんでしまっているのであります。
私たちは本当の神というものが一体どのようなものであるのかということを考えてみましょう。
まず、私たちの住んでいるところの地球という場は、草木を始めとして動物・植物・鉱物という三つの要素をもって我々の肉体保存のための協力を得ています。
その根本というものを考えた時に、地球以外にもまだ他の天体があるということを知らなくてはなりません。
すなわち私たちの住んでいるこの地球も、太陽を中心とした、水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星など九つの惑星の一つとして構成されており、しかもまた三万数千個からなる小惑星群とともに太陽系を構成しているのです。  
更に太陽系そのものも銀河系宇宙の中の小さな一つの恒星系にしかすぎないということが判っています。
そういたしますと、まずこの地球という場について考えたならば、太陽の熱・光のエネルギーというものは数字で申しますと一秒間に9.3 × 1022キロカロリー、すなわち石炭二百万トンを一秒間に燃焼しただけの熱量で、これを地球は全くタダで受けとっていることになります。
この熱という縁によりまして、河・湖・沼の水などが蒸発して水蒸気となり、やがて熱の縁によって再び冷却され雲となります。
そしてまた雨となって大気をうるほし、植物繁殖のための大きな力をあたえているのです。
しかもまた太陽の光によって植物は光合成という作用を起こし、植物自身が吸収したところのCO2(二酸化炭素)を分解して炭水化物や脂肪や蛋白質を作るのです。
私たちがこの地球という場に肉体を保存することのできる環境、そのものを与えたものは神であります。
すなわち太陽の熱・光のエネルギーを始めとして万生万物に対する慈悲と愛こそ本当の神の姿なのであります。
しかもこの熱・光のエネルギーの環境については決して請求書等は私たちには回ってこないのです。
もしこれが大阪ガスや関西電力だったらどうでしょう。
一ヵ月支払いをしなかったならもちろん電気もガスもきられてしまいます。
皆さま自身の肉体というものは約六十兆からなる細胞集団によって構成されているのであります。
しかもこの五体は大自然と全く一致しているということで、仏教では宇宙即我と教えています。
これを少し実際について考えて見ましょう。
皆さま自身の体温は、ふつう大地にふれている時には36.5。Cということになっていますが、体内温度は約37。Cで、この温度は太陽が1cm2当りに与えている熱量と全く等しいということが判っています。なぜでしょうか。
また女性の周期がなぜ二十八日といわれるのでしょうか。
これは私たちが大自然というものと非常に密着して生かされているからなのです。
例えば地球と太陽と月という三つの総合運動の中で、月の引力によって引潮・満潮が起こり、また月の公転は約二十八日であり、地球の干満潮に深い関係があることが判っています。
また空気・水という存在も大きな関係があります。
私たちは水分がなかったらどのようになるでしょうか。
また私たちの地球の磁力というものが少し変わってしまったらどのようになるでしょうか。
地球も生きているという証拠があるのです。
すなわち二千五百余年前のインド、アンデス、さらにまたエジプト地方の文明は非常に発達していました。
その当時は春夏秋冬というものがあって非常に住みよい世界でありました。
現在私たちの住んでいる、東京・大阪・北京・さらにロンドン・ニューヨーク・ワシントンなど、その地域を考えてご覧なさい。
東京・北京さらにロンドン・ニューヨーク・ワシントンなどの地域を皆さまの地球儀でよく調べて見て下さい。
春夏秋冬のはっきりしている国ほど文明が栄えているという事実であります。
中道という言葉通り暑くとも寒くとも国は栄えません。
イスラエルの時代に於てイエス・キリス
トが多くの人々に愛の道を説き、悩める人々を救ったのも当時の地域というものが多くの人々を救う環境にあったからです。
この地球上という場は善と悪がミックスされた世界であります。
私たちが住む大自然界というものを支配しているエネルギーのコントロールセンター、これを神と申します。
皆さま自身の肉体を支配しているところの意識、あるいは魂、このものの次元というものを私たちは区分して考えなければならないはずであります。
なぜなら私たちが物質一つを見ても、物質そのものは仕事をなしうるところの能力であるエネルギーというものを含んでいる事実であります。
石炭をもってきて石炭の燃焼する能力を外部から縁をあたえることによって石炭は熱エネルギーに変わります。
しかし、石炭そのものを見て熱エネルギーを皆さまは果たして想像することができるでしようか。 
しかし仕事をなしうる能力をもっているという事実は否定できないでしょう。
さらにまた、私たちの肉体は約三十二種類の原子からなる六十兆の細胞集団で構成されています、そういたしますとこの肉体をコントロールしているところの何物かがあるはずです。
一体その何物とは何でしょうか。
もし魂を否定し意識を否定する人があるとしたならば、皆さまがなぜ悩んだ時そのために疲労するのでしょうか。
仕事をして肉体的な疲労をするならば話は解りますが、精神的に家庭の不調和、経済的な不調和、このような原因によってなやんでなぜ疲れるのでしょうか。
これが一つの疑問、もう一つは、私たちの脳は約二百億からの細胞で構成されていますが、この脳細胞の集団が、記憶装置であり、しかもすべてを考えるところの能力があるとしたならば、なぜ眠っている時に、私たちは立派に鼻の穴も、耳の穴もあいているのに臭もまた音も何も解らないのでしょうか。
このことは肉体以外の全く次元の異った世界の意識あるいは魂の存在があるからです。
肉体というものはこの地球上に神が保存してあったものなのです。
本能とは、肉体維持、子孫を絶やさないための神からあたえられた一機能です。
しかし私たちは長い歴史の過程の中でその神理というものを悟らずして、転生をつづけ、同時にこの現象界は修行場であるがために人間はあらゆる間違った行為をしがちなのです。
もっとも善なる行為もありますが、この判断が判らなくなった姿が末法の姿というのです。
私たちがこの肉体という舟にのってこの世に皆さま白身が、たとえ貧乏人に生まれようとも、金持ちに生まれようとも、また地位名誉があろうとも、次元の異った世界での規準はそのようなものではありません。
自分自身である永遠に変わらないところの肉体舟の船頭さんである魂は、ある時は王様になって権力を振い多くの人々にかしづかれて生活をしたこともありましょうし、ある時は奈落の底できびしい苦しみの中から人間修行をした魂もあるでしょう。
だが、もし皆さまが地位・名誉・経済がすべての絶対のものであるとした場合は、この世から去る時にそれを持って帰れるでしょうし、絶対肯定されても良いでしょう。しかしあの世はそうしたものは通用しないのです。
むしろ地位・名誉・金にしばられて一生を終えた人たちは、大きなお荷物をもったままであり、その想念の重さに地獄界に堕ちて行くのです。
なぜならば皆さま自身の肉体というものは、人生の乗り舟であるとともに、時が経てばこの世に置いていかねばならない。
地位や名誉や金というものは、生活の手段であり、魂修行のばいたい媒体にすぎないのです。
私たちの肉体そのものも約六十兆からなる細胞集団からなっており、五臓六腑の一つ一つは生命をもち意識をもっている。そしてその支配者が皆さま自分自身であります。
夜眠った時には肉体から意識がはなれて次元の異った世界へ帰り、あるいはまたこの地上界のあらゆるところを漫歩することもありますが、心が調和されて次元の異った世界に皆さんの意識が行った時には我々の生命の偉大さを悟ってきます。
さあそうなると魂と肉体は別物であり、物を動かしているものは心であり、心が物に動かされる愚を悟ることができるでしょう。
この現象界における万生万物にはすべて中心があり、中心を輪にして動いているのです。
まず私たちの住んでいる地球も太陽の中の一つの惑星にしかすぎない。
地球を構成している極微の世界も原子核を中心にして陰外電子が物凄いスピードで飛んでいます。このようにすべてに中心がある。
それは皆さま自身の肉体舟の船頭さんである魂の中心・意識の中心が本当の皆さま自身の心なのです。
私たちは一人一人の心に形があるということを発見することができたのです。
これは私一人が皆さまの心の形態を発見したのではなく、私の神理を聞いた多くの人々の中からこのような能力をもった人たちが次々と生まれて来ているのであります。
皆さまもこの神理を通じて人間として生まれてきた目的と使命を実践された時には、皆さんの心の窓は開かれて行くのです。
なぜなら人間はみな神の子なのです。
たとえ、貧乏に生まれて今経済的に苦しくとも、心まで貧乏人になってはならないということを己自身の心に銘記せねばなりません。
経済は人間の生活の智恵にしかすぎません。
このようなことを考えた時に、私たちは総てが心であり、その中心である正道というものを実践し、己自身が執着を断った生活をした時に、この世の中はもっと平和になって行くのです。
またこのようになれば自然と経済的にも、また肉体も、健全になって行くのです。
もし肉体的に欠陥があったところで心まで欠陥車になってはいけないということです。
それはこの地上界に皆さまが次元の異ったところから出て来た時に、自分はこんどは貧乏人に生まれてこの中で自分自身が一心に自分を磨いてこよう、あるいは、肉体的に欠陥があろうともこの中で己自身の魂を磨いてこようというような約束をして出てきている人達だからなのです。
この時に、皆さま自身が肉体的欠陥を心の欠陥にまで及ぼしてしまうと、いわゆるヒネクレ人間になってしまうのです。
それだけにこの地上界というのは非常にきびしい修行場であるということになります。
このような
神の子としての偉大性を、とかく私たちは忘れてしまうのは、この地球上に出てしまうと皆さまの魂のわずか一○パーセントしか表面に出ておらず九○パーセントはすべて潜在してしまうからです。
ところがあの世では逆に九○パーセントが表面に出て一○パーセントが潜在されています。
こうした転生輪廻の中でその九○パーセントの偉大なる仏智をけんげん顕現する道が、正法であり、八正道の生活なのであります。
そうしてやがて、皆さまの心の窓は開かれて九○パーセントの潜在意識が表面に出てくるのです。
この時に、私たちが長い人生に転生輪廻された過去を思い出し、よりよい生活が期待されてくるのであります。
だから私たちはこの八正道の心と行ないの中からより自分を、過去より高い境地に己の魂を進化させて行くことが、皆さま自身の使命なのです。
ところが、私たちは余りにも文明が発達してしまって、経済という問題が私たちの生活の中にとけこんでいるために、こういう目に見えるところの諸現象、又耳できくところの諸現象に惑わされて、その結果己自身を失なってしまうのです。
それだけにあの世に帰る時には、今までの仏教の中では「めいど冥土のさた沙汰も金次第」といっていますがそんなものはないのです。
皆さまの心が開いて、恨み・妬み・誹り・怒り、自分だけ良ければ良いという心を捨てて、お互いに人間同志、金持ちも貧乏人も調和し、足りないものを分かちあう愛と慈悲の心を、皆さまが実践して行った時には、皆さま自身の心というものは、より以上に神の愛と慈悲とに育くまれて行くことができるのです。
なぜなら、今ここにあるゴーダマ・シッタルダーの像を見ても後に、オーラー後光というものが出ているでしょう。
後光は心に曇りがないと光り輝くものなのです。大いなる安らぎの象徴が後光といえるのです。
ところが心の中の曇りが、想念の曇りが、恨み・妬み・誹り・自己保存・自我我慾の想念をもってしまうと、あたかも我々のこの地球上におけるスモッグの曇りと同様に、太陽の光・神の光をさえぎってしまうのです。
皆さま自身の心が調和され、愛と慈悲に燃え人々に対して己自身を謙虚にした生活を行なった時には、皆さまの心の想念の曇りは晴れてくるのです。
神の光は、太陽の熱・光と同じ様に、金持・貧乏人・地位名誉に全く関係なく平等にすべてのものにあたえられているのです。
人間はそのような偉大な愛と慈悲をうけとるような器を、皆さま自身、自分の心と行ないによって作っていかなければいけないということです。
そういたしますと、私たちはこの地上界において生まれてきた目的と使命というものが何か、自ら解ると思います。
まず我々はこの地上界においてはすべて縁によって組立てられていることを考えなくてはなりません。
皆さまが現在、肉体をもっているのも両親という縁によって、すなわちその縁もあの世の次元の異った四次元以降の世界において、皆さまはお互いに約束をして、今度はお父さんになって下さい。
今度はお母さんになって下さい、と約束して、しかもあの世に登録されて出て来ているのです。
ところがお父さんも、またお母さんもそんな約束は忘れてしまっているのです。
しかし皆さまの心の窓が開かれたならばそんなことはありません。
俗にいう偶然ということはこの地上界には何一つありません。
すべてが縁、縁の糸によって結ばれているということです。
このようにお父さん・お母さんの愛情によって皆さまは育まれ、自分自身正しく生きようとしてきているのでありますが、いろいろな諸条件によって自分自身を狂わしてしまうのです。
それはわずか一○パーセントの表面意識をもって修行しているために正しい判断ができず、解らなくなってしまうからです。
そこに私たちは反省という神からあたえられている慈悲があるのです。
人間なるが故に一寸先は闇だ、苦しみや悲しみや喜びをミックスされたこの世界に修行をしているのですから、私たちはこのことをよく知って間違いを犯したならば、その原因をよく追及してその原因を根っ子から取り捨てて、二度と再び間違いを犯さないような生活をすることが大切なのです。
世のことわざ諺にも「誤ちを改むるにはばかることなかれ」といわれています。
禅定というのもまた同じです。
禅定というのは自分自身の心の中の曇りを一掃することなのです。
ところでその曇りを一掃する基準は、八正道という神理に適った中道を根底にすることです。
その結果、皆さまが自分自身の生きる道をよく心の中に反省され、犯した罪―― 例えば隣の人を恨んだ、嫁と姑が仲良くなかった、このようなことに対する自分自身の行為を反省することです。
相手に対して話す言葉もひとつ違えば感情的に悪くなってしまうのです。
正しく語る・正しく思う・正しく念ずる・・・この神理を中道にてらして皆さま自身が毎日の生活をしていった時には自然と家の中は明るくなってくるのです。
そうすると、どこかの神様がご利益があるとか、また先祖が浮ばれないから不幸になるのだとか、そのようなものによって皆さん自身が盲信と狂信をくり返して行くようなことがなくなるのです。
若し本当に我々の先祖が現在生きている子孫に不幸を招くとしたならば、これはもう既に地獄界に堕ちているものの仕業ということになります。
太陽の熱・光のエネルギーが万生万物に平等に愛と慈悲をあたえているように、神は絶対に人間にたいして罰などはあたえません。
罰というのは自分自身が神理を外した心と行ないをした時に自分自身が作るのだということを知らなくてはなりません。
そのためにはまずここで考えなければならないのです。
それは肉体という舟を保存するための肉体先祖と転生輪廻してくるところの肉体舟の船頭さんである皆さまの永遠の己自身、すなわちこの魂の先祖というものがあることを考えなくてはならないのです。
かってゴーダマ・シッタルダーが今から二千五百余年前、四十二才の時にカピラヴァーストに帰ります。
この時にゴーダマは「お父さん魂の先祖こそ偉大なものなのです。これを信じなくてはいけません」といったところが、父親は「その通りだ。シャキャ族は十五代続いている。シャキャとは、そ
もそも偉大という意味でもあるのだ。太陽の子だとも太陽族ともいわれていた。それだけに先祖代々が立派であればこそ、今は王としてこの生活ができるのだ。先祖を一心に敬うことは良いことだ」という。
ところがゴーダマ・シッ夕ルダーは「私のいわんとすることは、魂の先祖のことです。私たちは今ここに生まれてこのような生活をしているが、過去においても同じような転生輪廻をくり返し、今自分自身が望んで地上界に出て、今あなたが私の父親になっているのです。
肉体というものはいつの日にか滅しなければならない。どんなに執着をもっていてもこの地上界にある万生万物はすべて無常のものである。自分自身も永久に保存することはできないのです。お父さん。このように私たちの体もいつの日にか滅してゆくのです。しかし肉体の船頭さんである魂こそ永遠のものなのです。私のいう魂の先祖とは私自身の過去世のことなのです。そしてまた未来生まれてくる己自身のことなのです」とこのように説かれました。
このように私たちの生命というものは皆さま自身が、本当に肉体からはなれて行く姿を見た時に、自分のもう一つの肉体があるのが判ります。
私は過日皆さまと講演をしに四国へ行きました。
そしてほとんど寝ないで多くの人々にその道を教えておりまして、夜一時頃食事をして床に入ったところ、消化不良といいますか胃腸がいうことをきかなくなりました。
四国へくる時にビルの中の病院で薬をもらってもし胃腸が悪くなったらこれを飲んで下さいといわれていますから「体もちょうど疲れている、二服のんだらさらに効くだろう」と二服のみました。朝の四時頃です。
三時間たちますと酵素が分解して反応が起こる頃なのですが、胃の中が醗酵し始めて気持が悪くなり、約二十五メートルぐらい歩いたところでバターンと倒れてしまいました。約一時間というものは心臓も脈もすべて停止してしまいました。
私はちょうど三十四年ぶりにこの体験をしたのです。
この時私の死体の側にいる人たちはビックリしてしまいました。
この時に過日ここにこられた女性の方は霊視がききます。
心の中であの世、実在界の人たちは無慈悲だ。
なぜこのように一生懸命に人々にその道を説いている人をこのような修行をさせねばいけないのですかと心の中で思いました。
私は私の肉体の近くに立っていますから、部屋の中の皆さんの心が解ってしまいます。
彼女がそう思った瞬間に、私の体はまだ呼吸も何もしていませんがイエス様がさっーと入られましてそばの人達を安心させるために「大丈夫、大丈夫・・・・・・」と喋っています。
私たちは肉体の心臓が止まってももう一人の自分ははっきりと解るものです。
この時に私はまず考えました。
「これはえらいことになった。私は事業もいくつかやっている、そのため夜も遅く、三年六ヵ月という間一日も休んだことがない、このために肉体的にはたしかに過労になっている、とんでもないことになってしまった。このまま死んでしまったらどうなるだろう。
しかしGLAの神理は多くの人々が日本全国に、また外国にもいるし、また多くの著書が出ているからこれは必ず誰かが引継いでくれるだろう。
しかし事業の方は私がほとんど釆配をふるってきたため内容が他の人には判りません。それだけが私の執着でした。
このため私自身復活して現象を見せる以外ないだろう。
神理の方も復活して、また多くの人々にそれだけの現象を見せなければならない。という自覚をしています。
そのような現象がおこってしばらくたってから心臓が動き始めました。
心臓が動いたといってもなかなか自分の肉体に意識が入れません。側で見ているだけです。
そしてまた空洞の中でガーンという物凄い振動がある中に自分の意識の底の方から「私はこれで良いのだろうか。もし私のやっていることが間違いであるならどうぞ私を引取って下さい。私に使命があるなら私はやります」。
このように約一時間完全にダウンをくいました。
それから二時間か三時間くらい休み、午后二時の飛行機で自分の家へ帰り一晩寝たら元の通りに直ってしまいました。
この時に胃腸に意識があることをはっきりと確認できたのです。
胃腸が曰く「あなたは何時でも勝手な時間に休めるだろうけれども私は休む暇がない。というのも気ままにどんどん送ってもらっては困るのだ。しかもあんな脂っこいもの許り送ってくる。どうしてくれるのだ」とこういう訳です。
心臓は心臓で「あなたの血液はまるっきりとんでもない血液だ。もう少し粘調度のうすいような食物を食べて下さい」そうしたらその原因はどこにあるのだときいたら腸だということです。
そこで腸にきくと「お前は腸の中を掃除したことがあるか。四十年も使い放し。少しきれいにしてくれ」と腸は逆に反撥してきました。
そして腸のいう通りやりましたところ現在体もすっかり立ち直り、もちろんねたことはありません。
ふつうの人だったら恐らく生き返ることは不可能だと思う。
私はそのための休養もとりませんでしたが、今は完全に復調して逆にこんどはやせてしまいました。運動不足のせいでした。
そこで運動を一生懸命にやっているうちに完全に体というもののコンディションを整えることができました。
このように皆さま自身もどんなに心の面が絶対であっても限界というものがあります。
物質にとって限界をすぎれば、ゴムにしてもスプリングにしても元に戻らなくなります。
これを弾性の限界といいます。
皆さま自身もどんなに心がきれいであろうとも、肉体舟と魂が一体になっていなかったならば非常に危険だということを知って頂きたいと思います。
インドの当時におけるシッタルダーも三回近く同じような体験をしています。
きのこ茸をたべすぎて中毒し、ああしまったといったことがあったようです。
このように私たちも肉体舟がなければ修行することも出来ないということを知らなくてはいけません。
このように肉体と魂というものは不二一体、ここに仏教でいう色心不二ということがあるのです。
こういうように、私たちが魂と肉体が本当に不二一体だ。
物質とエネルギーと不二一体だということを考えた時、大自然というものは非常に巧妙にできているといえます。
そこで私たちはあの世にもまたきびしい段階があることを知らなくてはなりません。
心の調和された美しい人たち、転生輪廻をくり返してきて己の境地というものをより高いところに己自身の魂を浄化している人たちは、神の光によって後光がさんさん燦々と皆さまの体から出ています。
この後光はあの世に帰る時の皆さまの肉体なのです。
それが嫁姑が争ってばかりいて恨み・妬みの固まりになってこの世を去ってしまった時には真暗です。
なぜならば己の心の想念の曇りが神の光を遮るために、自分のやった行為と心の姿が完全に曇りを作ってしまうために、神の光が届かないからです。
そして結果としてその人の心に比例した世界に堕ちていくのです。
地獄にも無間地獄というのがあります。
最近ではヒットラーとかスターリンが無間地獄に堕ちています。
なぜ無間地獄に堕ちるかと申しますと、恨みと妬み、そして人を殺したその恨み・第三者の恨みが晴れるまで彼らの意識を束縛してしまうのです。
そのような人間は無間地獄に堕ちるのです。
あるいはまた金・金・金といって金のことしか考えない人たちはがきかい餓鬼界におちてゆきます。
餓鬼界という世界は最もきびしいところです。
食物もありません。全く骨と皮だらけの世界です。
私はいって見て本当に気の毒だと思って参りました。
それから、皆さまの心が怒る心、そして恨みの心――これは心の中で思っただけでも駄目です。
その心はあしゅらかい阿修羅界に通じていることを知らねばなりません。
そして私たちはその恨みの心が阿修羅界に通じていることをはっきりと現証にて確認することができます。
それですから皆さまは夜夢を見た時にでも結構です。
とんでもないところへ行ってビックリすることがあるでしょう。
そんな夢を見た時には必ずその前の日、皆さま自身の心の中に不調和な現象があったからです。
その様に心というのは、いかに重大なものであり、私たちは心こそ永遠に変わらない己自身だということを知るならば、現在のただ今心と行ないがいかに大事だということを知らなくてはならぬはずです。またれんごく煉獄じごく地獄というところがあります。
この世界は人間のごうそうねん業想念が作り出している世界であります。
ろくに何もしないのに、死にたくない死にたくないと言って生に対する執着心が人一倍大きいにもかかわらず、彼らにはかこく過酷な労働と死が常に待ち構えているのです。
世間ではよく家を建てる時とかにおはら祓いということをやります。
これは皆さまも良く知っているでしょう。
ところがお祓いなどしたらとんでもないことになります。
電気掃除器で吸いとることができるなら良いのでしょうが、そうはできない。
彼らはこの場所に執着をもってこれこそ俺の家だと思いこんでいるからです。
こんな体験がありました。
過日私が家を建てるために、古い家を壊しかけました。
その家は今の天皇陛下がたまたまこられてそこでお神楽をご覧なった場所で、伊藤博文の書だとか額だとかいろいろ掛かっています。
非常に古くから代々続いている古い家だものですから、土蔵を壊し始めたところがいっぱい霊がいました。
彼らはいうんです。「あなたは一体誰だ、私は何代前のこういう者だ。俺の家を勝手に壊しては困る」、そこで私は「子孫が繁栄するのを望んでいるのならあなたたちはなぜそんなことに執着をもつのです。あなたたちはこの地球上に住むべきではないのだ。執着をはなれて天上界の光の国へ帰りなさい」と話してやりましたら「そんな国なんかありやしないさ」と彼らはそう答えました。
死ぬ時にそんな執着をもっているから自分が反省する機会を失っているのです。
そのうち一人の工員が怪我をしましたのでこれはおかしいと思ったところが、後の方に、有象無象たくさんいます。
そこで私が「先祖代々の諸霊よ、あなたたちは良く聞きなさい。
あなたたちはこの地球上に執着をもってはいけません。
なぜあなたたちが地球上に執着をもっているのかそれを良く教えてやろう」ところが彼らは地獄へ堕ちても九○パーセントの表面意識ですから、すぐ私たちの光は解ってしまいます。
そこでコンコンと話をしたところ「ああ俺たちはやはり死んでいるのだ。この家に未練をもって子孫と話をしようとしても、あなた以外には話はできなかった。申し訳なかった」と言いました。
それも五代十代、二十代と古くなるほど本当に解りません。こういう連中が地獄に堕ちているのです。
彼らはお墓やお寺が自分の世界だと思っていたらそれも地獄なのです。
こういう世界に執着がある彼らは本当に総てを捨て切ってあの世の天上界に帰らなければいけません。
その地獄に堕ちるには堕ちるだけの理由があります。
そしてそう裁くのも自分自身なのです。えんま閻魔大王が側にいてお前はこんな悪いことをしたから地獄だ、とんでもない話です。
皆さま自身の心は絶対に自分にはうそをつけないはずです。
この嘘をつけぬ善なる己自身の魂が自身を裁くのです。絶対に他人が裁くのではないのです。
これから皆さまの中からも心の窓が開かれる人たちが出て参ります。
お稲荷さんというからさぞ稲荷大明神かと思っているととんでもないことです。
その時にははっきりとその物の姿を皆さまはこの目で見ることができます。
そう成った時に「さわ触らぬ神にたた祟りなし」ということをよく知って頂きたい。
ですから多くの信者の中には、私はこんなに一生懸命に毎朝、南無妙法蓮華経と勤行しているのになぜ不幸なんだろう。
隣りの八さんや熊さんは何も信仰していないのになぜあんなに調子が良いのだろうと思っている人たちがこの中にだいぶ居ります。
そこに皆さまは疑問をもたなくてはいけません。
自分が真に法華経の神理を知って毎日の生活をしているかという己自身を反省することが第一なのです。
これを忘れて神様のせいにしてしまって神はすこしも協力してくれない、と思ったりしていますとそのうち熱中して来ます。
病人が出た。それ経済的に不調和だ。こういうことに直面しますと先祖様にすがる、一生懸命に南無妙法蓮華経を唱える。
これでもなかなか結果は出てきません。
そこで大事なことは南無妙法蓮華経を縁にしてなぜ自分自身がこの様になったのか、これを考えることが忘れられているのです。
この疑問を疑問のままに流し去っているところに間違いがあったのです。
そこで皆さん自身の南無妙法蓮華経の神理を悟った生活行為が必要だということです。
南無妙法蓮華経そのものもインドの当時にゴーダマ・シッタルダーがよくハスの花を方便として説きました。
「あの泥沼をご覧なさい。あの泥沼は汚ないではないか、しかしあの汚ない中にも美しいハスの花が咲いている。
お前たちの体もそうだ、目を洗えば目糞、また鼻糞・耳糞、体から出るものは何一つとしてきれいなものはない、ちょうど泥沼のような体だ。
しかし肉体舟の船頭さんであるところの魂、心が神理を知ったならばあのハスの花の様にお前たちは仏の心と調和されて安らぎを得ることが出来るのだ」と、これを五世紀から六世紀にかけて天台ちぎ智がほうれんげん法蓮華さんがんじゆ僧伽呪として説いたのであります。
続いて八世紀に日本から留学したさいちょう最澄が比叡山延暦寺で妙法蓮華経として日本流に改めました。
つづいて日蓮はごていねいにも南無妙法蓮華経と南無の字をつけました。
人間は新しいものを発明するのが好きで人のやったものは中々信じられません。
南無とつければもっと良いと南無とつけたそうです。
ところがインドの当時に南無という言葉はナモということです。
中国から日本へ来てナム。南の方には何も無い。こんなのは当て字です。
南無というのは帰依する、調和するということです。
法華経は自分自身の心こそ偉大だと教えているのです。
そして心と行ないを常に法華経の真理を通して毎日の生活行為の中に私たちはより以上に、神仏の子としての偉大性を発見することができるのだということを説いているのです。
ところであの世の問題ですが、皆さま自身がこの世を去る時には心の悪い光のない人達は先ず地獄に行くことを覚悟して下さい。
死ぬ時に執着をもっている人も地獄です。
その反対に執着もなく自分自身が一生懸命に毎日毎日を生きてきた、心の中は反省しても悪いことはないという人は安らぎの心ですから神の光が入って参ります。
私の体験ですが、過日死んだ時に――そんないい方をしたらおかしいのですが――一時間ばかりあの世にいってその時につくづく感じたことは、今日一日一日が一生である。明日思い残すことを持ってはいけない。
そして明日また生きられるならば、明後日また生きられるならば、このようにしよう。あのようにしよう。という計画は必要だが今日死んでも良いというような心の状態にしておくことが一番重大だと私は悟りました。
それだけに我々は死というのは決して恐しいものではありません。
皆さまが死にますとまず心のきれいな人たちは向こうから迎えが参ります。
肉体の先祖か悟った人がくることがあります。
あの世の鼻の高い人が来たり外国人のスッキリした人が来たりするとビックリすると思います。
このために肉体先祖が来ていろいろその中で生活の修養所のようなところへ連れて行かれます。
さしあたり、ある宗教団体で他宗はすべて邪教だと決めつけた人たちの中にはあの世へ帰った時に、ただし心がきれいならば修養所で彼らのいった法華経の間違いを、そこで訂正させられます。
彼らはその道場で間違いを自分で発見するのです。
日蓮は他宗はすべて邪宗で日蓮宗だけが絶対だとはいっていません。
ところが日蓮宗は南無妙法蓮華経を拝んでいてもあっちは邪宗だ、こっちは本物だとか馬鹿みたいなことをいっているのです。
こういうことをまず修養道場で徹底的に反省させられるのです。
ある人はここで十年、いや二十年・三十年やっても卒業できない人がいます。
この段階がまず第一段階。さらにその上に幽界というところがあります。
一般に皆さまがいう天上界というところです。
天上界へは後光という光がなければこの国の扉は開かないのです。
ちょうど電気の光で開く扉と同じようなものです。
皆さまの心が調和されて光子体という肉体の光が強ければ強いほど世界がどんどん開けて参ります。
これはちょうどエレベーターにのっていると思って下さい。そしてこのエレベーターは無限に続くエレベーターなのです。
私たちはよくあの世に行く時に、途中で死んだ人たちがついてきます。
白い雲にのって途中でみな消えて知らぬ国へ行ってしまいますが、それでも結構、天上界に行っているのだから良いなあと思います。
その天上界の一番上の方の世界が仏教でいう如来界、または金剛界ともいいます。
その世界は全く下の方から見れば太陽だとも、神様だともいわれます。
この世界にはスモッグなどはなく晴天です。
地獄界へ行くとちょうど谷間のような暗いところと思って下さい。
そんなところへ行くのもこの地上界を去る時にみなさま自身が自分で決めてしまうのです。
すなわち神も信ぜず人を恨み・妬み・そしりした連中、自分勝手な気ままなことをした連中は奈落の底へ堕ちます。
土管の中の様に真暗な世界です。
その時に必ず誰かが救いに来ます。
「お前、そんなところにいたら死んでしまうぞ」。
死んだと思っていても大低の人はこの地球上に執着がありますから、自分の死体の側にしばらく居ります。
そこで自分で眺めていて、生きている親や兄弟と話が出来ないものですからそこで疑問をもち始めます。
その内にお坊さんが来て「ああ自分は死んだのかなあ」ということになります。ところが仲々お経をきいても難しくて解らない。
そのうち「ああ、あいつ自動車にのってきたから自分が生きていると教えてやろう」ということになって、自動車事故を起こしたりするのです。不幸の後によくこういうことがありますね。
お経はいくらお坊さんが一生懸命あげてくれても難しくて解りません。
ですからもっと解り易く「貴方は今死んだのです。
生きている時に、八正道という修行を通して貴方はこういうことをした。
だからこういう面を修正しなさい。反省しなさい」、とよく教えてあげることなのです。
そうしますと口の利けない死人の顔がスーと赤くなります。同時に硬直しているのが柔かくなります。
こういうことは機会ある時に試してみて下さい。
それと同時に皆さん自身は自分自身をより修行していかなければなりません。
下手に自分が解らずに一生懸命にお経をあげている中に変なものにつかれて腰が痛い痛いということになってしまう、こういう人が東京にはたくさんいます。
それには原因は何であるか、心がこんなに一生懸命に信仰しているのに私はなんで安らぎがないのだらうか。
その安らぎは本当は自分自身の心のあり方によってできるのですが、自分の心が解らないために、またどのようにすれば良いという規準が解らないから、迷ってしまうのです。
すなわち、まず八正道の規準をもって思うこと、行うことが神理に適っているか、又はいないかを反省することが大切です。
私は八正道をやっているから「あの野郎口惜しいのだが我慢しょう」、とみな心の中におさ抑えてしまってはだめで、こういうことに自分が執着をもたない。  
そして自分が正しく相手に対して、それでもなお相手が突かかってくるなら「ああ、あの人は救われない哀れな人だ。神よどうぞあの哀れな人を幸福にして下さい」と念じて下さい。
この慈悲心が大事です。
こういう例は特に嫁・姑の関係に多いのです。
姑さんがいるからと遠慮して心の中ではあの婆さん本当は死んでくれたら好いのに、あの婆さんのために私はこんなに苦しいのだ。考えて見たら赤の他人。
私さへ我慢したら好いんだとみな心の中に詰めこんでしまいます。
ところがこれを親や兄弟のところならいざ知らずよそへ行ってぐち愚痴話になります。実はこれが一番危険です。
実は過去世において親子であったかも知れないのです。
そういう縁がなければ嫁・姑の関係もできません。
そういうことが解らずにただ気の毒なお婆さんだというと、すぐお婆さんからとんでもない嫁だと反撥が返ります。
そういう時でもやはり自分の心を惑わされないように、正しく語って相手に感情を高ぶらせぬような言葉で話をして解らなかったならああ気の毒な人だ、神よどうぞあの方に平和をお与え下さいという心が大事なのです。
これを忘れてお互いに犬猿の仲のようになってしまうとついにお嫁さんの方が倒れてしまうことがあるのです。
これは心の船頭さんが迷ってしまうから肉体までおかしくなるためです。
この中にも私もそういうことがあると思っている人が四十八・九人居ります。
皆さんはよく考え直すことが大切です。
特にお互いに心で笑い合えるように、馬鹿をいっても怒らないように、心を大きくもって包んでやるような心をもつことが大切です。
特に年をとった人たちは自分などはあーだった、こうだった、こんどの嫁はちょっと違うとかいろいろ思うものです。こういう中にあっても皆さん自身は心を惑わされぬように、まず明るく平和にすること、こういう生活をしていると家の中に光が入ります。
後光がさしているから今度は悪魔も入れません。これがまず第一です。
私はこういう質問をうけました。
家のおじいちゃんはお墓がないのです、大きな石塔をお金がある
から作ってやりたい。ああそうか、おじいちゃんの名前はなんという、年は、とききました。
ところが名前というのはインドの時代ももくれん目蓮という名前が沢山ありました。
またかしょう迦葉というのもそうですがそのため大・中・小といろいろ区別した名前にしたのですが日本の場合も小林太郎というたら何百人もいます。
先祖代々でなくとも、肉体関係がなくともあの世から呼び出されれば、ここへ来なければならぬのです。
だから皆さんが自分の先祖を先祖代々と呼ぶと本当にくるのですよ。
ただし心がないと地獄霊とか、おかしなものが来ます。
ところがこのおじいちゃんは天上界に出ている人でしたから「お墓はどう作ろうといかん。金が掛かるから。もっとかわいそうな人たちにその金を貸してやれ」といわれるのです。
その方は墓をつくるかわりに喜捨をされました。
もう一つ実例があります。
ある化粧品の大きなメーカーの社長でその方は非常に立派な方で幼少から天理教に帰依していました。
ところが忙しくてそのうち天理教はやめましたがその神理の中から立派にこの道を弁えています。七十で亡くなられました。
約五百人いる従業員が、どうしても社長の銅像を建てたいといって私のところへ尋ねてきました。
その亡くなられた社長があの世から出て来ていろいろ話をきいて見ましたところ「お前たちがいつか経済的な不況のために会社が困ることもあるかも判らない。
銅像を建てる金があったらその時の資金にとっておきなさい。
銅像など建てる必要はない」とその社長がいわれたそうです。
実はこのことは三日前なくなられる時にも同じことをいわれたそうです。
そこでたまたまある人を介してそこの会社の役員達が従業員の希望と前社長の遺志とをどう考えたら良いか判断に迷って私のところへ相談にこられたのです。
ところがこの社長は大したものです。「私たちは地球上で生活している時よりももっと良い環境で生活している。
地球上に思い残すことは何もない。
だから多額のお金で銅像をつくるなどその必要は全くない。
会社の多くの店舗がもし一つでもうまくいかなくなった時その救済のための資金として残しておくように」といわれました。
死んでも欲しがるのは地獄霊ですが、毎晩ご飯を供えてくれなけりや先祖はひもじいのだなどいってくるのは地獄霊です。
もし希望なら何時でも見せてあげます。
余談ですがあの世にもこの地球の食糧とは違いますが食事はあるのですよ。
ですから、まず皆さん自身が、家の先祖の皆さんに、私は盲ですので皆さんの姿を見ることはできない――しかしそのうち調和されて心がきれいになれば皆さんの姿も見えて参りましよう。
こうして先祖の生きて居られた時のことをもし間違いがあったら、ああです、こうですといって説明してあげてご覧なさい。
それにはまず一番大事なことは、家の中を平和にすること、そして心にわだかまりがなく夫婦相和し調和のとれた平和な家庭をつくること――それが本当の先祖への供養なのです。
皆さんが自分の子供が不幸になることを望みますか、――望まないと思います。
これと同じように、お爺さん、お婆さん、また、もっと以前の先祖も残された子孫が不幸になることは絶対に望まないはずです。
ちょうど関西歌舞伎で東京から来ている俳優が昨日私のところに参りまして「先生私は今仏壇の御供養のために大変なのです。
私たちの食事よりも多くの迷っている霊のために食事を供養することが大変です。
実は足が不自由になっているのでなんとか先祖を供養してと思っているのですが・・・・・・」、というので私は霊視であなたは憑依されている、あなたは先祖を拝めば救われると思っているが実は自分の関節までだめにしかかっているではないか。
食事が欲しいなどいう先祖はないはず。
先祖供養を考え違いしてはなりません。
悪い関節はすぐ直してあげましょう」とよく話しをし、光を与えました。
現在元気で大阪公演中です。
この様に私たちは先祖にはまず感謝し、家の中を明るくすること――これが一番の先祖供養です。
それを忘れて家の中などかまわずに、ただ先祖様だけ好物をいくら御供えしてもこれは本当の信仰とはいえません。
私たちは肉体を頂いたことを感謝する心と行為を現わすには体を丈夫にすることです。
そうして同時に心をきれいにすることです。
こうなると自然と家の中は明るくなり、経済的にも安定して参ります。
これは八正道の中の正業すなわち正しく一生懸命に仕事するから当然の結果です。
こうして自分の家が平和になったらこんどは隣、近所の人々に愛と慈悲を分かち合う――そして調和を作っていく
これが本当の神理です。
あの世というところは、心の悟っている人たちはどんどん進化して行きます。
神界というところは多くの発明・発見をする、例えばアインシュタインのような学者が多くいます。
それからさらに心が浄化され多くの人々に自分の肉体を供養した、このような人たちは神界よりさらに上、すなわち菩薩界上段階光の大指導霊、さらにつづいて上々段階光の大指導霊・いわゆる如来界という段階に進みます。
人間は心こそ偉大なるものであることを皆さん自身が発見されて行った時に、私たちはこの神理を己の心として毎日毎日の生活をしていかねばならぬのです。
人間は永遠に変わらない己自身の心を神の心として、偽りのない己に嘘のつけぬ心の調和を日々計って前進した時に本当に人間が神の子であるということを悟っていくのです。
現在この地上界における人類は、みなあの世に帰った時には私たちはみな兄弟だということを発見するのです。
それだけに皆さんは隣近所の人々とは赤の他人だとはいってもふりかえればみな神の子であり、お互いに自分の考えの足りないものは人から受け、余っているものは人々に分け、心の中に神の子としての偉大性を発見して行くのです。
皆さまはこの現象界において神理を知って修行し一つでも実践して行ったならば、皆さま自身の心のテープ・レコーダーの中には今私が説いている神理がすべて記録されているのです。
それはこの世を去る時、自分の善なる心で思ったこと、行ったこと総てが記録されている心のテープ・レコーダーを自ら眺め、その時に救われるのです。
このように私たちは心こそ永遠に変わらない己自身だということを知り、正しく神理に適った生活行為をすることが肝要なのです。
大自然の慈悲と愛に対する感謝にしても、親に対する感謝にしても、ただ有難うございますというのは感謝ではありません。
親孝行を自分が実践してこそ感謝が輪廻するのです。
大自然が私たちの肉体を保存できる環境を与えてくれている神の愛と慈悲に対しては、私たちは凡ての人々に対して自分自身が出来る奉仕を行ない、慈悲を与えてあげる、そしてそれに対して決して代償を求めない――こういう心の浄化と実践を計ることが本当の大自然への感謝ということになるのです。
太陽の熱・光が万生万物に全く変わりなく与えられているその姿と心をもう一度良く思い起こして下さい。
posted by ゆき at 11:46 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神 理 と 科 学

 中国のげんしょう玄奨三蔵が、大般若経の中からそのエキスを抽出し『はんにゃ般若しんぎょう心経』という小さくまと纏めた経典があります。その般若心経の解説を通して、過去においての仏教というものが、現代の物理学でも解けるということを、今日はもっと突込んで説明したいと思います。
 私たちはややもすると、仏教と科学とは全然違ったものだと思っております。また宗教家たちは自然科学というものに対する研究がおろそかなために、仏教の真実の心を解くことなく、宗教と科学は全く別なものであるがごとく説いて間違いを犯しているのであります。
 過去におけるところの哲学者と称する人たちのほとんど一〇〇パーセントが、自然科学を根本として説いておりますが、仏教でもハッキリと〃色心不二〃という表現をつかってこれを説いているのであります。
 アリストテレスにしても、ソクラテスにしても、ターレスにしても、あるいはハーバード・スペンサーにしても、それぞれの角度から神理というものは不変的なものであって、観念的なものではないとしています。
 特に日本の場合の宗教は、外国から輸入されたものが非常に多いために、いつのまにか難しい哲学的に書かれたものを、拝むことが信仰だというように変わってしまいました。「まか摩訶はんにゃ般若はらみ波羅蜜たしんぎょう多心経」という言葉があります。このマカとは、マハーと呼ばれている古代インドの言葉で、意味は、特別とか、偉大ということであります。ゴーダマ・シッタルダーを育てた母親は〃マハー・パジャパティーと呼ばれております。中国の天台ちぎ智の説いたひとつの理論体系の中に「まか摩訶しかん止観」という言葉があります。これにもマハーの摩訶が入っております。偉大ということです。止観というのは止まって観る。すなわち自分自身の思ったことや行為、また生活、実践の中から生じた黒い想念を反省して、神の光によって自分の心を美しくする。これを具体的に著わしたのが法華経の根本になっている摩訶止観であります。
 「般若波羅蜜多心経」はインドのゴーダマ・シッタルダーの時代は、パラミターストラーといっています。 
 みなさんは氷をご存知でしょう。氷というものはほとんど水の中に沈んでおります。 〃氷山の一角〃というように水面に出ているのはわずか一〇パーセントです。九〇パーセントは水の中に潜在しています。一〇パーセントが表面に出ております。
 みなさん自身が人生航路に両親の縁によって頂いた肉体というものは、あくまでもこの地上界という場に適応して地上界の万生万物、相互の作用によって肉体保存ができるのであります。しかし皆さんの魂は、その肉体という舟に乗ってしまいますと、意識は一〇パーセントしか表面に出ていないのです。これが逆にあの世に帰りますと、この一〇パーセントは潜在してしまい九〇パーセントが表面に出て参ります。そのために実在界(あの世)に帰ってしまうと修行ができなくなります。
 なぜならば皆さん自身、自分の心がオープンになって、みな相手にわかってしまうからです。
 「私は今このように思いました。」「私は今このように考えています。」ということが、まったく嘘をつくことができず表面に出ているのです。こんな状態で皆さんは修行できますか? 自分自身のしたことを、思ったことを、うしろの方に全部がコンタクトされて、思っていることのすべてがうしろに出されたら、皆さんはオープンで歩けますか? あの世はそのような世界です。思ったことが即座に出てまいります。
 それだけに神の光というものは万生万物、太陽の光のようにまったく地位や名誉に関係なく、平等に、愛と慈悲の光は与えられております。しかし、それはその人の心と比例したものが与えられます。それゆえに私たちの心というものがすべての基準なのです。
 この地上界に出てくると、今何がないといっても自由です。ところが、今ここに一つ新しい計器を持って来て、その人たちの思っていることが、パチパチとここへ出てきたら、皆さんはどのようになるでしょう。修行などできません。見えないからこそ修行ができるのです。
 しかし、心の窓が開いてしまうとそれがわかってしまいます。なぜならば、我々は肉体という舟に乗ってしまうと、九〇パーセントは潜在意識になって、表面に出ている一〇パーセント、つまり目や耳やあるいは五官をとおして人生々活をおくり、その中でまちがいであるか、正しいものであるかを、みずからの環境をとおして判断をしなければならないのです。ところが、潜在している九〇パーセントの中には、皆さんの何億年、何兆億万年も転生輪廻をして来たところの偉大なる智慧が、偉大なる皆さんの体験記録が、記憶されているので、そのぜひがおのずとわかってくるということです。これをパラミターといいます。その心の教えが即ちパラミター(波羅蜜多)心経であります。
 それゆえに内在するところの、我々の九〇パーセントのテープ・レコーダーをひもとけば、私たちは何億万年前にこういう事をした、ああいうことした、そして、今肉体をもってこのような生活をしているということが、誰にもわかるのです。
 人間はみな万物の霊長であり、地球上という場で、己自身の転生輪廻してきたところの、不調和な分野を修正すると共に、自身が過去において学ばなかった新しい人生航路の智慧を学習しなければならないのです。それと同時に、神の体であるこの地球上の環境に、人びとの心と心の調和のとれた、平和なユートピアを作ることが本来人間に課せられた使命なのです。
 八正道は、皆さん自身が、神の子としての己を自覚し九〇パーセントの潜在意識をひもとくためのひとつの道であり、感謝と報恩の行為という布施の心は、多くの人々の存在を知って、万生万物の相互環境に対して、私たちは、自分だけに頼らずに、多くの人々に協力をし、お互に譲り合い助け合い、心からの愛と慈悲の実践行動によってこそ、この地上界の環境が調和されるのです。
 ところが、人類は万物の霊長以下の動物達の斗争本能の姿を見て、そのまま生存本能だとし、争い、斗争、などの不調和な行為をすることが、あたかも人間的であるように判断をしている学者や、一般の人たちが大勢います。
 人間は、神の子として大調和という一つの大使命を持って出ているのであって、ケニヤの動物のような不調和な、斗争と破壊を繰り返すべきではありません。皆さんは〃あの世〃に帰った時に、それを反省しても遅いのです。生きているうちに、私たちは偉大なる九〇パーセントの調和された己自身の心の本性というものを悟らなくてはならないのです。
 般若心経というのは、インドから中国に渡って来たあの膨大な大般若経の経文を圧縮したものです。ここで「かん観じざい自在ぼさつ菩薩ぎょうじん行深はんにゃ般若はらみ波羅蜜たじ多時」、観自在菩薩とはいったい何だろう? 自由にある菩薩、自由に見る事ができる菩薩が般若波羅蜜多を深く行じた時に・・・・・直訳するとこんなことになります。皆さんわかるでしょうか?
 経文を一生懸命にあげれば、幸福になるのだと思っている人がありますが、そうではありません。「観自在菩薩」というのは、ゴーダマ・シッタルダーの時代には、〃アボロキティ・シュバラー〃と呼ばれ、自由自在に見ることのできる能力を持った悟られた方、ということです。このような方は、潜在意識の九〇パーセントがひもとかれて、八正道を実践し、しかもまた人々に慈悲と愛を与えてゆきます。太陽は迷える多くの人びとに、万生万物に、その熱・光のエネルギーを平等に与え、ガス会社や電力会社のように集金には来ません。太陽はタダで我々人類にそれらを与えております。これが慈悲であり、愛なのです。私たちはその愛や慈悲に感謝するだけではなく、報恩の実践をする行為が必要なのです。感謝する心は、行為として実践した時にはじめて循環してくるのです。
 この大自然界に存在するところの万生万物は、一つとして同じところに止ることはできないのです。すべてが転生輪廻を繰り返しております。我々は、自由自在にあらゆる状態を見ることができます。我々はこの場所にいて、アメリカのワシントンで何が起っているかが、みなわかります。
 観自在菩薩というのは、そのように自由自在に皆さんの心の中から、あらゆる地獄・極楽、すべてを見通す能力をもった悟られた方、ということです。これはゴーダマ・シッタルダーの二千五百有余年前の当時に、マノ・ホーテンとかあるいはテイラー・ウパニッシャードというのがありますが、そういうむずかしい経文の中にも、アボロキティ・シュバラーという言葉がいっぱい出てまいります。ということは、すでに二千五百有余年以前においても人間自身の心の偉大性、神と人間というような事柄が解明されていたということです。
 人間は、この世に生まれてしまうと、〃肉体が絶対だ〃〃自分の産まれた両親が絶対だ〃〃家系が絶対だ〃と、このような無用のもの、無縁のもの、不縁のものがすべてだと思ってしまうために、そういうものが基準となって、自己保存が強くなる。自我、我欲が強くなるから暗い想念をつくり、神の光がさえぎられる。光がさえぎられるために、ラジオではないけれども、他所の音波が出てきても自分自身がわからなくなってしまいます。そのうちに動物霊か何かが、憑依して「神様だァ」なんていうようになると、本当に神様になったような気になってしまい、僧上慢になる。そこにまた新しい宗教が生まれてゆくのです。
 ところが必ず人間はこのパラミタの潜在意識の中に、正しい神理を知って、アノ世で、さらにその前の世の中で修行をしてきているのです。その経験されたことが心の中に全部記憶されているから、いろいろと疑問が起こってきます。しかし疑問、解答、疑問、解答がやがて不動の神理に到達してゆくのです。ところがふつうは「おまえさんは一生懸命に念仏を上げていれば幸福になるんだョ」たまたま病気でもすると、「あなたは念仏を上げないから病気になった」・・・・・ 上げれば上げる程ますます、おかしくなってしまうのです。皆さん自身が「なぜ?」とわいてくる問題に気がついた時、そのような病気や、あるいは経済的な不調和、家庭の不調和は、原因があるから起こっているということに気がつくはずです。神仏を拝めばよい、拝み足りないから不幸になるのだ、という間違った考えから離れてゆくはずです。
 まず私たちはこの地上界において、一切の諸現象は縁というものによって成り立っていることを知らなければなりません。縁無くして現象は起こりません。あらゆる森羅万象も縁によって起こっています。
 まず地球を含めて、太陽や地球やあるいは月、この関係という物のすべてが縁によって動いているのです。太陽から出ている熱・光のエネルギーがもとになり、水星・金星・地球・火星・木星・天王星・海王星・冥王星という九つの惑星を初めとして、三万数千個から成る小衛星集団が一糸乱れずに循環を繰り返しているのであり、大宇宙そのものも、また同じ原理により循環しているのです。
 あらゆる森羅万象は、人類の生存のできる最も調和された環境としてあります。しかし心ない人間自身の作り出した不調和は、公害となって現われ、やがて人類は、公害によって滅亡するのではないかと多くの人々が騒ぎ始めています。神から与えられたものは、人類の調和された環境を保障していました。しかし我欲に基づいて心を失った特権階級、そのとりまきの人たちの作り出したものは、物質至上主義に走ったために、現代のように化学スモッグどいった、さまざまな公害による大気汚染、河川の汚染、海の汚染というものになって自然というものをはかい破壊しております。人間自身の心を失った姿は、自分自身の住む世界を破壊してゆくのです。我々は肉体保存のためにも、そしてまた神の子として、地球上に修行を目的として出ている環境においても、肉体を健全なものとして保護しなければならないのです。
 あらゆる現代社会のひずみ歪の根本になっている〃心〃という問題を、我々は本来学ばなければならないにもかかわらず、その道を説くべき宗教家が、ただ単にお経を上げることによって救われるとか、また般若心経を読誦する、一万遍上げる、百万遍上げることによって人間は救われるのだ、という間違った考えをしているのです。あるいは法華経を、ある特定の宗教家たちは、「南無妙法蓮華経」の題目斗争によって人間は救われるのだという、ほんまつ本末てんとう転倒もはなはだしいといわねばなりません。
 真実は、「法華経」に説かれているその道を実践することに価値があるのです。
 法華経とは、ゴーダマ・シッタルダーが二千五百余年前に、多くの無学文盲の衆生に方便として道を説いたものなのです。当時のベルベーナーにしても、マーハーベラにしても、あるいはカピラヴァーストでもハスの池が非常に多かったのです。そのハスの池と云うものは非常に汚ない、その池に赤、白、黄のハスの花がいっぱいに咲いています。その例をとって「見なさい、あなたたちの肉体というものはあの泥沼のごとく汚ないものだ、体から出るものには何一つとしてきれいなものはない、その汚ない肉体をもっていても、心が調和され、神理に適った生活をしていれば、泥沼の中でもきれいな花が咲くように、仏の心に調和されてゆくのだ」ということを説いたのです。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・」と唱えることに価値があるのではないのです。
 たとえ、この地上界において不調和な環境の中にあっても、ハスの花のように心を清らかにし、神理に調和された日々の生活をすることが、本当に神の子として己の潜在意識を紐解いて、神の子としての自覚に至ることができるのだ、というふうに説いたのです。
 皆さまはまず自分自身は神の子、仏の子だ、真実に神の子としての尊厳を自覚せねばならない、ということを知ったならば、不自然なものに手を合わすことはないのです。
 実在界(あの世)へ帰れば九〇パーセントの意識が表面に出て参ります。人間以下のモノを一生懸命に信仰してきて、あの世に帰って「自分はどこそこの神様を一生懸命に拝んでいたが、あれは動物だった」と思う人たちが多いのです。その時は遅いのです。一つ間違えば畜生界まで堕ちてしまいます。『般若心経』一つを見ても決してそのようなことは説いていません。人間の心と大自然の問題を説いているのです。
 般若心経の中に「かん観じざい自在ぼさつ菩薩 ぎょうじん行深はんにゃ般若はらみ波羅蜜たじ多時 しょうけん照見ごうん五蘊かいくう皆空 ど度いっさい一切くやく苦厄しゃりし舎利子」とあります。
 観自在菩薩といわれる方が、般若波羅蜜多すなわち、自分自身の心に内在するパラミタ、心を開発する日々の生活を〃行深〃深く行ずるということは、人間らしく生活する、八正道を実践する、この行をした時に初めて、自分自身の潜在された意識をも紐解いて、内在された偉大なる智慧を、自分の体験を通して心の九〇パーセントの意識の中に記録されているものが出て来るのです。その時に、〃五蘊〃というのは皆さまの肉体についている五官、眼耳鼻舌身から起こる煩悩のことであります。〃皆空〃の空ということをカラッポと説いている人がおりますが、とんでもないまちがいです。
 実在界を指して空というのです。
 私たちはこの世界に広がる空間を「ソラ(空)」と呼びます。この空には水の蒸発したものがいっぱいあります。大気中の水蒸気は、H2O という酸素分子が一つ、水素分子の二つが結ばれたものです。また氷もH2Oです。更に水自身もH2O です。このように氷という固体、水という液体、水蒸気という気体、こういった状態総てが熱という縁によって変化を起こします。冷えて零度以下になると氷に成り、熱して百度以上に成ると気体に変わってゆきます。気体になると大気中を昇ってゆきますが、大気中の温度は千メートル上ることによって、五、六度ごと降下してゆきます。一万メートルも上ったら、大変に冷たい環境になってゆきます。そして温度が下るにしたがって水蒸気はごく細かい水滴となり、それが集まって、雨となって地上に降って参ります。皆さんがお勝手元などの仕事をしている時に、ドンドン湯気が立ちますが、その湯気は、ガラスや金物に当って冷えて水滴になってポタポタと落ちて参ります。我々自身には見えなくなった気体がまた冷却されて、水蒸気同志がくっつき合って水になって落ちてくるように、水は地上と大気中とを循環しております。総て熱という縁によってこの現象が起きているのであります。
 皆さま自身は空の世界である実在界(あの世)において、両親という縁によって、この地上界に肉体をもったのです。このように万生万物は縁というものがなくては起らないものです。ところがこのくう空という世界に対しては私たちは見えないから〃ない〃と思う。しかし私たちの目で見える範囲は非常に狭いものです。目で見えない世界の方がはるかに多い。目で見ることはできなくても在存することは否定できないでしょう。                   
 実在界という次元の異なった世界において、総てコントロールされているのです。これがあの世です。皆さん自身がやがて帰らなくてはならない世界です。しかも私たちがこの地上に持っている、財産や地位、名誉も、この世を去る時には持ち帰ることはできません。もし持ち帰るとしたならば〃執着〃という大きな荷物になってしまうので間違いなく地獄に堕ちます。我々は執着を離れることです。足ることを知らなくてはいけないのです。
 人間は足ることを忘れがちで、百万残せば二百万を、一億残せば、また二億というふうに欲望が発展して、その欲望の虜となって苦しみを作ってゆきます。そのようにしてごうん五蘊という肉体舟にまつわる執着は、非常に苦しみや災難を作り出す。一切がこのような現象によって起るのだよ、「しゃーりーし舎利子、しゃーりーし舎利子よ」は、〃舎利子〃とはゴーダマ・シッタルダーの弟子の中にシャーリー・プトラーという人がいまして、非常によくゴーダマの神理を理解し、さらに多くの衆生に対して正法を説いた弟子の一人です。そのシャーリー・プトラーは、当時においてはゴーダマの右腕のような人であったために、弟子の代名詞のようになって、舎利子といっているので、これは諸々の衆生よ、びく比丘、びくに比丘尼よ、サロモン、サマナーたちよということです。
 そういたしますと、自由自在に過去・現在・未来の三世を見通すことのできる、悟られた方をアボロキティー・シュバラーといいますが、観自在菩薩すなわち悟られた方は、自分自身の心に内在された過去・現在のパラミタ、偉大な九〇パーセントの潜在意識を開く一つの生活、正道を実践する生活を、深く行じた時に、我々の肉体の五蘊すなわち眼耳鼻舌身という、肉体舟に付属した五官で総てを判断することによって、一切の苦しみや悲しみの原因を作り出していることをよく知ることができるのだ、舎利子よ、よく解ったか、とこういうことになるのです。
 ところがこのくう空という根本がわからないから、「むなしいものだ」とか「あると思えばなく、ないと思えばある」というふうな説明になるのです。こんなことを言っても皆さまにわかるでしょうか。ある宗教団体の方に、「空というものを知ったならば悟りだ」と言われました。大僧正と言われるような人です。大学の教授のその専門の方に「くう空とは何ですか」と聞いたところが「それが解れば俺は大学教授なんかやってないよ」という返事でした。馬鹿みたいなものです。
 空というのは実在の世界、何でもある世界、実在する世界、意識の世界、この世にないものもある世界です。現象界とはこの空気中のH2O の粒子がお互いに熱の縁によって、集中固体化され物質となっている世界です。我々自身はあの世というこの地上界以外の、次元の異なった世界で、魂の意識界を通して、両親の縁によって結ばれた肉体の舟に乗って来て、この地上界で苦しみや、悲しみや、喜びの体験を通して、より魂を進化させて偉大な自分自身を作り上げてゆくものです。
 現在のこの世界は、三次元の世界です。立体の世界にいてこそ、私たちはこの様な立体の肉体をもって、人生航路を歩んでおります。その中で五蘊(五官、六根)を通して我々はいろいろと、肉体の船頭さんである魂によって目で見た現象を、正しく八正道を通し、中道の道をとおして自分自身を眺め、人から言われたことに対しても、すぐに感情的にならずに、なぜあの方は私にこのようなひどいことを言うのか、まず自分自身の心の中で分析してみて、相手の心にもなり、自分自身の立場を中立に保って判断をしていったならば決して感情的にはならないのです。感情的になると、その感情がふくらんで丸い心に歪が起きて来て、当然、神の光はさえぎられます。暗い想念ができるために苦しみや悲しみの原因を作ってゆくのです。「しょうけん照見ごうん五蘊かいくう皆空 ど度いっさい一切くうやく空厄」であります。
 そこで「しき色ふいくう不異空 くう空ふいしき不異色 しき色そくぜくう即是空 くうそく空即ぜしき是色」ということが出て参ります。空は色に異ならず、色は空に異ならず、色は即ち空であり、空は即ちこれ色である。と解ったような解らないような問題になって来るのですが、そこで皆さまは、お経というものはくどいなあと思います。というのは大体ゴーダマ・シッタルダーがインドの時代から、中道の道を説いている一つの教えを通して、誰にでも解るように、懇切ていねいに説いていったのです。ところが書いてあることをよく見ると、色と空というものが入れかわりに並んでおります。色・空・色・空・色・空とずっとつながっているのです。色はすなわち空なり、空はすなわち色なり、そして色は空に異ならず、空は色に異らず、異ならずということは同じだということです。このように重なっているということは輪廻しているという意味なのです。色と空とが輪廻していると言うことです。即ち生命の永遠を説いているのです。皆さまが知っている〃しき色しんふじ心不二〃ということ、これを心を空に置きかえてもよいのです。その色と空との関係というものが、私たちはこの現象界(色)すなわち皆さまの目で見える世界、赤や青や黄の光の三原色を通して色というものは無数に変わっています。この地上にある、この現象界にあるところの万生万物はみな色彩を通して皆さまの目に映るのです。
 その色彩を通して皆さまに見える物も、実際は虹の七色の七オングストロームから、四オングストロームの間の波長の光しか見えません。虹の七色の世界しか皆さまは見ることができないのです。この四オングストローム以下の波長は電波とよばれます。皆さまは電波を見ることはできません。しかしこの講堂の中にも電波は充満しています。また七オングストローム以上の波長は紫外線、X線、またガンマー線、デルター線に分けられます。こういった短い波長の光も皆さまは見ることができません。見えないからといって無いということにはならないはずです。そうなりますと、〃色という世界は目に見える世界である、万生万物である〃ということです。空というのは、その物を作り出している世界、次元の異なった世界です。あの世、この世、あの世、この世、というふうに輪廻している次元の違う「空の世界」と「色の世界」。これを皆さん自身が輪廻しているわけです。
 それですから「そんな物があるものか」「空なんて世界があるものか」「肉体をもって死んだら総て終わりなんだ」ということになりますと、現代の物理学を否定することになります。なぜならば、色心不二を説いているところの根本法則の一つである、エネルギー不滅の法則にしても、質量不変の法則にしても、立派に物理学によって立証されている不変的な法則であるからです。
 私たちはそのようなことを考えた時に、E = MC2 エルグ、エネルギーというものは仕事をなし得る能力であり、そのエネルギーに対して質量というものと、光というものの二乗を掛けたならば、これは仕事を成し得る能力であるということになる。
 つぎに「ぜしき是色じゆそう受想ぎょうしき行識 しや亦ふ復にょぜ如是 しゃりし舎利子」とあります。またこの如し・かくの如し、シャリー・プトラーよ。すなわち皆さま自身の空即是色を通して見た、私たちの思うこと、行うこと、皆さまの心の中に内在しているもの、心を通して行なうこと、こういうものもまた一切皆空だよ、実在を通してこそ存在しているんだよ、シャリープトラーよ解ったか、ということです。
 ところがこの通りに話してもお坊さんたちにはわかりません。お坊さんたちは物理や科学や自然法則も知らない。医学も知らない。現在まで過去からいわれて来たものを学んで「あのお経をあげていれば善いんだよ。そうすれば救われるんだよ」と言っている。お坊さんですら知らないのに、昨日まで百姓をしていて、ポックリと死んだ。お坊さんを呼んで来てお経を上げてもらった。「お宅さんには般若心経を三回上げましたから・・・・」と言われても、亡くなった人は、死んで即座に仏様なぞにはなれません。地獄へ行くか、極楽へ行くか迷っている人に、ちょっと待って下さいと、自分の戒名も知らないのに戒名を上げられて、自分があわ泡をくっている時に、「摩訶般若波羅蜜多心経」なんて言われますと、ビックリしてしまいます。亡くなった人が、いくら九〇パーセントの意識になったところで、死んだばかりなのにそんなにすぐ解るはずはありません。それで「かん観じざい自在ぼさつ菩薩 ぎょうじん行深はんにゃ般若はらみつ波羅蜜たじ多時」と言っても解らないのです。私たちはこういう神理を、心を通してはっきりと自分自身が学んで、心と行ないが調和されて実践行動をしている時に、本当のものが解ってくるのです。
 次に「ぜ是しょほう諸法くうそう空相 ふしょう不生ふめつ不滅 ふく不垢ふじょう不浄 ふぞう不増ふげん不減」とあります。ここに来るとまた解り難くなってきます。法というのは神理・大自然の神理・正法です。神理正法と云うものは空相であり(空相というのは心の中で瞑想することではないのです)実在を通しての神理であり、実相であります。それ故に、生まれず滅せず、汚なからず清らかならず、そして増えず減らずということです。こうなると、この問題をとけるお坊さんたちはよほど科学や物理を勉強していなければなりません。そうでなければとけない神理です。
 このように実在界を通した一つの実相というものは、生まれることもなく、滅することもなく、そしてまた垢がついたりつかなかったりすることもない、増えることも減ることもないのである。ということは転生輪廻を続けているということであります。我々があの世とこの世という世界を考え、転生輪廻を続けている生命であるという事実を知ったならば、魂と肉体というものは不二一体であり、色心不二ということがとけてくるのです。
 ところで私たちのこの地上界での肉体というものは、約三十二種類からなるところの元素によって構成されております。それが一つの細胞を作り、人体は約六十兆からなる細胞集団によってできあがっているのです。あの世は、空の世界は光です。すべては光子体によってできています。そういたしますと、この原子の次元よりも、あの世の次元の方が高次元であるということは否定できないはずです。
 私たちは魂という面から考えれば、この地球上にAさんとBさんの縁によって肉体をいただいて出て参ります。そしてあの世に帰り、またこの地球上に出て来る時はCさんとDさんという人によって肉体を頂きます。あるいはもう一度AさんBさんから貰うかもしれません。それは皆さまがAさんBさんに親不孝をしたなら、今度は自分が望んでも「あなたを子供にしたらまた酷い目にあうから、もうご免だ」と断わられることもあるのです。皆さんの中にもあの世から生まれる時に断わられた人もいます。私も断られた一人です。私は貧乏なところに生まれなければ悟ることができない、金持ちに生まれると転生輪廻におけるカルマがあって優雅になってしまうから、なるべく疑問をもてるようなあまり金のないところへ生まれようとして出て来ました、その結果はなかなか悟れませんでした。
 しかし金があったらなお悟れなかったと思います。このようにして私たちはこの地球上に出て来て、また、あの世に帰ってゆくことを繰り返して進んで行くのですが、魂の乗り舟である肉体が違っているだけです。ただ舟ばかりを見ているから、私たちは、有ったの無かったの、死んだの生まれたのと思いますが、魂から見れば肉体の乗り替えだけですから、当然生まれることもなく、滅することもないはずです。それで先ほどの物理学の( E = MC2 エルグ )のエネルギー不滅の法則と一致するのです。仏教はそれを証明しております。しかもまた、熱の粒子に対するところのプランク常数と振動数の問題もピッタリと一致するのです。
 物理・科学・そして宗教の神理(真理)は一つも変わっていません。万古不滅のものであり、人間の知恵によって変えられるものではない、ということが解るはずです。皆さまがこの場所に来るまでには、それぞれ電車に乗りタクシーに乗り、あるいは自家用の乗物によって来ているけれども、皆さま自身は乗物が変わっても自分は変わっていないように、私たちはこの地球上とあの世とを区分するから、肉体の死が総ての終わりだと思ってしまうのです。こういうことをよく知って、万生万物におけるところの、エネルギー不滅の法則と同じように、また質量不変の法則と同じように、皆さま自身の魂は永遠なのだということを知らなくてはいけません。
posted by ゆき at 11:45 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

般 若 心 経 の 解 説

 前回は、仏教という神理が、現代社会、現代物質文明の高度化された社会においても、我々が究め得た物理学の法則によっても異論をさしはさむ余地のないような立派な科学的なものであるという事を説明したはずであります。
 神理というものは永遠であり、その神理は唯物的な思想や知識の中から得られるものではありません。
 二千五百有余年前において、あの中インドを中心に、乱れ切った人々の心に安らぎと調和を与えるために、この地上界に生れ出たゴーダマ・シッタルダーしゃか釈迦むにぶつ牟尼仏が、四十五年間にわたって説いた神理は、現代においても、我々の、また皆さん自身の心の中に内在されたテープ・レコーダーの中に、すべて記録されています。            
 ところで、私たちはこの地球上という場に出て来ますと、善と悪のミックスされている厳しい修行場であること、肉体という舟に乗ってしまうと私たちの意識はわずか一〇パーセントしか表面に出ていないため、神理がわからなくなってしまいます。めくら盲のような私たちの人生航路は、常にあんちゅう暗中もさく模索するが、それは万物の霊長として、神の子としての本性を悟るまでの大きな厳しい修行の過程だといえます。我々はその中において、自分の生れた環境あるいは教育、思想、また、この地上界において先祖代々の肉体的な先祖を通して築き上げられたところの習慣、こういうものが大きく我々の悟りの前に厳しく横たわっているといえましょう。したがって、その中から神の偉大な慈悲と、我々の善なる心というものを悟り得る事は非常に至難なことになってきます。我々は、この地上界に自分自身が生れるその環境というものを選んで出てきます。貧乏人に生れてくる者もあれば、金持、地位、名誉のある家庭に生れてくる者もあり、それらは皆、自分自身が選んでくるのであります。 
 まず第一に、この地上界に出て来るときの人類は、経済、物質文明という環境、肉体的先祖という環境、こういうものは修行の材料であって、これにとらわれてはいけないということを知っています。そのために、あの世の規準はあくまでも肉体舟に乗って本能を備えたまま、神の子としていかに自分自身が正しい中道の生活をし、地上界において人々と調和して帰るかにかかっているのです。決して死んだときの地位や名誉、権力を持って、功一級だの、あるいはその他の色々な名誉を持って帰る事が規準にはならないのであります。あくまでも皆さん自身の善なる心とその行為であります。嘘のつけない善なる自分に忠実な実践努力の結果が、あの世に持ち帰る規準になっていくのです。
 どんなに大金持ちであっても、この世から去るときに、それは持って帰れません。またどんなに大地主であっても、どんなに立派なお墓を作ってもあの世では通用しません。通用するのは、ただその人の心が真実に正しい中道の道を実践したかという事です。という事になると、あの世から出て来るときには、自分が最も悟りよい場所を選んで来るという事に皆さんは気がつくはずであります。
 もし二千年前に、イエス・キリストが、イラクという当時の王族の子供に生れたらどうなったでしょう。おそらくイエスたりといえども悟る事はできなかったでしょう。最も厳しい左官屋としての不調和な生活環境に彼は出てきております。そこでまず疑問を持ちます。社会におけるところのあのユダヤ教徒の宗教教義が果して正しいものであるか。一週間に一回、安息日には、仕事をしてはいけない、家庭の雑事も、仕事をも否定されるような、当時のユダヤ教徒の教え、あるいは、また厳しい律法制度、果して神がこのような事を人間に教えたであろうか?、イエスは、当然、疑問を持ち始めます。一方においては、ノルマという厳しい環境の中におけるイスラエルの現状、ユダヤ人のあわれな生活環境、このようなものにも疑問をもって参ります。そういうあらゆる疑問を通して、まず同じ人間に生れながらにして、なぜあのような厳しい階級があるんだろうか、そしてイエス自身は、神という疑問のたんきゅう探究を続け、最後は悟りの境地に到達します。
 過去におけるところの神理を説く多くの大天使たちはほとんど自分自身のもっとも悟りやすい環境を選んで出生します。そのために大金持からは出ません。経済的にあまりにも環境に恵まれたところに出てしまうと、人間は優雅な生活にどうしても溺れてしまうからです。〃疑問と解答〃疑問の追究の結果が神理に到達していくからです。
 インドの当時のゴーダマ・シッタルダーも、やはり同じように、出生の場所を選んでおります。後の仏典などには非常に優雅な大国の王の子供のようにして扱われているけれども、それは大きなまちがいです。そして四十五年間説かれたゴーダマ・シッタルダーの神理はだいはんにゃきょう大般若経というものにまとめられたのであります。ナラジュルナ(龍樹)という僧侶が、それを更に取捨選択し、まとめて人々にわかりやすく書き上げました。般若心経は、こうした大般若経をもとに、中国の僧、げんしょう玄奨がまとめたものです。この般若心経というのは、過日も説明いたしましたが、日本へ伝わって来てからは、いつのまにか、仏壇や、神様の前で上げるものになってしまいました。また、清書(写経)して何回も書く事によって悟り得るという馬鹿げたものになってしまいました。字は上手になりますが、しかしそれでは悟れるものではないのです。その意味をよく知った生活をする事なのです。皆さんは法華経を今迄学んできました。南無妙法蓮華経とお経を上げて参りました。あれはやはり方便を通して人間はかくあるべきだ、人間の心はこういうものだ、これを説いたものなんです。インドのゴーダマ・シッタルダーの時代は、決して南無妙法蓮華経も上げておりませんし、南無阿弥陀仏も上げておりません。ただその意味をよく理解した生活をして、人間の価値、生れて来た目的と使命、このようなものを教えたのに過ぎないのであります。決して経文を上げろという事はやっていません。 だいいち、当時の多くの弟子たちは無学もんもう文盲です。文字など書けるような人は非常に少なかった。クシャトリヤという武士階級の中において婆羅門をやっている人たちの多くは、一応は学問をしております。寺小屋のようなところで婆羅門を中心とした一つの経典を主体とした教えを学んでおります。その当時の文字も、仏教でいうぼんじ梵字というのがありますが、それとはまるっきり違います。そのような事を考えたならば、般若心経を上げたり、書いたりする事が悟りへの道だとは思えないはずです。 しかし、こういう般若心経というものを知る事によって、なるほど、仏教は科学であり、現代物理学の最極微を極めた神理であるという事がわかるはずです。
 まか摩訶はんにゃ般若はらみ波羅蜜たしんぎょう多心経。かんじざい観自在ぼさつ菩薩 ぎょうじん行深はんにゃ般若はらみ波羅蜜たじ多時 しょうけん照見ごうん五蘊かいくう皆空 ど度いっさい一切くやく苦厄 しゃりし舎利子
 棒読みするとまるっきりわからない。この前にも説明致しましたように、摩訶とは偉大、当時はマハーといいました。マハー・パジャパテイー、また、皆さまの現在の会長様も、マハー・ナマといって偉大なるナマといわれた方です。ナマという名前でカピラ・ヴァーストのシュット・ダナーの四番目の弟さん、その弟さんの長男、その方をマハー・ナマといいました。その弟をアニルッターといいます。アニルッターといわれる方は、ゴーダマ・シッタルダーの十大弟子のアナリツ、このアナリツの兄さんが今の中谷会長であります。それはそのおうちに、皆さんの中から霊道者が大分出てきておりますから証明されるでしょう。また別のところがらそのような証明者が出て参ります。これだけは否定できないのであります。とにかく、そのようにマハーというのは偉大という事です。
 はんにゃ般若というのは智慧という事です。はらみた波羅蜜多という事は、到達する、という事です。そしてしかも彼岸に到達する迄には、自分に内在されているところの潜在意識の偉大なる智慧、この智慧に到達するいわば心の教え、心経はインド時代は、ストラーといっております。悟りへの道。ところが中国人はなかなか頭がよく、うまく語呂と意を合わせています。摩訶般若波羅蜜多心経のまか摩訶とは、また大いに不思議という意味もあり、摩訶不思議ともいいます、あの摩訶です。摩訶般若のはんにゃ般若というのはほとんどの人は般若の面ぐらいしか思い出しませんが、当時のインドではこの偉大なる智慧をみた蜜多ともいいました。というのは当時のインドでは、蜂蜜というものは非常に貴重なものでそう採れなかった。蜂蜜を採るには、蜂蜜を探す鳥がおりまして、その鳥に赤い布を付けて飛ばし、蜂の巣をみつけて蜜を採るのです。こうした事を商売にしていた人もいました。特に仏教々団の場合は、蜂蜜は高貴薬の様なものでした。そのためによく薬王菩薩とか薬師如来が、左の手に壷を持っており、これも実は蜜の壼、女王蜂の園から取り出して作られたところのローヤル・ゼリー、不老長寿の薬として持っていたものです。
 そのように蜜というものは、非常に高貴薬であるという事から、心の中の内在されている分野にはそのような高貴薬のような偉大なものがあるんだよ。即ち偉大なる智慧、内在している偉大なる智慧に到達する心の教え。このように摩訶般若波羅蜜多という意味は、つけられても結構だと思います。
 かん観じざい自在ぼさつ菩薩、この観自在菩薩というのは、これも又、中国流に訳しております。漢字で読んで字の通り、自在にものを見る菩薩。皆さまの中には菩薩といえば、ああ立派な偉い神様だと思っているでしょう。菩薩というのはインドの当時は、サマナー、サロモン、アラハン、ボサター、その次がプッターといって、それは悟りの段階を指すのです。観世音菩薩像を見ますと必らずネックレスをはめたり、王冠を付けております。またもんじゅ文殊菩薩・マンチュリァーも矢張り王冠をかむっております。このように王冠等飾りつけているうちは、執着があるという事なのです。そうすると未だ菩薩は悟り得ぬ段階なのです。そこで観自在菩薩といわれる者は、ゴーダマ・シッタルダーが今から二千五百有余年前のヴェダーとかウパニシャドという現代の日本の仏典、教典と同じようなものがありまして、その中に書き込まれているものなのです。自由自在に見る事の出来る菩薩、本当は如来を指しているのであり、これをアポロキティ・シュバラーともいっております。
 今、皆さまのうちに、私の神理を聞いた人々の中から、シュバラーに近い状態になる人が、出始めております。私の講演が終ったのちに、その人たちの心に光を入れれば波羅蜜多の偉大なるその智慧、潜在された、内在された過去に学んできたところの自分自身の体験が、今の肉体を持った人を通して語り始めます。菩薩とは、ボサターをいうのですから、まだポサッとしているところがある。だから菩薩といっても決してまだ立派なものではありません。
 そこで観自在菩薩といわれるようになるには、神理に適うよう行ずるのですが、大抵は間違いを犯してしまう場合が多いのです。ぎょうじん行深というと行を深くするということになる。 そこでハァ行をするというんだから、山の中へ入って滝にでも打たれ、厳しい肉体的な修行をする事によって悟り得るんだなあーと。それには、この摩訶般若波羅蜜多を一生懸命に上げればよいんだなあーと、こう思ってしまって金剛杖か何かを持って、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多といって、厳しい肉体行をしていく。その内に心がカラッポになったところへ、動物霊か何かが入ってくる。するとその人に入った動物霊が出て、ついに神様が出て来たなんていう事になって稲荷大明神が一つ出来上る訳です。そういう事をよく考えると、この行深という意味が非常に重要な意味を持ってくるのです。
 行深という事は、神理に適った毎日の生活、これを深く行う。そうすると智慧の波羅蜜多がゆ涌げん現されてくる。この波羅蜜多という内在された自分の心を涌現する、思い出すには、先ず中道の神理に適した生活をしなかったならば、心の中に曇りが出てしまって神の光を遮ぎってしまいます。遮ぎってしまうから、暗い心に閉ざされるからあの世とは通じません。あの世と通じないから凡人です。明日の事も目先きの事もわからなくなってしまいます。そこで自分の心の中が綺麗であれば光が差し込んでまいります。そういう生活をする事が一番重要であり、深く行ずる事なのです。そこで般若波羅蜜多時、悟りに到達するために深く自分自身がそういう生活をした時に、観自在菩薩、つまり自由自在に見る事が出来るのです。ごうん五蘊かいくうど皆空度いっさい一切くやく苦厄しゃりし舎利子――、ここで苦厄というのは苦しみや災難、それはここでいう五蘊という皆さまの目や耳や鼻や口、肉体の五官を通してそのような苦しみが出てくるのです。その苦しみも実は、五官から生ずる六根のため神の光を遮ぎってしまうので、我々はそのなよう苦しみを作ってしまうということを観自在菩薩はよくわかっております。舎利子というのは、シャーリ・プトラー、これを日本でいうとしゃり舎利ほつ弗、インドの時代はシャーリ・プトラーといっております。このシャーリ・プトラーという人は、ゴーダマ・シッタルダーの四十二才の頃にデンドーナーというところへ尋ねてきたアサンジャーといわれる大波羅門の従兄弟です。その友達にマハー・モンガラナー(大目蓮)という男がおりました。この人は理論的にも多くの神理を説く事ができ、ゴーダマ・シッタルダーも重用しました。何れにせよシャリー・プトラーは九十七、八才でこの世を去りました。
 ここではシャリー・プトラーは弟子に対する一つの代名詞のようなものなので、舎利子とは諸々の衆生よ、ということになり、偉大なる般若波羅蜜多という悟りの境地は、観自在菩薩という自由自在に見る事の出来る境地であり、あの世もこの世もアポロキティ・シュバラーという方は、この地上界とあの世、そして又未来、皆様の過去と現在と未来、これらのものを自由自在に見る事の出来る悟られた方であるということを舎利子にいっているのです。また、苦しみ悲しみをつくる五官を通した六根にほんろうされてはならない、もともと六根というものは実体のないものであり、これにとらわれるから不幸をつくるのであり、これからおんり遠離しなければならない、わかったか舎利子よ、ということも合わせていっています。
 次ぎに、この皆空、一切は空であるという、くう空というのは、あの世の事をいっております。実在界あの世、あの世というのは実際に、ものが実在する世界で、そのあの世からこの地上界に投映されている世界、あの世から映写機でいわば幕を透して此の三次元という世界に、宇宙というものが投映されていて、しかも立体モーションピクチャーであの世から操つられている訳です。操つられて皆さまは生活しているにもかかわらず、その操り人形が勝手な行動をしてしまうから、いろいろと問題が出てきてしまう訳です。五蘊という目や耳や鼻や舌を通して、皆さまは嫌な事を聞くと、つい頭にきてしまったり、感情的になってしまったりして、自分で苦しみや災難を作ってしまうのです。そうなって参りますと私たちは、その様な操つられている事に対して反省をする事によって、我々はなんでこのような苦しみや災難が起るのかという事が、自分でよくわかるはずです。それもしないで自分の苦しみだけを他人のせいにしたり、生活環境を妬んだり、恨んでしまったりするのです。またその操つられている者が、つい生命を持っているから自分勝手な方向へ行ってしまう。そこで、あちらの人は、どうするんだろうといっている訳なんです。
 実は皆さまも、毎日の生活の一秒一秒はあちらから皆見られているのです。それを知ったら全く自由はないのです。それが肉体をもつ自分が、自由という事をはき違えてなお苦しみを作っています。死ぬ時には、いずれそれを自分が裁かなければならないのです。一つ大きな目的を持って出て来て、よし、今度こそは一つ悟って人々を救ってくるよといって、救うどころではなく自分をも救われず、あの世へ帰ってしまう人が多いんです。そういう人は先ず地獄です。何百年間じっくり地獄で味わってくる事です。それでは実際困ります。なぜならば、皆さまの魂の兄弟達が困るからです。魂の兄弟の内、一人でも地獄に落ちてしまうと、この地上界に皆さまの魂のグループ、即ち六親けんぞく眷族は生れてくる事が出来ないのです。そうすると自分一人のために多くの人に迷惑をかけるという事を知るべきです。
 さて次ぎにしき色ふいくう不異空、くう空ふいしき不異色と出て来ます。この場合の◎色というのは物質、我々の目に見えるところの物質、色、即ち色彩、赤、青、黄という色彩は何万色にも変る。その何万色もある我々の、この地上界の万生万物は全て色彩をもっております。このように色とは万生万物を指します。
 ふいくう不異空という事は、異らずという事、即ち色と空は異ならないのだ、同じだということです。色は空に異らず、空は又色に異らずとこういう訳です。そうするとなんだか一寸もわからなくなる。そこえもってきて更に又念を押す訳です。
 しき色そくぜくう即是空とくうそく空即ぜしき是色――、しかしこれが重要なんです。この空という問題に、あるお坊さんは、この空さえ解かればもう悟りだなんて言っているんです。冗談じゃない、空がわかっても悟れないんです。空という事を知ったら実践しなければ駄目です。深く行わなければ駄目です。そこでこのように物質というものは、実在を通うして、あの世を通して存在しているんだから、いわばこの地上界は、実在界とは異ならない、同じだよ、変っていないんだ、しかも又、あの世実在界は、この地上界とも異なってはいないんだよ、連続体だ、即ち同じ事を行なっているから、生れたり、滅したりすることはないと説明をしている訳です。そのために異ならないから、ここでダメ押ししている訳ですね。この地上界はあの世だよ。あの世は即ちこの世だよ。当然同じ結果になるはずです。ただ次元が違うだけなんです。「あ」と「こ」の違いだけで、○あと○こを外したならば一つになってしまいます。あの世もこの世も、そんなむつかしい世界ではなく一転びなのですから、この理論というものは成り立つはずです。そこで仏教でいうところの〃色心不二〃という事も又同じような姿を表わしております。物理学でもこれは証明出来ますね。
 そこでこのようなところがら、じゅそう受想ぎょうしき行識 やくぶ亦復にょぜ如是 しゃりし舎利子 又舎利子が出ておりまずけれど人に聞いたら、お釈迦様の骨の事をシャリっていうんだよ。このように答えているお坊さんがありました。最近はシャリといったら米の飯の事を銀シャリといっとりますが、これもシャリには変りないでしょう。米は肉体を保存するための物ですから、米を主食とする人々にとっては大事な食糧です。したがってお米は諸々の衆生にとって欠くことのできないものですね。シャリ・プトラーは人の名ですが、般若心経の中では〃諸々の衆生よ〃という事ですから、お米をシャリという語源は、案外ここから出たかもわかりませんね。(笑)
 受想行識・・・・・・、即ち皆さまの想念と行為というものは実はこの地上界という場に出てしまうと、空即是色にもかかわらず、現象にとらわれ現象におぼれてしまって、常に堂々めぐりをくりかえしてしまう、おろかなものだとここではいっているのです。色即是空、空即是色といっても、現代のお坊さんでも物理や、科学や、医学というものを通して、自分が神理というものを実践してみないとこの問題は解けないのです。ここが分かれば、受想行識も自然と理解されてくるわけです。そこでぜ是しょほう諸法くうそう空相、このようにして一切の神理というものは、実在の実相を通し、神の意志に基づいて作られているものだよ、と言う事になりますね。そこで色即是空というものは、私はよく声を大にして説明します。
 皆さまの肉体は、地上界に適応した人生航路の乗り舟である。この舟に乗っている船頭さんが、魂であり、意識であり、心なのです。その中心の心というものが又どのようになっているかというと、我々の魂というものは、ふしょう不生ふめつ不滅である。生れず滅せずなのです。ですから垢もない、浄ということもないのです。ですからその次にふぞう不増ふげん不減、増えず減らずとこうくる訳です。このようにすべてを否定しているようにみえるけれども、実は大こうてい肯定なのです。心とはそのようなものなのです。
 皆さまの魂というものは、あの世とこの世を転生輪廻してきております。太陽も今日の太陽と明日の太陽は一つも変っていないのです。キリスト教の古い宗教の中には、地球は平面の板の様なものだと教えているようです。東の方から新しい太陽が出て、海の彼方に沈んで、又明日になると新しい太陽が出てきて又沈むのだ。ところが文明が発達し、科学が発展するに従って、コペルニクスや、或はガリレイたちは地動説をとなえて、地球はこのように回わっているんだ、だから太陽は一つなんだと、いわゆる地球軌道説をとなえた。この説を強く主張したこれらの弟子たちは、世をまどわすということで首を切られて死んでおります。宗教というのは恐しいものです。
 イエス様は、そんな事を教えなかった。途中の弟子たちが色々と考えなくてはならなかった。地球は板のようなもので、地平線の彼方からポンと新しい太陽が出てきて、スーッとおっこちてしまって、又明日になったら新しいのが出てくると考えていた。しかしなんと説明しようと太陽は一つで、今日も昨日も変っていない、同じ太陽である。
 皆さんの魂も、ある時は中国に肉体を持って一生懸命に学んだ人や、あるいはエジプトで、又フランスで、それぞれの国を転生輪廻してきて、今日、日本人として自分が日本の環境の中で肉体を持って生活をしております。
 その船頭さんである皆さんの魂は一つも変っていないのです。ですから魂は生れる事もなげれば、滅する事もないという事実は、皆さんもわかるはずです。エネルギー不滅の法則、質量不変の法則というのがございます。これと同じように我々の魂も永遠である。当然垢も付く事もない、清らかであり、増える事もなげれば、減る事もないのです。
 さて次ぎに、くうちゅう空中、つまり実在界は、むしき無色むじゅそう無受想ぎょうしき行識だ。 皆さんの目で見ている五官というもの、あちらでは心の内面で見て参りますから問題は少ない。この地上界についてもそれはいえるし、地上界的なものの考え方であってはいけませんというわけです。それ故にこのような物質的な光景というもの、我々のこの地上界における原子というものを根本としたところのいわば物質的な光景はあの世にはない。実在界は光ですから当然こういう現象はないはずであります。
 しかし、この地上界と同様に、目や、耳や、鼻を通して見るような一つの想念と行為があれば、あの世は心の世界ですから、思えば即座に現象化されていきます。特に地獄界などは、心の中で思った事が即座に現象化されます。それだけに恐しい世界です。実在界においても又同じ、心で暗い想念を持つと即座に神の光はスーと消えていきますから反省してしまいます。なぜ私は光が暗くなったのだろうか、反省していけばそこで直り、自分自身が神の心に調和させる事によって、神の光がパーと入りますから元に復してしまいます。そのために人と人との間に嘘がない、嘘をついても直ぐわかってしまいます。便利です。しかし、この地上界でそうなると不幸が来ると思う人があるでしょう。ところが不幸は本当はないのです。争いや斗争や、苦しみや、悲しみや、災難というものは、本来は起らないのです。心がきれいな状態になってしまえば、そこが実在界となり、当然、眼、耳、鼻、舌、身、意というぼんのう煩悩というものも消えてしまいます。煩悩が消えるから、目で色々な色彩を見たり、耳で色々な事を聞いたり、或は鼻を通して色々な臭いを感じたり、又舌で味をおぼえたり、身で感触をもったり、このようなものにも影響がなくなります。それはあくまでも原子細胞というものを通して、今のこの地上的なものの考え方で見るから間違いが出てくるのです。心の実相というものは関係ないんだ、というわけです。
 むげんかい無眼界ないし乃至むいしきかい無意識界 あの世は我々の肉体だけで見るような、そんなちっぽけなものではないんだ。広い広いもっと大きな神の意識に基づいた光の光明に満ちた世界なんだ。それこそこの地上の想像を越えた世界であるといえます。それ故、むむみょう無無明やく亦 それこそ無明の無い世界であり、明るいことを意味するが、むむみょう無無明じん尽だから、その明かるさの尽きるところがないという事になりますね。これは中国特有の言葉であり、これはここの文句と合せるための、いわばごろ語呂合せだったようです。生れず滅せずといっても人間にはわからない。かえってしつこくいったらなおわからんと思うんですが、それを有難がって拝んでいる方はなお有難い人という事になりましょうか。
 次に出てくるのが、ないし乃至むろうし無老死 やく亦むろうし無老死じん尽 年をとったり死ぬ事もないということですが、それはそうでしょう。あの世へ行って死ぬ訳はないんですから。前節で不生不滅、生れる事も、滅する事もないといっているのですから、我々があの世へ帰って死んじゃったといったら、おかしい事ですね。一回死んだら死ぬ訳がないんで、死というものは肉体という形を見ているから、死んだの生れたのとみな言うんですが、魂は別に一寸も痛くもかゆ痒くもないんです。
 肉体という舟が、この地球上に沈没しちゃっても、その船頭さんは一つも変っていないのです。だから我々は年をとる事もなげれば、死ぬ事もないはずです。ですから皆さんがあの世へ帰った時には、この世で年をとっていっても、あの世へ帰ったら三十か四十才位の人が多いんですよ。お年寄りの方に「おばあちゃん幾才になるの」と聞いたら「私は三十五才位だよ」なんてね。この前の講演の時に東京でしたけれども、七十八才にもなった人に年はどの位いと聞いたら、「私はまだ三十八、九才の気持です。」又隣りの旦那さん、どうですか、といったら六十才位なのに「私はまだ二十五才位の気持です」と、これは皆さま自身ね、年をとっていても決して自分は人には負けない積りでいるんです。
 当然、魂、船頭さんは若い気持でも、肉体がいう事をきかないから、しかたがないと思っているだけです、そうですね。このようにあの世へ行った時には今皆さんが思っている心の意識年令、これがあの世なんですよ。イエス様でも、あちらへ行きますと若いですね。ちょっと計算していきますと、二千何百才になるはずです。ところが事実は四十才代です。モーゼも同じです。観世音菩薩、みろく弥勒菩薩も矢張り、三十一才〜三十五才位です。ですからあの世へ行ってみると皆若いんです。ただ色々な状態で年寄の格好ならよいと思って生活している人もあります。
 そういう事で、あの世は年をとって死ぬ事も、尽きる事もない、不生不滅だから当然の事です。即ちくしゅうめつどう苦集滅道も生老病死もない。こうした意味で般若心経は、人間の生命という問題を解いている訳です。般若心経で問題な点は、ごうん五蘊つまり、眼耳鼻舌身がすべての苦しみを作っていることですが、では その苦しみから解放されるには、どうしたらよいのかというと、この中には書いてないのです。このため神、仏様の前で般若心経を毎日一生懸命上げたり、拝むことが即自分たちが救われるんだと早合点してしまうのですが、こういうような人たちは、なんにもわかっていないという事になります。この中にも何人かいますけれどね。まあ、このように我々の魂の永遠性というもの、この地上界に出てくる苦しみというものは一切我々は、自分自身が作りだしている事を知るべきであります。
 ところで、人間はなぜこの地球上に生れてくるのでしょう。それは皆さま自身が転生輪廻をくり返してきて、心に記録された不調和な面を自分自身がよく見つめて、〃自分にはこのような欠点がある〃ということを知り、それを八正道という中道の尺度を通してその欠点を直そうと決心をして生れてくるのです。それには先ず勇気と努力、そしてその欠点を超えてゆくにはどうするかという工夫をこらすことがなければ、心の修正は出来ません。即ちカルマ(業)の修正であります。このようにして我々は、地球上の人類が本当に心と心が通い合った、神の子としてみな兄弟であるとの自覚が芽ばえてくるのです。
 ところがこの地上界に出てくると、その国の思想とか環境に振り回されるから、自分というものが解らなくなって来ます。井の中の蛙大海を知らずで、ついには神の子である事も忘れて、外国人というと、かって自分の生れた国の子孫たちにも拘らず、まるで赤の他人扱いをしてしまう。
 皆さまの多くは、殆んど中国を経由して日本に生れております。中国の文化も皆さまの心の中の意識のテープ・レコーダーには、輪廻転生の中に全部記録されております。それを日本は中国と戦争をした。考えてみれば肉体の子孫とけんか喧嘩をして来た事になるのです。あの世へ帰ったならば、ああ馬鹿々々しかった、なぜ争いなどやったんだと、そのように思うでしょう。
 心というものは、永遠に転生輪廻し、あらゆる国々を経て来ているので、今生の僅か五・六十年の体験などホンの小さなものなのです。皆さま自身の過去に体験されて来たところの偉大なる智慧の宝庫が、潜在意識の九〇パーセントの中に記録されております。そうゆうものをゆげん涌現する道がこの般若心経の中に書かれております。
 我々は心と言うものを本当に知ったならば、心は実在の世界に通じ、是故空中なのです。実在界は光明に満ちた世界であり、神理を悟っている為に生老病死の苦しみというものが無いんだよといっております。ゴーダマ・シッタルダーもイエス・キリストも、あの世とこの世の〃神理〃を悟り、此の肉体を持っていても、あの世へ自由に行く事が出来るようになったのです。だから肉体というものは、ただの途中の乗り舟にしか過ぎないという事で永遠の輪廻から解脱しているのです。神理の境地というものを知っているために、もうすでに輪廻の苦しみから解脱しているという事です。
 この地上界にあるもの、万生万物は総て輪廻を繰り返しております。たと譬え悟った人なりといえども、永遠の輪廻の中の過程にあるのですが、その輪廻の苦しみから解脱して、あの世もこの世も自由自在に見る能力を持ってしまうために、現象界において、苦しみに見舞われる事もなく、生老病死の原因を知っております。そこで宇宙は一つ、宇宙即我の心境であり、自分自身に足る事を知っているので所得の有無に左右されることがない故に、悟られた方たちは般若波羅蜜多、内在されたる偉大なる智慧を悟っているために、心の中は、 である。引っ掛りが無い、引っ掛りが無いから、自分の心の中にも、生活の中にも、恐怖する事も何も無い。夢のような間違った考え方を総て遠く離している、おん遠り離している。何時死んでもよい、一日一生という神理を自分自身が悟ってしまう。執着というものが何一つ無い、ねはん涅槃の境地なのです。
 過去、現在、未来におけるところの、それぞれ悟られた諸仏は、此のようなパラミタという内在された九〇パーセントの潜在意識・偉大なる智慧を過去世で体験し己の心に記録している。すなわち次ぎに出てくるあのく阿耨たら多羅さんみゃくさん三貌三ぼだい菩提。これは一切のものから解脱して、神の心と調和されている最終段階の悟りの境地をいいます。これをインドの言葉では、アーヌクタラー・サンミヤク・サンボデーというのです。
 その境地は偉大な智慧の泉であるだいしんしゅ大神呪であり、そうして光に満ち満ちた神の世界、だいみょう大明しゅ呪であるというわけです。したがってもうここまでくると比較するものがない、これ以上のものは無い、む無とう等とうしゅ等呪である。このように我々は内在された偉大なる智慧をゆ涌げん現して、アポロキティ・シュバラーとなるが、それには般若波羅蜜多という神理に到達する道を理解し行うことです。
 衆生よ、悟りの彼岸に到達しようという事で、ぎゃてい羯諦ぎゃてい羯諦 はら波羅ぎゃてい羯諦 はら波羅そうぎゃてい僧羯諦 ぼじ菩提そわか薩婆呵。と所謂じゅもん呪文を唱えれば幸福に成る、もうこの辺から当時の玄装三蔵も違って来たようです。こんなものではないのです。呪文を唱えなくともよいのです。このような神理を知って実践をする生活が大事なのです。日蓮の南無妙法蓮華経を拝めば幸せになる、日蓮はそのような事は教えなかったけれども、後の者がそのような方向に持って行ってしまったのです。
 人間という者は、色々解らないと、我流の知恵で自分たちの都合のよいように変えてしまったといえるでしょう。呪文の○○○○○○○○ぎゃていぎゃてい・・・・・云々とは、インドの当時の言葉では、カーティ、カーティ、パラーカーティ、パラサンカーティ、ボデースバハーといっておりました。一切衆生よ、迷いの岸から悟りの彼岸に到達して、仏の境地と調和されて、一切を成就しようと、このようになるのです。
 人間は拝む事ではなく、その神理をよく知った日常生活をする事で、心が本当に神の心、仏の心と調和された時には、本当の安らぎが出て来て、内在する過去、転生輪廻した皆さまの偉大な体験された宝庫が、そして仏性が心の中にあるんだ、というのが般若心経です。
 私は、般若心経というものは実は知らないんです。知らない人間が皆様の前で教えているのは、私はあの世を通うして教えを乞うているからです。そのために皆解ってしまいます。専門の方が聞けばなおよく解ると思います。
 そこで私は、ここに心経(現在は心行といっています)というものを書きました。私自身、全く仏教とか神様には縁の薄い男でしたが、自然科学の中から〃神理〃を三十数年間追い求めて来て、最終的にはこの問題に到達致しました。それまで私は、あの世を通して色々厳しい事を言われ、三日間で悟れというのです。昭和四十三年七月十二日、三日目の最終日、「自分はもう死んでもよい、地位も名誉も金も、一切何もいらんと、今まで苦しめた悪魔よ、出て来い、私は命も執着も捨てた」と、はら肚を決めました。その前の一週間というものは殆んど「お前は死んでも、地球上の果まで逃げても、宇宙の彼方へ行っても、俺は掴えてやるぞ、死ぬなら死んで見ろ」と徹底的に叱責されていたのですが、こうして自分自身が実在界(あの世)を通して光の天使から厳しく毎晩付いて回られて、苦しみ抜いた末、遂に自分自身という者が、神の子であり、その使命を果さねばとの自覚を得たのであります。        
 その後、十月迄に神理を書けと指令がありましたが、私は電気屋です。電気の事なればよく解りますが、神と称するものや、お経というものは全くヅブの素人です。それがいつの間にか自然と書かされるようになりまして、ワン・ツー・スリー、又はフォアイシン・フォアイ・シンフォーと言われる上段階の光の天使達が、常に私の所へ付きぱなしです。ぺンを持てば自然と手が動いてしまいます。そこで「大自然の波動と生命」という本を書きました。これを書きました時に、〃中のエキスをお前は作り出せ〃と大自然の波動と生命の中の、生命論の内部を収縮したものが、この「心行」なのです。              
 心行を書き終った時に、実在界(あの世)から光の天使たちが出て参りまして、読んで聞いてもらったところが、お前は四十二年間、本当に親不孝者だった、神を忘れ、自分の使命を忘れ、金儲けからあらゆる悪い事をしておった、こんな野郎は見た事が無い、一緒にキャバレーや料理屋へも度々行かせてもらったけれども、お前のような勝手な男はなかった。併し、親不孝な子供ほど、可愛いいもんだよ、四十二年間付き添ったけれども、こうやって悟ってしまえば、もう私たちには用はなくなった、淋しいものだ、といっていました。天上界の人たちの親心というものは、この地上界よりもっと微妙なものです。光の指導霊たちは、そんな事でもう俺たちの手を借りなくとも、お前は一人歩き出来るだろう、と。これが日本語で喋ってくれるのなら、もっと解るのですが、何しろヘブライ語か、イスラエル語か解らない言葉でペラペラ喋べられるから、気分は半減しますけれども、しかし、矢張り私の心に響いてくるものは同じです。そこで私の書いた心行をみて「そうだそうだ神理はこれ以外にないんだ、人間は間違っている、神の子としての自覚をしてもらいたい。自分の心の中でよく消化し、消化した時には偉大なる内在された智慧が、皆さまの過去世である転生輪廻を続けてきたところの、心の宝庫が開かれるんだ」と言われたのであります。
 その時に始めて、ワン・ツー・スリーことモーゼだと本名を知らされたのです。どこかで聞いた事のある人だと思ったら、パァーと姿が現れ二米以上の大男です。数百年前のエジプトの格好をしております。
 フォアイシン・フォアイ・シンフォーと云われる難かしい名前の方は、かって二千年前、イスラエルの地において人々の心に偉大なる愛の道を説いたイエス・キリストの分身だと名乗りました。私はその時に驚いてしまいました。まさかそんな偉い人が私の所なんか出て来る訳はない。ところがいろいろな事を教えて貰いますから、これにはどうする事も出来ません。私一人なら私は否定して黙っておりますが、しかしいろいろと周囲の人たちが、私と同じように他国語を喋り始め、又現象も出てまいりました。私はそのようなものは余り信じない男なんですが、こうして既に皆さまの前で、神理を説いている間に、この中からも心の窓を開かれる人たちが出てまいりました。これは否定出来ません。
 なぜそうなるのでしょう。皆さまも神の子であるからです。そうして心の窓が開かれた時には、もっと偉大なる不滅の世界の存在があるという事を知らなくてはならないからです。同時に私たちが多くの人々に偉大なる神の子としての道を説く時、その中から真に心の調和されている人たちは、我々の神理は正しいのだと、自分の一〇パーセントの声でなく、過去世に学んだ神の子としての道を悟った人たちが現れ立証を与えて行くからです。聖書の中にも、イエスの弟子たち、パウロを初めとして、十何人の弟子たち心の窓が開かれて、今世で学ばなかった言葉や、当時の模様を彼等は語り出し、多くの人々にその道を説いたという事がハッキリと記録されています。
 仏教の中のけごん華厳きょうじゅっちぼん経十地品の中にも、ゴーダマ・シッタルダーの出られた当時に、多くの人々の心の窓が開かれて、あらゆる国々の言葉を喋り、私は何処で生れ、このような事をして、此処で死に、そして又此処で生れて、このようにしているという事が、心の窓の開かれた人々によって語られたことが記録されております。今我々の現象は、この地球上において二千年ぶりに起っている現象です。そのために今後も我々のグループの中から、心の窓が開き、その使命を自覚した人が沢山出て来るでしょう。
 それはそれぞれが神の子として自覚に立っているために、実在界より皆さまが出て来る時には、多くの人々を救済しよう、愛と慈悲の道を説いてこようと思い約束した人々が、類は類を呼び、友は友を呼ぶ法則に従って集まって来るからです。すでに我々の周囲には更に又何十何百という教団が同じような方向に転回しつつあります。大阪で最初の同じグループが転回しております。次々に関西、関東、或は九州方面へと、そして更に又、一つ海を越えて沖縄、中華民国(台湾)、アメリカ、南米にも火の手が上り初めております。
 皆さまの心の中には正しいものと、そうでないものの記録が全部載っており、それを各人の一〇パーセントの意識で、善なる意識で選択して行くのです。人間は思想とか、或は権力によって肉体の行動は制約出来ても、人間の不変的な魂まで、押える事は出来ないのです。心は自由であり、誰もがそく束ばく縛する事の出来ない偉大なる生命です。
 そのような事を知った時に、現代の社会を修正する道は、混乱した世の中を救う道は、一人一人の人間が魂の普遍的尊厳性を悟って、人間らしく生きる、これを自覚した時に世の中は平和になって行くのです。アメリカはその軍事力と科学にものをいわせ南ベトナムの統一を電子計算機によって弾き出しておりました。しかしあのコンピューターによってすら、南ベトナムの人々の心を掴む事は出来なかったはずです。人の心は暴力や金や地位の力や、又思想によってコントロールする事は出来ないのです。善なる己の心が正しい道に導いて行った時に本当の平和が来るのです。そうゆう面を通して般若心経の更に一歩前進させた神理である(心行)を書いたのであります。
posted by ゆき at 11:45 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

心 行 の 解 説 (上)

                    心行と祈願文

 「われいま我今けんもん見聞し、しょうほう正法にきえ帰衣することをえ得たり。」
 このように冒頭に出したのは、人間はすべからく神の子でありますから、正法神理を知った時には、現在ただ今から正法にそった生活をしますと宣言しているのです。インドの時代ゴーダマ・シッタルダーは三宝(仏・法・僧)に帰依するという事を教えました。当時、仏弟子になるには、先ず一週間は最低山中にはい這入って、人生の一切を反省し、心の中を清らかにして、体から(オーラー)後光が出て来なければ弟子としなかったのです。初めてそのような心の境地に到達した人たちに、先ずプッターを信ずるか、私の教える神理・法を信じるか、お前はプタストラー僧伽、即ち宗団に帰依するか、の三つを約束させたのであります。
 人間はもともとその神理にそった生活をする事です。この意味から、まず我今見聞し、正法に帰依することを得たり、という事をワザワザ冒頭に書きとめたわけです。正法というものは普遍的な神理であり、大自然の万物を含めて、永遠に変らない○人○間○の○心○と○○行いの在り方を説いたものであります。
 「こうだい広大なるうちゅうたい宇宙体は、ばんしょう万生ばんぶつ万物のこんげん根元にして、ばんしょう万生ばんぶつ万物そうご相互のさよう作用により、てんしょう転生りんね輪廻のほう法にしたが従う。」
 我々の住んでいる地球を含めて、大宇宙体というものは総て神の体の一部分である。しかも又万生万物は大宇宙体というものがあるから存在しているのだという事であり、万生万物は総て相互関係にあり、その作用によって転生輪廻しております。
 水は蒸発して慈雨を降らし、植物はその水と、二酸化炭素を吸収して太陽の熱・光によって澱粉や蛋白質や脂肪を作り、動物はそれらを自分の肉体保存のエネルギー源としております。こうして全体が循環され調和しております。あらゆる万生万物は単独では存在しないのです。植物は酸素を吐き出し、そして我々人間は二酸化炭素を出しており、お互いに相互関係を持ちながら、万生万物は皆関連しあって生きているのです。人間がいかに万物の霊長であろうとも、植物の作り出すところの澱粉や蛋白質を作る事は出来ません。他から吸収しなければなりません。そのように皆相互関係によってこそ、本当に安定し平和なんだという事です。
 そこでこの地上界の一切の物は転生輪廻を繰り返している、一つの所に止まっている事は出来ない。どんなに固い金剛石であろうとも、風雨による風化作用でいつかは循環してしまいますし、又どんな立派な家であろうとも、同じように風化作用を起して朽ちて行きます。皆さまの肉体も、どんなに美しい顔をしていようとも、どんなに頑丈な体であろうとも、何時の日かこの地上界の土に変ってしまいます。そして皆さま自身の魂は、あの世へ行き、永遠の輪廻を繰り返しており、万生万物総てそのようになっております。
 「だいうちゅう大宇宙だいしぜんかい大自然界にいしき意識あり。いしき意識はだいうちゅうたい大宇宙体をしはい支配し、ばんしょう万生ばんぶつ万物をしてちょうわ調和のすがた姿をしめ示さん。」
 大宇宙体というこの大自然界には意識がある、人間の心が不調和になれば、天変地変を起します。暗い想念によって、その分野は神の光を遮ってしまうからです。又地球は生きております。地熱で温泉が湧いたりするのは、地球の内部がマグマと呼ばれる約二萬度近い高温で、それは最も固い塩基性の物質が溶けあっているためなのです。そのために地球の内部温度と表面温度の差によって電気変化が起こり、これが地軸磁力のNとSを決めております。
 このように地球も生きており、大宇宙体・万生万物総てが生きている。この生きているものの中に意識があるということで、皆さんの肉体を支配している皆さまの魂・意識のように大宇宙にも意識があるということです。
 そのような意識があればこそ、その意思にそって大自然というものが調和されているのだ。太陽を中心として、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星、この九惑星を初めとして、この外に数万個の小さな衛星群や流星となる微小な天体群などがあり、これらが一糸乱れず、時間も一秒も遅れる事なく、整然として輪廻を繰り返しております。
 春になれば若葉が、夏になればそれらが繁茂し、秋には刈り入れがあり、冬には冷却され、その分野は殺菌されて、又次の春には新しい芽が生えて行くように、自然界の意識があればこそ、そのような環境が完成されて行くのです。
 「ばんぶつ万物ばんしょう万象は、こうだい広大むへん無辺なだいじひ大慈悲なり。」
 我々自身が生存出来るという事は、外を見れば植物、太陽の熱・光のエネルギー、そして地球という環境、あらゆるものを○○ただで与えられているからです。太陽の熱・光のエネルギーを皆さん計算してみて下さい。その電気量と熱量は大変なものです。恐らく太陽が皆さまに請求書を出したなら、地球上の人は全員が破産してしまうでしょう。瓦斯、電力会社に使用料を支払わなければ、まあ二ヶ月も過ぎるとプッンと切られてしまいます。おてんとう太陽さま様は絶対そんな事はしませんね。これこそが神の愛であり、慈悲であるのです。その愛と慈悲に我々は心から感謝することが必要です。その感謝する心をつい忘れてしまって、お太陽さんと米の飯は付いて廻るというような考え方を持ってしまうのです。
 我々はそのような大自然の恵みに対して感謝する心は、行為となって人々に対して尽していく、自分の心を豊かにしていく、そして又、この地上界に再び肉体を持って出てくる子孫たちに平和な調和された社会を作るための環境を我々が作っていく、こうゆう事が報恩という行為なのです。〃感謝する〃その事に対する我々は行為が必要なのであります。
 「だいうちゅうたい大宇宙体はいしき意識のとうたい当体にして、いしき意識のちゅうしん中心はこころ心なり。こころ心はじひ慈悲とあい愛のかたま塊りにして、とうたい当体いしき意識はふじ不二なることをさと悟るべし。」
 大宇宙体は意識そのものである。意識の当体である。そうしてその中心は心だ、神の心だという事を、私はなぜこのように書いたかと申しますと、私があの世へ行きますと、この地球上と同じような太陽が出ているのです。私は初めてですから次元の違う人に、太陽が出ているといったところが、地球の太陽と、どこか違うところはないかと、このように私は云われまして、よく見れば先ず植物で、全く地上界の黒ずんだ青さではありません。何時も春先きの若芽のように生き生きして軟らかく調和されております。この世よりもっと真っ青な空には神の意識(太陽の一番もとの太陽)神の心がゴールドカラー、金色の軟らかい光を放っております。そして向うの修養所では、イエス様もモーゼ様たちも、自分の心に神の光を入れる時は、その太陽に向って祈っております。ハハーあれが神の意識かなァと思いました。
 あの世には第二太陽のような神の心が大宇宙を照しているのです。その光は万生万物、この地球上の万生万物にも照らされております。ところが地獄界へ行ってしまうと、神の光は届いておりません。なぜならば、そこに住む人々の心が不調和であり、独善的であり、自我我欲、自己保存、自分の事しか考えない人々の多い場所であるために、彼等の想念は自らして曇りを作り神の光を遮ってしまうからです。          
 この地球上にも神の光は照らされて、皆さまの心の中にも第二太陽とも言うべき神の意識・心が光を放って、皆さまに平等に与えております。その平等に与えている光を、皆さま自身の心が調和されていないと、想念の曇りを作って、光を遮って自らして苦しみの暗い曇りに包まれてしまいます。そのように意識の中心は心なりというのは、あの世にある神の本当の心、という事でこのように書いてあります。
 そこで慈悲と愛の塊りだというのは、自然は我々になんの要求もしないという事です。人間はその環境において、調和された日々の生活をするという事から、心が常に不二一体である。この大宇宙は神の体であり、神の意識である、これが一体であるという事です。仏教の言葉では、色心不二という事になるのです。色という物質、心というエネルギー、これが一体だという事です。色というのは、赤、青、黄、の三原色が何萬色にも変化し、展開されております。皆さまの目に写る物は総て色彩を持って映じます。〃色〃とは私たちの眼で確認できる万生万物のことをいっているのです。
 皆さんの肉体も色・物質です。此の物質は心と同居しています。そこでこの物質をMグラムとし、これに光の積を掛けたもの、エネルギーは質量と光の積の平方に等しい、仕事を為し得る能力が即ちエネルギーである。色と心は不二一体だという事を仏教では説いております。そのためにエネルギーは不滅であり質量は不変だと、このようにハッキリと現代の物理学でも証明しています。(E=MC2) 
 「このだいいしき大意識こそ、だいうちゅう大宇宙だいしんれい大神霊・ほとけ仏なるべし。」
 この大宇宙体を支配しているところの意識・色心不二の、この分野こそ神である、神の心であるといっている訳であります。
 「しんぶつ神仏なるがゆえ故に、とうたい当体はだいしんたい大神体なり。このげんしょうかい現象界における太陽系は、だいうちゅうたい大宇宙体のちい小さなしょきかん諸器官のひと一つにすぎず、ちきゅう地球は、ちい小さなさいぼうたい細胞体なることをし知るべし。」 
 この現象界、我々の住んでいる太陽系、太陽を中心として整然として、九惑星、更に三萬数千個から成るところの衛星集団、このものを引き連れているけれども、この神の体の大宇宙体から見たならば、一つの小さな諸器官にしか過ぎない。地球はそれから見たならば、小さな細胞である。そうなれば皆さまは夜空を眺めた時に星が無数にありますが、その星も我々は銀河系宇宙しか見る事が出来ません。銀河系宇宙の中の太陽系は、ホンノ小さな細胞の神経繊維にしか過ぎないものです。
 「とうたい当体のさいぼう細胞なるがゆえ故に、さいぼう細胞にいしき意識あ有り、か斯くのごと如くばんぶつ万物すべ総てせいめい生命にして、エネルギーのかたま塊りなることをさと悟るべし。」
 エネルギーというものは仕事を為し得る能力だ。万生万物は総てエネルギーだ、このように総て神の体なんだということです。そのために私たちの住んでいるこの地球は、一つの細胞にしかすぎません。その細胞の中に住んでいる人類はカビのようなものです。
 皆さま自身の体は、約六十兆から成るところの細胞で、動、植、鉱物のエネルギーを吸収して維持しております。吸収して出されるだえき唾液は小さなバイ菌(酵素)です。その唾液が胃の中に入ってかくはん撹拌されて皆さんの血や、肉や、骨になって行きます。このバイ菌から見たならば、恐らく胃の中はデッカイ宇宙だと彼等は思っている事でしょう。         
 我々は地球という環境に出て来て、宇宙は広いなァと眺めてきょうたん驚嘆しているように、皆さまの肉体の中にいる血管細胞一つでも、恐らく彼等はビックリしているに違いありません。彼等も又生命を持っているからです。このようにして我々自身もこの地球というものも、神の体の中の小さな細胞にしかすぎない。細胞なるが故に意識があると、斯くの如く万生万物は総て生命、エネルギーの塊りであるという事です。「だいうちゅう大宇宙はだいしんたい大神体なるがゆえ故に、このげんしょうかい現象界のちきゅう地球もしんたい神体なり。しんたい神体なるがゆえ故に、だいしんでん大神殿なるべし。だいしんでん大神殿は、ばんしょう万生、たましい魂のしゅぎょうじょ修行所なり。もろもろ諸々のしょれい諸霊、みな此処に集まれり。」
 そこでこの地球という場所も大神殿なのです。皆さまの体も神の子としての分身なのです。ところが人間はすぐに神に頼りたくなってしまって、ペーパーの紙、糸へんの紙や、或は形作った物をおがむ等、他力本願だけが信仰のように大きな間違いを犯してしまいました。
 人間本来、そのような目的で出ているのではありません。神の体であるこの地球上の調和を計るために、人類は肉体を持ってこの世に出ているのです。だから手を合せなくとも、心が綺麗ならば即座にあの世も皆さまの神と称する人々と話をする事も出来るのです。不思議でもなんでもありません。
 イエス・キリストもゴーダマ・シッタルダーも、神社や仏閣は持ちません。自分の行く場所々々によって、心の窓を開き、自由自在に実在界(あの世)の上段階の光の天使たちと話をしてきました。
 何れにせよ、我々はこの大神殿・地球上を肉体舟に乗って調和させるために、九〇パーセントの潜在意識で自分の過去を全部密閉して、表面意識の一〇パーセントで、人生というものを、しっかり自分自身を正しく見詰めた正道の生活をして行く修行場所としているのです。皆万生万物の修行所である。諸々の諸霊が実在界を通して、又地球上の人類の魂も皆この地上界に集まっているのです。
 「しょれい諸霊のりんね輪廻は、さんぜ三世のるてん流転、このげんしょうかい現象界でおのれ己のたましい魂をみが磨き、しんい神意にそ添ったぶっこくど仏国土・ユートピアをけんせつ建設せんがためなり。」
 諸霊の輪廻は過去、現在、未来と転生輪廻を繰り返している。これは我々人間に対する使命と目的を示したのであります。そこで私たちはこの現世において先ず魂の修行をする、しかも神の体である地球上に人間の心と心の調和のとれた平和なユートピアを作る、此の二つの目的を持ち、それぞれの部署により、与えられた環境によってベストを尽し、中道という根本原則を元とした生活行為の中に魂というものは、どんどん進化浄化されて行きます。
 「さら更に、うちゅう宇宙たいばんしょう体万生が、しんい神意にかな適う、ちょうわ調和のとれたせかい世界をけんせつ建設せんがために、おのれ己のたましい魂をしゅぎょう修行せることをさと悟るべし。かこせ過去世、げんせ現世、らいせ来世のさんぜ三世は、せいめい生命るてん流転のかてい過程にして、とわ永久にふへん不変なることをし知べし。」
 我々は過去から現在、現在から未来へと、皆さまの魂は永遠であって一つも変っていない。般若心経では、不生不滅、不増不減つまり、生れる事も滅する事も、増える事も減る事もないといっていますが、ここでは、私たちの魂は永遠に自分自身を磨いて行くのだ、この地上は魂の修行所だという事をいっており、これを皆さまが、悟らなくてはなりません。
 過去世というのは、皆さまが転生輪廻してきた心の中に記録されている潜在意識のテープレコーダー、ビデオテープ。即ち前世で学び、体験されたもの、これを前世といっております。
 「かこせ過去世はおのれ己がしゅぎょう修行せし、ぜんせ前世、すなわ即ち、す過ぎさ去りしじつざいかい実在界とげんしょうかい現象界のせかい世界なり、げんせ現世は、せいめい生命・ぶっしつ物質ふじ不二のげんしょうかい現象界、このせかい世界のことなり。ねつ熱・ひかり光・かんきょう環境いっさい一切をふく含めて、エネルギーのかたまり魂りにして、われ我ら等せいめい生命いしき意識のしゅぎょうじょ修行所なり。」(この世)現象界における大自然の移り変わる姿や、自然の法則は、心の世界、(あの世)実在界の表現体です。即ち大宇宙体を支配している神の意識の現われだといえるのです。
 この地球上という場所は皆さまの魂の修行所なんだ。盲の人生の中で、貧乏人に生れても、神の子として、自分がその環境の中から己自身を悟って人生の価値を、そして偉大なる心を豊かにしてあの世へ帰らなければならないのに、人間は貧乏に生れてしまうと、心まで貧しくなって人を恨んだり、自分の物足り無さを妬んだりして自分自身というものを失ってしまいます。あるいは又経済的に豊かな環境に生れてしまえば、その中で優雅な生活をして人生を無駄に過してしまいます。
 そのように人間というものは、金の高さや地位の高さで、あの世の生活が保障されているわけではないのです。皆さまがこの地球上での物質経済やあらゆる混乱した不調和な環境の中から、自らのカルマ(業)を修正して、中道を根底にした正しい日々の生活をしたならば、心の豊かな自分を作り出す事が出来るのです。総ての規準はこれ以外にないわけです。
 あの世では総理大臣であろうとも、その人が私利私欲、自我我欲の人生を送ったならば地獄へ真っ逆さまに落ちて行きます。たとえ国家の元首なりといえども、神の子なのです。彼等は自分が望み、その環境において修行をし、人の上に立つ人間はそれだけ己自身が謙虚で、多くの人々に愛と慈悲の道を教えなければならないのに、その使命を果さず、己の私利私欲に走ってこの地上界を去った時、彼等はその間違いを訂正するまで地獄界において反省を強いられます。蒔いた種は刈り取らなければならないからです。人間は貧乏であろうと、金持ちであろうと、地位があり一国の元首であろうと、皆総て平等に、神の愛と慈悲の光は与えられているのです。それ故に、たとえ貧乏人に生れようとも、心まで貧しい心を持ってはいけません。金は生きるための一つの道具にしかすぎないのです。その奴隷から己自身を開放する事です。
 「しんぶつ神仏よりあた与えられし、じひ慈悲とあい愛のかんきょう環境なることをかんしゃ感謝すべし。らいせ来世はじげん次元のこと異なるせかい世界にしてげんしょうかい現象界のにくたい肉体をさ去りししょれい諸霊のせかい世界なり。いしき意識のちょうわど調和度により、だんかい段階あり。このだんかい段階は、しんぶつ神仏のこころ心とおのれ己のこころ心のちょうわど調和度によるひかり光のりょう量のくいき区域なり。しんぶつ神仏とひょうり表裏いったい一体のしょれい諸霊は、こうみょう光明にみ満ち、じつざい実在のせかい世界にあって、もろもろ諸々のしょれい諸霊をぜんどう善導するひかり光のてんし天使なり。」
 我々は、物質経済の万能の唯物的人生観に落ち入りがちですが、その上に己自身の偉大なる魂を置き替える事なのです。その時に心というものが、本当にその価値を示し、その偉大さが悟られていくものです。
 まず私たちの心の段階というものは、実在界(あの世)、現象界(この世)を通しまして段階があります。心の段階というものは、光の量によって違って参ります。あの世では地獄界の暗い世界から光明に満たされた金剛界まで、霊囲気の違った世界が作られています。この世で、どんな生活をしたか――その自分自身の想念と行為の総決算が、自らふさわしい霊囲気に導くということです。この地上界は善と悪とがミックスされております。悪というのは、人間が長い転生輪廻の中において、作り出した想念と行為、このものによって悪の世界を作っております。それは、この現象界は、表面意識が一〇パーセント、潜在意識九〇パーセントと五官に頼る盲目の人生ですから、自己中心的な考え方が支配するようになって、生かされている環境に心を向ける事を忘れ、大自然の恵みに感謝することなく、自我の道を突っ走って行くのです。それですから、当然、光の量というものは、己の調和度によって、その質量が違いますから、その段階の落ち着く先きが無数にあるといえるのであります。こういうように、皆さん自体の、毎日毎日の生活の無限大な心の中に、自由な心の中に、皆さんの地獄、極楽の世界は厳然として、現在を基点に未来にわたって存在するのです。
 又、私たちの心というものは、丸く豊かで、片寄らない生活をしている人々の身体からは、柔らかい黄金色の光が出ています。更に神理を知った生活をして心が綺麗になると、段々(オーラー)後光が大きく成って行きます。此の分野にも如来界、菩薩界、神界、霊界、と光の段階があります。
 宇宙即我・即ちプッターという悟りの境地に到達した人たちは、後光が大きくなって、大宇宙の姿になります。そう致しますと、地球や月も自分の手の中にあるのです。つまり悟った者は、心が調和されているため、心にひっかかりがなく、一切の恐怖心もないから、光明のある、執着のない究極の悟り、本当のアーヌクタラ・サンミヤク・サンボデーの境地・即ちねはん涅槃の境地、宇宙即我の境地になるのです。
 この後光の強い程、調和されている。皆さんの肉体を通うして一人一人に後光が出ております。暗い想念で恨みばかりを持つ人たちは、自らして想念の曇りが出ているために、神の光を遮っております。そこで一番大事な事は、自分の心と行い・思っている事と行う事を神理に照し合せた中道の道、調和ある生活をしていると、皆さまの心の窓は開かれ、アボロキティー・シュバラー即ち観自在という状態になって行くのであります。
 観自在になると我々の原子細胞の肉体が、遥か小さくこめつぶ米粒位になってしまいます。もう一人の自分の光子体はドンドン大きくなって地球は青かったと宇宙飛行士がいったように、本当に青く真下に見えます。アメリカを見ようとすればすぐ見られます。どこでも構いません。自分が望んだ場所ヘサッーと行って見て来ます。            
 なぜならば、宇宙は自分の体の中にあるからです。我々は神の子であり、それだけの力を誰も持っているのです。そのようにして我々の心が調和されれば、段々後光は大きくなって行きます。これがあなた方のあの世へ帰る時に、この光が強ければ高次元の世界へ、あの世はこの世より精妙で、オートマチック・コントロールドアーです。自動です。自分から出ている光が無ければそのドアーは開きません。だから心が綺麗な人はその光の場所に行きますが、暗い人はそれ以上、上の世界には行けません。しかし光の天使たちが一緒に付いて行けば、どの段階でも通じます。一方暗い地獄界へ光の天使たちが行きますと、昼間のように明るくなってしまいます。その時に彼等は神だァ、太陽だァといっております。彼等にはまばゆくて見えないんです。
 私が講演中に、私から出ている光が見える人が何人かいるはずです。それは心が調和されている人には見えるのです。次元の違った光であるからです。
 ですから、皆さまは毎日の生活に神理に適った想念と行為の実践をして、物に災わされず、心の中で正しい判断をした生活をしておれば、誰も心は綺麗になり、神の光によっておお覆われます。今私の話を聞いた人たちのテープレコーダー(意識)の中には、皆記憶されております。やがて皆さまは、あの世へ帰る。その時に、善なる心は自分の心に嘘はつけないはずです。人には都合が悪ければ嘘をつきますが、あの世では嘘のつけない自分自身の心で自分を裁くのです。この世では、地球上の人間としてのルール、その国としての法律の範囲内にそって、裁判官が裁きます。ところがあの世へ帰る時には、裁く事の出来るのは他人ではない、神の子の己の善なる心が、自分を裁くのです。酷しいのです。情状酌量という事はありません。いわんや執行猶予何年なんていう事は絶対ありません。皆さまは自分で犯した罪を、自分のテープレコーダーを、全部チェックして、皆さまは自分で裁くのです。
 今私の話をしている神理正法は、皆さまの意識に記録されております。そのためにあの世へ帰って、ひろげたら、その分野だけは違っております。その時に、〃ああ彼奴の言ったのは本当だった〃〃あの時にもっと真面目に聞いておれば良かった〃と殆んど人はそのように思うでしょう。私はなぜそれを自信を持って言えるかといいますと、我々は、あらゆる所へ行って神理の講演をしますが、その時に聞いた人たちの中から、年をとって亡くなって行く人たちがあります。その人たちの所へ私が行って見ますが、その分野がパッーと光っております。彼等はそこを通して反省しています。それですから、心の曇りは晴れて、神の光に覆われます。瞑想的反省は、神の光によって覆われ、、心の曇りが晴れてしまう事を発見したのです。そのために、正しい神理を知り、正しい法を知り、心の中の歪が晴れていった時に、自らして神の光が出てくるからなのです。
 このような事実は、まず地獄へ行ったか、天上界へ行ったかを調べればすぐ解ってしまいます。その内に皆さまが、一年、二年、三年と神理を学ぶ過程に、この地上界を去って行く人たちがあるでしょう。その時に皆さまの中から心の窓が開かれて、あの世の通信を入れて話すような人たちが何人か出てまいります。真剣に神理を聞いた人と、聞かない人の差がハッキリ出てまいります。
 神理は聞く事により、行う事によって、その光が出てくるのです。いかに私の話を聞いたところで、皆さまが実践してこそ、この地上界においても価値が出てくるのです。実行をしなかったならば、これは画餅にすぎません。ボタ餅は矢張り口に入れてこそ味が解るのです。その味は喰わずして思案する事は、真に愚かな事です。
 そのように我々の心は不変的なものであり、心の世界は無限である。そうして実在界を通して心の綺麗な人たちは、諸々の諸霊が善導して、光の天使たちが皆さまの心の中に調和と安らぎの道を教えて行きます。そして本当の正しい道は、疑問を持っても、その疑問の解答は教えられ、しかも又心に引っ掛りが無く( )調和されて、己自身はより広い魂になって行くのです。
 「ひかり光のてんし天使、すなわ即ちしょにょらい諸如来、しょぼさつ諸菩薩のことなり。このげんしょうかい現象界は、しんぶつ神仏より、いっさい一切のけんげん権限をひかり光のてんし天使にゆだ委ねしところ処なり。ひかり光のてんし天使は、じひ慈悲とあい愛のかたま魂りにして、あ彼のよ世、こ此のよ世のしょれい諸霊をみちび導かん。さら更に、しょ諸てんぜんじん天善神あり。もろもろ諸々のしょれい諸霊をいっさい一切のま魔よりまも守り、ただ正しきしゅじょう衆生をようご擁護せん。」
 何んとか菩薩、何んとか如来、或は何んとか大明神なんて言われると、もうすでに神様だァなんて思うでしょうが、残念な事に彼等は神様ではありません。若し神だ!なんて名乗ってきたら動物霊です。人間は盲で見えないので解りませんが、神だ!仏だ!菩薩だ!と言って出て来る連中は絶対に正しいものではありません。
 なぜならば、如来や菩薩たちが出て来る時は、絶対に盲の人生を歩んでいる人々に対して、脅迫的な観念は与えません。安らぎと調和の言葉をもって、心に光を入れて行きます。だが、日本の神様はよく霊媒を通して威張って出て来ます。我こそは何んとかのみこと尊なり、信じざる者頭が高い、と殿様のような態度を示します。そんなものではありません。盲の人生を、自分の可愛いい子供たちが、この地球上で修行して、酷しい環境の中で苦しんでいる時に、なぜそのように、神は無慈悲な言葉を使うのでしょうか。愛と慈悲に満ちた言葉で、皆さまの心の安らぎを与えて行くものです。
 それ故に今後、我こそは稲荷大明神なり、我は何々と出て来る連中をよく見て下さい。まず、その人の家庭、行動等を見る事です。これはおか可笑しい、と思ったらやめる事です、深入りしない事です。一番重要なのは、本当にそういう人たちであるならば、心は綺麗で、人を恨む事も無く、自分というものをよく知り、家庭も円満で平和です。そうゆう事を確かりみてから、正しい目で皆さまは判断しなくてはいけません。
 このように、諸天善神というものは、特に稲荷大明神とか、龍王と言われる連中があの世におります。インドの当時は、ナガー・ラージャンと言っておりました。ナガー・ラージャンと言うのは龍王の事です。ナガーとは動物ですが、動物といえども神の子、万物の霊長に進化するための過程なのです。万物の霊長たる人類は、神の子として同じ形を持ちながら、闘争と破壊を繰り返し、動物的本性というものを捨て去っておりません。闘争的な破壊活動、争い、戦争、このようなものは、万物の霊長に進化する過程の動物のやる行為なのです。こうゆう事を知ったならば、動物霊たちも矢張り同じように神の子なのです。ただ彼等は神の子としての本性を知らないために不調和な行為をする。そうゆう動物霊たちを、仏教で言う菩薩界につれて行くまで、神の子としての神理を教える使命を持った者たち、こういう者たちを龍王といっております。
 稲荷大明神というのは、そのような動物たちの指導者で神理を教える純然たる神の子人間です。菩薩界まで進化する魂の浄化する過程において、彼等はその心を自分で身を持って体験して来なければならないのです。しかし菩薩界まで行く過程で、動物を支配する途中で失敗する者が多い。増上慢になってしまうのです。神界の上段階の連中が、菩薩界に行く途中、例えば力士であれば、幕内から小結になり、関脇になり、大関になって行く途中、矢張り相撲取りでも増上慢になりますと平幕に落ち込んでしまいます。同じです。
 あの世でも、つい動物たちがチャホャしたり、色々手伝いもしてくれます。現象界の盲の人間が、商売繁盛を願いこんこん狐々さんを祭ります。いつ時は感謝もしますが、いつか忘れてしまいます。商売繁盛に協力した動物たちに挨拶もしない。すると彼等はムクレてしまいます。〃何だ商売が繁盛するように、一生懸命こっちは、してやったのに俺たちの事を忘れやがる〃と必ず文句をいって来ます。やがて動物霊たちは不調和な環境を支配しはじめます。家族に現象が出たりして家の中は混乱してまいります。そこで神と自称する所へ拝みにいくと、〃貴方の家は稲荷大明神に供養が足りないからたた崇っている〃といわれ、こんどは一生懸命に、ちがった方法で、拝むようになる。その人たちは、欲が所詮深いですから、又やり出すのです。やればやる程混乱して泥沼の中へ足を突っこんで行く。そして最後は、死んだ時には動物界におちたり、人にひょうい憑依したり、じばく自縛れい霊になっていきます。そうゆうように非常に危険なものです。〃さわ触らぬ神にたた祟り無し〃という諺があるように、一つ間違えば宗教も阿片です。
 一方、不動明王とか弁財天という諸天善神もおります。弁財天というのは決して皆さまが金持になるために協力するのではありません。真の弁財天というのは、中国の四世紀時代に出られた方です。それは財は財でも丸い方の財ではありません。皆さまの過去世においてある時は王様の体験をし、又天文学を学んだ事もありましょう。あるいは貧賎の生活の中で人々から白い目で見られ酷しい生活をして来た人もありましょう。そのような皆さま自身の内在された偉大なる智慧、心の中にあらゆる体験を探り出す、このようなものを司どり、協力する光の天使を弁財天というのです。不動明王と言われる方は、善なる人々に近寄ろうとする次元の違った悪魔たち、又悪魔の憑いた人々を、皆さまの周辺から護ってやろうという天使たちなのです。諸天善神とはそのような使命を持っている人々です。
 実在界を通して見れば、諸如来、諸菩薩は心の内面を教え、諸天善神と言うのは善なる心の人々を擁護するために協力している光の天使です。
 前にもふれたように光の天使が地獄界にまいりますと、地獄界はパァーツと昼間のように明るくなります。地獄界の者たちは、神が来たあるいは太陽が出て来たとおどろきます。そういう現象を縁として彼等は自分自身を悟ってゆくのです。然し彼等はこの地球上において神の子としての使命を忘れ去ったために、その原因が結果となって現われたのですから、あく迄もこの地球上という場所を縁としなければ彼等自身は悟れないのです。地獄界に落ちた原因はこの地球上と云う場ですから、その故に皆さま自身は地獄に落ちている人たちを救う力を持っているのです。修行はこの地上界であるからです。それ故に私たちはこの地球という場所においてこそ、亡くなった先祖やあるいは地上界を去る時に執着を持って地獄界にいる迷える人たちを、救う事が出来るのです。然し大事なことは自分自身が神理を悟らず、地獄界のような心で彼等にお経をあげたところで、かえって皆さん自身が疲れるばかりでなく、心の不調和を呼ぶと同時に苦しみと悲しみを更に撤き散らして行く事になるという事です。本当に先祖に供養しようと思えば、まず自分自身の心を清らかにして神理を実践し、そして先祖代々の諸霊に対して模範を示すような生活行為を実践し、神理を教えていった時にこそ、本当に彼等は救われてゆくのです。
 諸天善神は皆さま自身の心のそばにおります。魂の兄弟たちも又皆まんの調和と安らぎのために協力をしております。それを受け取るのは皆さまの日々の生活行為いかんにあると言う事であります。
posted by ゆき at 11:44 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

心 行 の 解 説 (下)

 「にくたい肉体をゆう有するげんせ現世のてんし天使は、もろもろ諸々のしゅじょう衆生にしょうほうしん正法神り理をと説き、ちょうわ調和のこうみょう光明へみちび導かん。このげんしょうかい現象界に
 おけるわれ我ら等は、かこせ過去世において、おのれ己がのぞ望み、りょうしん両親よりあた与えられしにくたい肉体というふね舟にの乗り、じんせい人世こうろ航路の
 うなばら海原へ、おのれ己のいしき意識・たましい魂をみが磨き、しんい神意のぶっこくど仏国土をつく造らんがため、うま生れいで出たることをさと悟るべし。」
 これは当然我々が生れて来た目的と使命というものを明記したものです。
 「にくたい肉体のしはいしゃ支配者は、おのれ己のいしき意識なり、おのれ己のいしき意識のちゅうしん中心はこころ心なり。こころ心はじつざい実在のせかい世界につう通じ、おのれ己のしゅご守護・
 しどう指導れい霊が、つね常にぜんどう善導せることをわす忘れるべからず。ぜんどう善導せるがためにおのれ己のこころ心は、おのれ己じしん自身にちゅうじつ忠実なるこ
 とをし知るべし。」
 皆さま自身は、ややもすると一人で居ると淋しいと思う。然し皆さまの心の中には次元を越えた魂の兄弟たちや、あるいは自分の達成しようとして努力している目的に対して、実在界の光の天使たちが常に皆さまの心の中に働きかけて協力しているという事を知るべきです。決して淋しいものではありません。むしろ実在界にいる人たちの方が、盲目で修行して己自身の心の窓を開いたならば、彼等自身がいろいろの力を出す事が出来ます。その時私たちは偉大なる自分の心こそ、総てであるという事をハッキリと解ります。このように善導される我々の心は「おのれ己じしん自身にちゅうじつ忠実なることをし知るべし。」というように、皆さまの心は人には嘘はつけても自分には嘘がつけないように、これこそ神の子たる絶対なる証拠なのです。
 やがて皆さまがこの地上界を去る時には、皆さま自身の為した想念と行為、思った事と行った事の一切を、皆さま自身の善なる心が裁くのです。その時は酷しいのです。情状酌量というこの地上界における裁判のようなことはありません。一切は自分の善なる心が酷しく己自身を裁くために酌量の余地はありません。己の善なる心に人は嘘はつけないのです。その嘘のつけない己自身というものを、正直に毎日の生活の中に活かしたならば、この世の中はもっともっと調和されてゆくはずです。
 「しか然るにもろもろ諸々のしゅじょう衆生は、おのれ己のにくたい肉体にいしき意識、こころ心がしはい支配され」
 という意味は皆さま自身の目で見たもの、耳で聞いたもの、それを肉体の舟だけで判断してしまって、肉体の船頭さんである魂、そしてその中心である心に何の相談もしないで、つい私たちは五官でとらえたものを即座に想念に作用し想念に作用したものが、自分に都合が悪いとすぐ感情になって出てしまったり、あるいは自分自身が学んで来た、いろいろな人生体験を通して判断して逃げようとしたり、あるいは逆な言葉で返してしまう。五官でとらえたものは即座に皆さまの想念にはい這入り、この中でじっくりと自分自身の本能や智性や、感情や理性というもので、噛み砕いて皆さま自身がはっきりと判断出来るならば良いのですが、自分に不利益な問題を第三者から聞かされると、我々の耳を通して想念が即座に感情となって、相手をひぼう誹謗するような言葉になって出てくる事になります。そうなってしまうと心の中に噛み砕いて正しく判断する事が出来なくなってしまいます。
 そこで我々はたとえ自分に不利益で誹謗された問題があっても、自分の心の中で第一に、なぜ私はそのような事を云われるのだろうか、相手はなぜ私にそのような事を聞かせるのだろうか?なぜなぜとその問題を追求しなければいけません。それをあく迄も心の中で中道を通して、自分自身を第三者の立場に立ってしっかりと眺めた時に、その原因があるなれば素直に「ああ私が悪かった」今後修正しますからと言えば、心の中に一杯詰め込まないで済むのです。それを私の立場が立たない、あるいは面子が立たないと自分流で心にもない事をやってしまって、更に苦しみを大きくしてしまうのです。
 人間は素直に成らねばなりません。我々は聞いた事、見た事を心の中で感情を入れずにしっかりと正しく判断した時に、人間は皆必ず正しい判断が出来るのです。それを自分の心の中で分解もせずに、一概に判断してしまって、心にヒズミを作ってしまう事は、その人は毒を喰った事になるのです。それは自身の想念が曇を発して神の光を遮え切ってしまうのです。そこで八正道の中において「正しく見、正しく語る」というのは、あくまでも中道という大調和を根底にされた神理を中心に、己自身を判断しなければならないのです。 「おのれ己がぜんせ前世のやくそく約束をわす忘れ、じこ自己ほぞん保存、じが自我がよく我欲にあ明けく暮れて、おのれ己のこころ心のま魔にしはい支配され、しんい神意にはん反し
 このげんしょうかい現象界をす過ぎゆ行かん。」            
 末法の世の中になりますと心の規準というものがなくなります。では正しい判断をするのにはどのような物差しによって計れば良いか、それは八正道なのです。心を丸くするには八正道以外にはありません。常に正しく見て、自分の心のどこにヒズミが出ているかという事がはっきりと解って来れば、生活の中で間違った事は行われません。少くとも私の話を二回〜三回聞いている人たちは、物事に対して即座に理性が働きます。現象が起れば、これは善い事であろうか、悪い事だろうかというブレーキが掛ります。しかし神理を知らない人たちはこのブレーキすら持合せがないのです。皆さまが日々のテレビのドラマを見ても物の見方が変って来たはずです。それが当然なのです。日々の中に我々は心の普遍的なことを知り、常に安らぎと調和という習慣を、己の心の中に作っていった時、皆さまはより調和された光の世界に心は進化してゆくのです。
 「また又、しょう生ろうびょうし老病死のくる苦しみをう受け、おのれ己のほんしょう本性をわす忘れさ去るものなり」
 というのも人間は死ぬのが恐い、そして年を取るのも、病気をするのも総て苦しみだ。しかし人間はその苦しみがあるだけに修行が出来る。そしてその苦しみから解脱出来るのです。私はその苦しみを解脱する道を説いているのです。苦しみを解脱する道は、己自身が足る事を知った正道の道を行じて心が浄化されてゆけば、皆さま自身はあの世に帰る自分の道ですら行って見る事が出来るのです。そうなれば現在持っている肉体は、人生航路を渡ってゆくためのただの乗り舟であって、あの世に帰る時には又新しい肉体を持って、あの世へ帰る自分の生活環境を見届けて来る事も出来るのです。そういう事がハッキリと判れば死ぬという事もこわくはありません。恐い原因は執着があるから恐いのです。その執着というものを我々は生活行為の中から、一ツ一ツ取除いていった時に、皆さまはより広い大きい心に進化してゆくのです。そこで生老病死の苦しみの原因は総て自分が作り出している。「そのげんいん原因はぼんのう煩悩なり。」と書いております。
 前述したように煩悩は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が総てである。この六根の調和は常に己の心に問う事であります。すなわち、
 「ぼんのう煩悩は、がん眼・に耳・び鼻・ぜつ舌・しん身・い意のろっこん六根がこんげん根元なり、ろっこん六根のちょうわ調和はつね常にちゅうどう中道をこんぽん根本として、おのれ己の
 たゞ正しいごころ心にと問うことなり。おのれ己のこころ心にと問うこと事は、はんせい反省にして、はんせい反省のこころ心は、おのれ己のたましい魂がじょうか浄化されるこ
 とをさと悟るべし。」
 皆さま自身が自分の為した想念と行為というものを、しっかりと八正道の物差しで反省した時に、反省によって心の曇を晴らすことが出来るのです。これが禅定です。朝から夕方迄何をして来たか、人を恨まなかったか、自分の都合だけを考えなかったか、主人に対してぞんざいな口をきかなかったか、このように一ツ一ツを正しく反省した時に、皆さまの心の引掛りは無くなって行きます。心の曇がなくなりますから神の光によって覆われます。
 我々の心は一念三千、自在に変化をしますが、常に正道という状態に己の心を戻すこと。摩訶止観と言って中国の天台ちぎ智というお坊さんが発見をして居ります。止観というのは、己自身の心を止って見る、これは反省ということです。人間はこの地上界に出てしまえば僅か一〇パーセントの表面意識で修行をしているために間違いを犯すのです。しかし過ちを改むるにはばか憚ることなか勿れ、間違いを犯すから修行が出来るのです。一歩下ってその間違いの原因をしっかりと究明して、二度と間違いを犯さないように生活することが大事なのです。私たちは孤独ではないんだ魂の兄弟たちがいるんだ、即ち「おのれ己じしん自身はこどく孤独にあらずいしき意識のなか中におのれ己にかんれん関連せししゅご守護・しどう指導れい霊のそんざい存在をし知るべし。しゅご守護・しどう指導れい霊にかんしゃ感謝しさら更にはんせい反省は、おのれ己のしゅご守護・しどう指導れい霊のみちび導きをう受けることをし知るべし。」
 皆さまにはそれぞれ守護霊がいるんですから、皆さまの心が更に調和されてくれば、守護霊自身が姿を見せる事があります。それは日本人である場合も又外人である場合もありますが、守護霊は必ず皆さまのために協力しているのです。守護霊というのは皆さまの魂の兄弟たち、あるいは又皆さまに関係のある友達がいろいろと協力してくれます。私の守護霊の何人かは、指導霊として人々についている場合があります。また仕事の内容によって守護霊、指導霊は違って参ります。この様に皆さまは守護、指導霊の導きを受けているのです。   
 「ろっこん六根あるがゆえ故に、おのれ己がさと悟れば、ぼだい菩提とか化すことをさと悟るべし。」と言う事は、我々は煩悩を縁としてその苦しみから解脱することが出来るのです。
 この菩提というのは、たまたま、ゴーダマ・シッタルダーが大きいピパラーという大木を背景として、その場所でもし悟れなければこのまま死んでしまおうと、一切の執着を断ち切って、一週間日についに宇宙即我、色心不二という己自身の神理を悟ります。そのために悟りの意味を菩提樹という木になぞらへて、中国においては菩提と化すと言ったのです。眼耳鼻舌身意という六根より生ずる煩悩が菩提と化すことが出来るのだという事です。ややもするとこのために私たちは間違いを犯す。しかしこの間違いを二度と犯してはならないという事です。私が言っているのはこの意味です。
 「しんぶつ神仏のだいじひ大慈悲にかんしゃ感謝し、ばんしょう万生そうご相互のちょうわ調和のこころ心が、しんい神意なることをさと悟るべし。」
 神仏の大慈悲に感謝する。所謂太陽の熱・光のエネルギーを無償で神が与えている。その結果が地球上の樹木や草花を咲かせ、又我々の生活環境のためにその物を与えております。このような慈悲と愛に対し、ただ有難う御座居ますでは困ります。ただ感謝だけでは一方通行です。報恩という行為が必要なのです。報恩という行為は、人のため、社会のため、人類のために、経済力のある人は経済を以て、体力のある人は労力を以て、あるいは私の家を使って下さい、米が沢山あるから米を使って下さいと、このように自分の出来得るものを以て気の毒な人たちに愛の手を差しのべる、これが感謝と共になすべき報恩の行為なのです。それを私たちは忘れているのです。
 インドの当時ゴーダマ・シッタルダーは善き友を持てと教えました。善き友というと殆んどの人は、自分の都合の良い時だけ協力してくれる人を善き友だと思って居ります。これを善き友と思ったらとんでもない事です。善き友というのは、お互い苦しい時に助け合い、相手が苦しい時にはそのために協力を惜しまず、心と心とが結びついた、このような人たちが本当の善き友なのです。ややもすると私たちの善き友と言えば一方通行の善き友であります。そのようなものでなく、お互いのために、調和と安らぎのために、又平和な心を作るために、このような環境が必要なのです。
 「にくたい肉体せんぞ先祖にほうおん報恩くよう供養のこころ心をわす忘れず、りょうしん両親にたい対しては、こうよう孝養をつく尽すべし。しんしん心身をちょうわ調和し、つね常にけんぜん健全
 なせいかつ生活をし、へいわ平和なかんきょう環境をつく造るべし。」 
 我々は肉体先祖を通じてこの地上界の環境に舟を頂いた。それに感謝する心は親孝行の行為になってくるのは当然の事です。最近自分の主義主張のために親の言う事も聞かず、自殺をした例がありましたが、このような事は一番の親不孝者です。
 我々はそういう事であってはなりません。両親に対し育ててもらった事に、ただ有難とう御座いますではなく、経済的にも、精神的にも又肉体的にも、いろいろな角度から親孝行をしなくてはならないはずです。若し親不孝ばかりしていて、この地上界を去って、今度「お父さんになって下さい」と頼んだ時「あの時大分親不孝をしたからお前なんかの親にはなってやらないよ」と断わられます。そういう事を考えたら余り親不孝をしない方が良いと思います。
 「にくたい肉体ほぞん保存のエネルギーげん源は、ばんしょう万象をふく含め、どうぶつ動物・しょくぶつ植物・こうぶつ鉱物なり・・・。」          
 皆さま自身肉体保存が可能なのは、動物、植物、鉱物というエネルギーがあるから出来るのです。そのエネルギーに対して感謝する心を忘れてはならない。その理由は、たとえ米粒一つにしても、彼等は命を投げ出して人類の血や肉や、骨と成る事に彼等自身の修行を持っているのです。それ故に動、植、鉱、というエネルギーに対して感謝することとは、粗末にするなということです。それをあり余っているから、これぐらいはいいだろうと無駄にする。感謝する心があるならば、そのものを粗末にしないようにすることが第一だということです。
 「・・・ひび日々のせいかつ生活のなかにおいて、おのれ己のたましい魂をしゅぎょう修行すべし。おのれ己のこころ心、いしき意識のエネルギーげん源は、ちょうわ調和
 のとれたひび日々のせいかつ生活のなかに、しんぶつ神仏よりあた与えられることをさと悟るべし。」
 人間には肉体のほかに、意識というものがあります。すなわち精神であり、心です。心配ごとや、勉強等の精神労働にたいして、そのエネルギーの補給は睡眠によって得られますが、最も大事なことは調和であります。神の心を心とした心、調和の毎日をすごすことが出来れば、その意識は常に健全に保たれ、エネルギーの限りない補給が続きますから、普通の何倍ものエネルギーを消費しても疲れを知りません。エネルギーの源は神仏です。
 人間は神仏の子ですから、神仏に眼を向け、調和の心を忘れなければ、神仏の保護をうけるのは当然のことです。ウソのつけない己の心を信じ、ウソのない毎日の生活を続けることによって、神仏の加護をうけ、魂の修行をかさねてゆくべきでしょう。
 「おのれ己のにくたい肉体がくる苦しめば、こころ心のうらん悩乱し、わがみらく我身楽なれば、じょうよく情欲にあい愛ちゃく着す。くらく苦楽はとも共に、しょうどう正道じょうじゅ成就のこん根ぽん本にあら非ず、くらく苦楽のりょうきょく両極をす捨て、ちゅうどう中道に入り、じこ自己ほぞん保存、じが自我がよく我欲のぼんのう煩悩をす捨てるべし。」
 肉体と精神というものは、通常は不離一体です。それ故に、肉体が痛むということは、肉体に密着している光子体が痛むということであります。肉体と光子体は神経繊維によってつながっております。神経の通らない肉体は、単なる「モノ」にすぎないのです。戦場や交通事故によって、腕や足の神経組織が寸断されたりした場合、その腕なり足は、外傷を受けても、痛くもかゆくもありませんから、やがて腐って役に立たなくなってしまいます。また、足や腕を切断して義足や義手をはめていながら、その義足や義手の部分がムズかゆいことがあります。これは肉体はなくなっても、光子体の足なり手なりの部分は切断されていないということなのです。
 人間には、このように光子体という、もう一つのボデーを持った意識体というものがあって、その意識体が肉体を動かしているのであります。このように人間は肉体と精神とを切離して考えることは不可能であります。肉体的な苦痛は精神的苦痛につながってきます。それは肉体の苦痛が光子体の苦痛であるからで、肉体の健康な時は光子体の健康を意味しているのであります。たとえば、ある仕事をなし遂げるために、肉体を酷使して、毎日夜の二時、三時まで仕事に精を出したとしましょう。気持が張りつめている間はあまり疲労は感じないでしょう。しかし肉体には個人差はあっても、その肉体を維持する最低の条件があります。こういうことを続けていると、その人は病気という結果をうみ出してゆきます。肉体には運動と休息というものが必要なのです。もちろん精神も一緒であります。こうした原理・原則を無視して、心が先走って肉体を酷使すれば、弾性の限界をはみ出し病気という結果を招いてしまうのです。
 また反対に、肉体保存にばかり、意をそそいで、精神活動をおろそかにしてゆくと、精神の進化はおくれて、肉体も退化してゆくのです。運動もせずに、暖衣飽食をしていると、肉体に抵抗力がなくなり、ちょっとした風邪をひいても、大病を誘発するようなことになります。
 適度の精神運動と適度の肉体運動は、健全な精神と肉体を保ってゆく上に、必要欠くべからざるものであります。
 また人は環境によって、物の見方も、性格、心の持ち方もかわってまいります。経済的に非常に苦しかったり、逆に非常にめぐまれた環境の中にあると、人間はどうしても自己を発見するということがむづかしいものであります。金がたくさんあるとつい好き勝手なことをし、反対に貧乏をして明日のパンにも事欠くような状態であると、人のことなど構っておれなくなってしまうのです。
 ここで中道というものが大事なことになってくるのです。中道とは文字通り真中の道であります。真中とは円であれば円の中心、かなめ要であり、それを知るにはまず自我にもとづいた考え方を改めなければなりません。中道の心は自我を離れた客観的な立場にたたなければ見出すことは出来ないのであります。
 中道の心とは私心のないことです。神の尺度です。この神の尺度に立った時に、はじめて正しい判断ができ、精神と肉体、環境の調和というものは生れてくるのです。
 「いっさい一切のしょげんしょう諸現象にたい対して、ただ正しくみ見、ただ正しくおも思い、ただ正しくかた語り、ただ正しくしごと仕事をなし、ただ正しくい生き、
 ただ正しくみち道にしょうじん精進し、ただ正しくねん念じ、ただ正しくじょう定にい入るべし。
 か斯くのごと如くしょうほう正法のせいかつ生活のなかにこそ、しんぶつ神仏のこうみょう光明をえ得、まよ迷いのきし岸よりさと悟りのひがん彼岸にとうたつ到達するものなり。このときに、しんぶつ神仏のこころ心とおのれ己のこころ心がちょうわ調和されこころ心にやす安らぎをしょう生ぜん、こころ心はこうみょう光明のせかい世界にい入り、さんまい三昧のきょうがい境涯にとう到たつ達せん。」
 中道の道を歩むために、では具体的にどうずればよいのか、それには中道の目的を適える八正道しかないのであります。
 正しく見る、思う、語る、の三つの精神作用は、人間がこの世で生活する上に、もっとも大事な、そして基礎的な部分を占めています。煩悩という迷いが生ずるのは、見たり、聞いたり、話したりすることが多いからおこるのであります。私はまずこの三つを八正道の冒頭にあげ、「正しく見る」とは、心の眼で見よ、「正しく思う」とは、頭で考えず、心で考えよ、「正しく語る」とは、心で考えたことを語るようにせよ、といっているのです。 
 「正しく仕事をなす」ということは、与えられたその職務に対して、忠実に、義務と責任を果すことです。
 「正しく生活する」とは日常の生活のことです。現在の環境、立場、そして生きていられる、そのこと自体に感謝することです。物一つ求めるにも、多くの人々の労苦があり、助けがあり、太陽や水の自然の恵みという保護があるのです。正しく生きるには、まず六根に左右されない自分をつくってゆくことです。それには自分の短所、長所を正しく見つめ、短所を修正し、長所を伸ばしてゆくことです。
 「正しく道に精進する」とは、主として人と人との関係であります。夫婦、親子、兄弟、友人などは、それぞれの因縁あるいは約束の下に結ばれているのですから、我欲にもとづいた自己主張をせずに、愛・調和ということを目標に、毎日の生活を送ることであります。
 〃念〃の正しい在り方は、中道に適った調和を目的としたものでなければなりません。念というものは、たいてい自己の欲望をもととしたものが多いのです。それゆえに、欲望は際限なく発展してゆくものですから、やがては人と人との調和を欠くことになってきます。欲望はこれでよいというキリがありませんから、常に足ることを知った生活、祈る心を忘れないことが必要なのであります。
 最後に「正定」ですが、これは反省です。これまでに述べた七つの規範というものに照らしてみて、今日一日の自分の想念と行為に、行き過ぎた点はなかったか、また気遅れがして善事が出来なかったというようなことはなかったか、このようなことをふりかえって見て、正しくないことがあったら明日からそれを改めるということです。
 反省の重要な点は、ただ単に、ああ悪かった、ああよかった、で終ってしまうのではなく、悪かった点は明日からは、それを二度三度繰り返すことなく改めてゆくことであります。反省は行為に移してこそはじめて意義をもつものです。意義とは、精神と肉体がまず健全になり、家庭の調和、職場の調和、そして社会の調和につながってゆくことを意味するのであります。正定の基本はまず反省にあることを肝に銘じて下さい。
 このようにして、人間の日常生活も、こうした正しい法というものに乗った生活こそ大事なのです。正法とは、正しい法、万古不滅の神の理、宇宙の法則をいうのであります。
 正しき行為は、正しい結果として、その人の人生、健康環境を整えてくれます。大自然の運行が、これを如実に示しております。狂いのない自然の運行があればこそ、私たち人間は、この地上で生活をしてゆくことが出来るのであります。
 神仏は存在しております。存在しないと見るのは、心を正しく見ることの出来ない人の言うことなのです。心を素直に、正しく見ることができて、その心で想念と行為を正すように努めるならば、神仏は誰彼の区別なく、その前に現われます。神仏は決して沈黙を守っているのではありません。神仏をして沈黙させる原因を人間がっくっているために、沈黙せざるを得ないのであります。
 さんまい三昧の境涯は、人が心をとり戻した時、すなわち、神仏の心と己の心が調和された時に、心の安らぎという、無限のひびきをもつてつつんでくれるのであります。
 正法は誰のためでもなく、それは、皆さま自身のためのものであるということを、よく理解して、日常の生活の中に実践をしていただきたいのであります。
posted by ゆき at 11:43 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実 在 界 と 現 象 界

 青年部の皆さま、しばらく振りで皆さまの前でお話をする事を嬉しく思います。私たちは皆さまの若さと言うものを非常に期待しております。そして、やがてこのような集会が、二年、三年、四年経ちますと、全国的に起って来るようになると思います。
 青春と言うものは、お金を出しても買えないものなのです。皆様自身は、若さという自然から与えられたものの中で、人生というものを確っかりとつかみ得たならば、一定の年頃になって、真黒な心の時に聞くよりかは、遥かに心に浸透し易いのです。
 皆さまが、年が若いから、子供だからといいましても、守護霊は全部大人なのです。
 それ故に、GLAのグループでは、将来を担う小学生や中学生が年を取った人々にその道を説く人々がいっぱい出てまいります。それには、やはり八正道を実践する以外にはありません。
 我々は、自分自身の欠点というものにはなかなか気が付きません。それは心の規準というものを持っていないからです。
 心の規準というものは、正しいという片寄りのない生活行為なのです。左右両極端の物の考え方は、何れにしても苦しみを作り出して行き、同時に自分の心の中にスモッグを作り出してしまいます。
 スモッグを作ってしまえば、大阪や東京の空のようにオキシダントとか窒素酸化物が、人体に悪い影響を与え、自然を破壊しつつあると同じように、心のスモッグも、又心のひずみを作り、苦しみを作ります。
 あたか恰も太陽の熱・光のエネルギーが、平等に与えられているように、私たちの心の中にも、又大自然を通しても、神の偉大なる慈愛の光は平等に与えられております。にもかかわらず、それを心のスモッグがさえぎ遮ってしまうのです。
 本来は、丸く、豊かな、広い心であったものが、いろいろとひずみを作り、自分自身の心というものが解らなくなってしまったのです。
 生命というものが永遠の転生輪廻を繰り返しており、今皆さまが自分に与えられたその環境の中で、新しい人生の学習を目的として今生活をしているのだ、という事を自覚しなければならないのです。
 そこで今日は実在界と現象界というもの、これがどのような関連を持っているのかという事を説明してみたいと思います。
 実在界(あの世)という場所は、此の地上界即ち三次元立体の世界を投映しているもとの世界であります。この実在界こそ、やがて皆さま自身が帰らなくてはならない本当の世界なのです。
 此の地上界に出る以前、皆さまはあらゆる国々を転生輪廻し続けて来て実在界に帰ります。
 私は何回か禅定の状態で、そのまま実在界、あの世に行って来ました。心が調和されてまいりますと、光子体の方が大きく、広くなって行き、同時に此の地上界の肉体は自分の前に出てまいります。
 そのもう一人の光の肉体が、次元を越えて行く途中にドームがあります。そのドームは光に満たされており、そこから外れてしまうと暗い世界です。真暗な所にスポット・ライトを照らされている光景を想像してみて下さい。そのスポット・ライトの真中を上昇して行ける人は、間違いなく八正道を実践している人たちなのです。
 正道を外れている人たちは、そのスポット・ライトのドームの中に入ってはおりません。人間は誰も眠っている時は、肉体から離れております。意識というもう一人の自分が肉体から離れているのです。その結果、皆さまは肉体が絶対だと思っているはずなのに、鼻の穴も、耳の穴も開いているけれども、側で喋っていても聞けませんし、あるいはにおいも嗅げません。
 そうすると私たちの肉体には、それ以外に何物かがあるという事に気が付くはずです。
 肉体から離れたもう一人の自分が、そのドームの中を物凄いスピードで上って行くと、耳元で風を切って行く音がピューピューしてきます。禅定のままですから、途中迄は隣り近辺で亡くなられた人たちが白い着物を着てついてまいります。あるいは、事故で亡くなった人たちが、傷を受けたままの状態で上ってまいります。
 勿論そのような人たちは、ドームの真中の光の中心を通る事は出来ません。いくらか暗がりの所です。段々上って行く内に、後からついて来ている人たちは、自分の心に比例した暗い世界ヘドンドン落ちて行き、そこで彼等は生活の場を求めて行きます。
 心の美しい人たちは、その心に比例した光の世界へ行くのです。そのようにして、ドームから抜け出しますと、途中月や星がドンドン眼下に見えます。
 それを抜け出した世界には、スモッグも雲もなく本当に真青な空です。その空に地球上と同じような太陽が光っております。
 地球上の太陽は非常にまぶ眩しくて見にくいですが、あの世にある第二太陽ともいうべきものは、やすらぎのある光を出しております。

 実はこれが大宇宙体を支配している神の意識なのです。そしてそれは勿論太陽にも与えているし、此の地上界あるいは大宇宙体総てに平等に与えられている神の光の根元なのです。
 此のようにしてドームの中から抜け出した世界は若葉色で、自然というものが非常に美しく、その場所に降り立ちますと、丁度芝生のようなものがスロープの利いた丘から遙か目も届かない所まで、ずっと敷き詰められております。
 足を降した途端に、芝生は恰も私たちの足を包んでくれるがごとく生きております。
 森の木立ちも非常に美しく、此の地上界の緑色とは遥かに違って、これも又、我々の心に調和と安らぎを与えるようなものです。
 恰も枝は我々を迎え入れるがごとく、自然の中に我々は溶け込んで行きます。
 そのスロープの利いた所をずっと行きますと、古代のエジプトのスタイルをしたような頭の上に後光の出ている人たち、あるいは古代インド人のような格好をした人たち、中国の坊さんのような人たち、こういう格好をした人たちが、私の行った場合に何人かおられました。
 非常にたどたどしい日本語で歓迎をしてくれました。その時に、GLAの会員以外の外国人も来ておりました。これは勿論此の地球上に肉体を持っている人です。GLAの内部からは、四、五人の方が来ておりました。
 心で思えば、相手に通じてしまうのです。日本語であろうが、どこの言葉であろうが、意思は即座に相手に通じてしまいます。
 こうして迎え入れてくれまして、その時に「諸君はよく心を調和して下さい。地上という投影された現象の世界は、心というものが失われているために調和が出来ず、私たちは直接送信する事が非常に難しいのです。君たちの世界で、二次元の表面に写し出されている映画に、君たちは話掛ける事が出来ないのと同じように、三次元の世界も不調和な心の状態の人々が多ければ、貴方たちに通信する事が出来ないのです」という事をいろいろ教わると共に、指をさされたスロープの利いた、芝生のようなものが敷き詰められた丘の、遥か遥か遠い世界が、君たちの地球上、地上界なのだ、という事を聞きました。
 こうして我々はあの世とこの世、即ち三次元の世界と四次元以降多次元の世界とは、そのような次元を越えるドームによって繋がれているという事が解ったのです。
 それが一回なら偶然ともいえるでしょう。あるいは夢を見ていたといわれても仕方がありません。ところが行った人たちの中から翌朝、「実は昨晩、天上界のこういう所へ行きまして、こういう話を聞きました。本当に有りがとうございました」という電話が間違いなくかかってきました。何人か行った中で連絡の来なかった人々は、途中で眠ってしまったのです。夢ではないか、と思っていたのでしょう。
 眠ってしまいますと、我々の意識というものは九〇パーセント潜在しているために、なかなか記憶に残らないのです。一〇パーセントで行って見ますから、私たちは、はっきりと確認してまいります。
 そこに此の地上界と実在界というものの境界がはっきりしている訳です。然も又、我々はいつでも実在界にもあるいは実在界の中の地獄界、天上界にも行く事が出来ます。
 特に現代のような末法の世界になってしまいますと、心にスモッグが多いために、地獄に落ちる人々が多いのです。
 こうして実在界において、「君たちはこの地上界という場に出る時は、必ず悟って神の子としての道を、迷える衆生に説いて来るという約束をしてきたのです。しかしこの地上界という場に出てしまうと、仏教を学ぶ者もいつの間にか他力信仰に変り、お題目を唱えたり、神様を拝めば救われるのだ、との永い歴史の中の習慣、思想というものの中に、君たちは自分自身をつかみ得なかったのです」という事をいわれました。
 こうして、次元の違ったあの世、実在界は皆さんが生活していた世界なのです。
 ところが、人間というものは〃住めば都〃自分自身の今いる所から離れたくない、死にたくない、というふうに、肉体を持ってしまうと矢張り執着を持ってしまいます。
 しかし、好むと好まざるとに関わらず、何時の日か私たちの肉体は滅びてしまいます。
 皆さまの殆どは此の地上界に出る前には、天上界という場所において、お父さんやお母さんになる人たちと「今度はお父さんになって頂きたい」、「今度は貴方にお母さんになって頂きたい」と約束をします。チャンとした役所のような所で、登録し、そしてこの世に出生してくるわけです。
 このようにして、地上界に出て来る時期というものははっきりと解るのです。ところが我々は死ぬことは、はっきりと解りません。何時死ぬのかも解りません。しかしあの世から此の地上界へ出る時は、死と同じ事なのです。
 少なからず八十年や九十年は、神様の身体の中の一部分の小さな細胞である地球という場で、修行しなければなりません。その時は、あの世から見れば死んだと同じ事です。
 心がきれいであの世と通信が出来れば別です。解ってしまいますから。また行って見る事も出来ます。
 しかし、皆さまの多くは天上界においてそう言う約束をしたのですが、中にはお父さんから、あるいはお母さんから「お前は、前に出た時に親不幸をして非常に困ったから、もうお前との親子の関係は勘弁してくれ、どうか違う人に頼んでくれないか」といって、キャンセルを喰う人もあるのです。
 まあ皆様方も余まり親に迷惑ばかりかけて、あの世に帰って「もう一回お母さんになって下さい」といった所で、「もう嫌です」と断わられる可能性もあるのです。
 皆さまが地上界に出て来る前は、必ず修養所という所で、出て来る機会をちゃんと待っております。しかも又どのような環境であろうとも、それは自分が望んで出て来るのです。したがって精子と卵子が丁度調和される時期についてもあの世では解っております。
 そうして、その準備体制が出来るのですが、皆さまの殆どは、正直のところ喜んで出て来る人は少ないのです。なぜならぱ、此の地上界をちゃんと立体モーション・ピクチュアーという映画でそのままに見ておりますから「あーあ、あそこへ出たら私は悟れるかしら、大丈夫かなあ、又へまをやって帰るのかしら」と心配します。そしてあの世の友達は「何々さん、確っかりやって下さい。今度帰って来る時に地獄じゃ困りますよ」という事でお互いにいたわり合う場合があるのです。
 あの世からは、総て見通しですから、それだけに自分というものを悟れるかどうか解らなくなってしまうのです。
 そうしている内にお母さんのお腹に入り、体内に入った子供は成長して行きます。受胎後三ヶ月ぐらいで大体七センチ〜十センチ位に成長し、その辺から初めてこの地上界のお母さんのお腹の中に入って支配し初めます。そうなると、殆どのお母さんが気分的におかしくなって来ます。あるいは食べ物が変ってしまう人があります。
 まあ差し当り私の所へ来た人で「私は妊娠をしたら、何かすっぱい物がおいしくて、魚なんかを真黒に焼いた物がおいしいのです。一体どういう事なんでしょうか」といわれるので、お子さんを調べた所が、なる程アメリカのインディアンか何かの古い過去世の人で、そういう意識を持っていて、お母さんの身体を支配しますから、同じような事をはじめます。まあ、酸っぱい物を欲しくなるというのは恐らく日本人の過去世の人が多いと思います。梅干か何かをいっぱい食べた人でしょう。まあそれはどうか解りませんがね?。
 このようにして、お母さんのお腹の中に入って支配している時は、まだ大人なんです。段々成長するに従って、お母さんの意識と自分の意識が調和されてまいります。気分が悪くなったり、おかしくなる事はないのです。   
 こうしてとつき十月とおか十日、太陽暦で行くと約九ヶ月日に初めて空気に触れると同時に、あの世とこの世のお別れです。空気に触れて、一声泣いたらもう過去世においてこういう事があった、ああいう事があったという事が忘れるようになっており、それは潜在してしまうのです。一〇〇パーセント潜在してしまいます。ただ、本能の一部分が肉体を保存するためにひらいており、お母さんのおっぱいをしゃぶります。
 それと後は、泣く事です。一週間経ち、二週間経ち、やがて子供の寝顔を見ますと、黙ってにこにこ笑っている事があります。此の場合は、実在界の友だちや魂の兄弟たちが「いよいよお前出たなあー、確っかりやれよ」と祝福している時なのです。
 お子さんの意識を見ますと、心はちゃーんと丸く、広く、豊かで光っております。
 このようにして成長を続けて、自我が芽生えてまいります。人の持っている物を欲しくなります。又兄弟けんか喧嘩もします。気に入らないと泣いておど脅かします。
 そうしている内に、潜在意識の一〇〇パーセントから段々一〇パーセントが表面に出てまいります。最初は可愛かったが、だんだんという事を聞かないで、本当に頭の一つ位引っぱたきたくなるようになりますが、そうなって来ますと、丸い心というものが段々ひずみ歪になって来ます。その当時は四才位、子供は何でも覚えようとしております。その覚えるという事は、心の中の智性をどんどん磨いて表面意識が出てまいります。
 六才、七才、八才位になりますと、大方のものが出てまいります。そうなりますと、自分自身が此の地上界へ生れて来た目的とか信念はそっちの方へ行ってしまいます。
 いわんや、さきに生れたはずのお父さんやお母さんですら何も解らなくなって「まあ、何日の間にかこういう事になってしまったんだよ」という事になる人たちが多いのです。
 皆さまだって同じだと思います。そうして、人生の意義というものが解りませんから、その中でいろいろとある者は悩み、自分が望んで貧乏人に出て「今度こそ、確っかりやって悟って来ます」といって来たにも拘らず「お金が無い親はだらしが無い」といって、自分自身の事を棚に上げてしまいます。あるいは、お金のある人たちは何でも自分の希望通りに適うと思って、わがまま三昧をして行きます。
 ある者は、お父さんやお母さんが貧乏したり、或は学校を出なかったから、せめて子供だけには学校を出してやりたい、そして可愛い子にしてやりたい、という事で〃可愛子ちゃん〃にしてしまい、いざ本番になったら、相手の言う事を一つも聞かなくなってしまいます。
 そうして私たちが学生時代に角帽を被っていたのが、最近は鉄棒を振うようになったという事は、一体どう言う訳でしょう。
 これは人間が本当の心を忘れてしまったからです。人間があの世にいる時に、自分が生れたら何を為すべきか、という約束を思い出せば恐らくそんな事は出来ないのです。
 こうして人生を通して、中学一、二年の頃から心の中に歪を作り、感情と本能だけが芽生えてしまって、隣りの女の子や男の子が気になってまいります。十七、八才位になりますと、ブレーキがかからなくなってしまいます。いうなればハート型の心になってしまいます。そうすると、あばたもえくぼで親のいう事など聞きません。もっともっとと、やはり縁に基いて、その縁の中に各々のある縁を、まあ好い縁が得られれば良いが、悪い縁を選んで失敗する人たちがあるわけです。
 こうして人生のある時は苦しみ、ある時は喜こび、心に歪を作ってしまいますから、次元の違った世界からいかに通信しても解りません。魂の兄弟たちもたまげ魂消てしまい、その内に病気をさせます。あちらから操る気になってしまうのです。
 最近は皆お医者さんへ行って注射を一本打って治してしまいます。「これは仕様が無いなあー」とあの世の連中はあきれ返ってしまう訳です。
 あるいは、いろいろ現象を起します。夜寝ている最中いろいろと磨くんですが、気がつきません。
 生きている人間は何も解らないですから、まず病気とか怪我とか、小さいお子さんたちがいろいろ不調和な病気にかかるとか、肉体的な条件が悪いとか、こういう問題が我々の周辺に起きて来た時には、実は実在界、あの世からのその者たちに対する警告なのです。
 そこで、自分が身体が悪くなったら、どうしてこのような病気をしたんだろう、なぜだろうとその原因をよく反省して見ることが大事なのです。
 その原因は必ず、自分さえよければ良い、即ち自己保存、欲望、人の悪口ばかり言う、不平不満、怒り、そね嫉み、闘争、親の言う事を何でも反発して聞かない、自分の自我しか通さない、こういう心の状態が繰り返されている内に、実は心が曇ってまいりますから、神の光は入らなくなってしまうのです。
 その結果が、病気という現象になってまいります。そこで自分が止まって、自分自身の思っている事と、行っている事を、片寄りの無い正しい心で判断をして、間違いがあったならば、その間違いを素直に「神様、私が間違っていました。もう二度とこういう事はしません。許して下さい」と、心から詑れば即座に現象が出る事になっているのです。
 ところが、現代は末法の時代です。特に日本の場合は地獄霊が多い。うようよしております。不幸が重なると人は神信心に走りがちですが、そういう心の人々は、地獄霊が入りやすい状態をつくっています。お医者さんへ行っても治りません。そして宗教に帰依して泥沼の中へ足をつつ込んで自分が解らなくなってしまいます。
 そこで宗教は阿片だと言うのです。阿片なら禁断症状を押し進めて三ヵ月から六ヵ月位入院させれば治ってしまいます。ところが、宗教は目に見えない世界だけに、非常に危険なものです。
 それ故に私たちはその原因を八正道という正しい規準によって自分自身を反省して、間違いをどんどん修正する事が大切です。
 それには、勇気と努力が必要です。
 得てして人間というものは、他人との競争、例えばオリンピックのように、何でも勝たなければならない、といって相対の中で自分を見失うものです。競技の場合は訓練をすれば相手に勝つ事はそんなに難しい事ではありません。最も難しいのは、皆さま自身の心の欠点を修正しそれに打ち勝つ事です。それには常日頃八正道という片寄りの無い生活を続ける事です。
 その結果、己自身の欠点を打ち破る事ができ、当然心の窓が開かれて、私は不幸だ、不幸だと思っている人が、何だ、人生とはこういうものか、という事に気が付いて解ってくるのです。
 我々はこのようにして人生を通し、苦しみや悲しみも又我々自身が悟るための一つの機会を与えられている時なのです。
 我々はあの世に帰る時には、お金の価値、財産の価値、こういうものは何にもなりません。いかに豊かな、広い、丸い心を作り出して人生を有意義に送ったかという事が規準なのです。
 それ故に、まず足る事を知る事が大切です。足る事を忘れてしまうと、自分自身は貧しい人間になってしまい、益々苦しみを作って行きます。毎日の生活を通して、より豊かな心をつくる事、例えば人の嫌がる事を自分自身が率先して実行するのです。人が見ているから恥しいとか、こういう事を言ったら笑われないだろうか、という事はすでに自己保存なのです。自分が可愛いからです。
 大自然の太陽のエネルギーは総てに平等です。決して光熱費を要求しません。これに対して我々は感謝する心を表現し、実践してその恩に報いる事が大事なはずです。  
 自然が我々に光熱費を要求しない代りに、世界人類のために我々は貢献しなければならないのです。
 我々の肉体はいつの日か滅びてやがて土に変り、ある者は空中に戻ってしまいます。しかし魂は永遠なのです。皆さまの肉体と光子体(光の肉体)は同居し、それに永遠に変らない魂・意識が乗っております。これが肉体舟の船頭さんなのです。
 あの世へ帰る時にはその心の調和度が、即ち神の光の量に比例するために、皆さま自身がその行為と心の調和度に比例した世界に行く事になるのです。
 こう言う事を知ったならば、今皆さまは魂の修行をしている最中なのです。永遠の転生輪廻を繰り返している今はその時なのです。
 我々は死が総ての終りではないのです。今という時間、こういう時に皆さまが心の中に確っかりと、人生はこういうものかと勉強をする人たちはどんどん学問をし、仕事をしている人たちは働く場所に感謝してその恩を行為に示して、不平不満をいう事なく一生懸命にやった時には、皆さまの心の中には実在界の光の天使たちがより豊かな智慧を与えるのです。
 理屈ではなく、皆さまが勇気を持ってそのものを実践する事です。その時に皆さまは自らして偉大なる神の智慧が芽生えて、皆さまの心の中の潜在されている九〇パーセントの意識の紐が解かれて、あらゆる国々を転生輪廻し続けて来た皆さまの智慧が、皆さまの口を通し、あるいは態度として出て来るのです。この事実は、皆さまの周囲にも現われ初めているように、皆さまはそのような生活行為が大事です。
 二次元と三次元が連続体のように、我々の今住んでいる世界とそれを投映している四次元以降の世界とは連続体なのです。いつでも行く事が出来ます。ただそれが肉体を滅して行くか、肉体を持ったまま行くかに過ぎないのです。
 それ故に皆さまは自分自身を確っかりと見つめて、心をきれいにし、魂を高め、今迄の体験の中から間違いがあったならば、素直に自分自身の間違いを修正し、広い、豊かな、慈愛の心を皆さまが作り出す事なのです。
 このようにして毎日の生活の中に正道を活かしたならば、人生の一年は実在界における百年にも匹敵します。
 それにはまず我々自身の五体、五官を通して、目で見たものだけを絶対だと思ってはなりません。正しい中道の規準の上に立って見る事です。聞く事も又同じです。隣りの誰さんがこういう事を言った、ああ言う事をいったから機嫌を悪くした。よし仕返しをしてやろう。こういう心が芽生えた時にはすでに心は不調和になり、暗い曇りによって覆われて苦しみがやってまいります。
 相手を恨めば又自分に返って来るという事を知らねばなりません。言われたならば、なぜ自分はそのような事をいわれるのか、と一歩下って自分自身を見つめ直す事が大切です。
 人間の言葉というものは、ことだま言霊といって相手の心を刺す事も出来るのです。
 言葉一つも正しく語る事なのです。正しく語るという事は、片寄りのない中道を根本として語る事です。
 相手にこのような事を言えば、相手はこのような現象を起し、感情的になるであろう、という事が解ったならば、遠回しにあるいは時間をかけてから除々に教えてやる事が大事なのです。
 こうして我々は八正道というものを、日々の生活の中にあせらず、リラックスしてやる事です。皆さまは聖人になるために生れたのではなく、神の子として自分自身の為すべき最低のものを取得したならば、年令が過ぎるに従って偉大なる人々に変って行きます。
 聖人というのは、人間の人生の体験を通して、その結果その人の為し遂げた業績に対して、聖人と言うのです。
 皆さまは、最も人間らしく若さを失わないで、一つ一つ、一歩一歩心をより豊かにする日々の生活を送っていただきたいのであります。
 今日の講演はこれぐらいで失礼します。
posted by ゆき at 11:38 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中 道 に つ い て

 人間の正しい規準は中道という自然の条理にあります。ところが殆んどの人は、この条理が分からないために、真実を知らずに苦悩の中にあえいでいます。
 本来、信仰とは、己の心の調和をはかり、心の曇りを取除くことです。
 心の調和は、中道という自然の条理を生活の中に活かすことによって得られるもので、神の光はそうした努力に比例して与えられて来るものです。           
 ところがどうでしょう。現代の信仰は、その殆んどが他力となり、人は労せずして神の光にすがろうとしています。
 人間は生かされていると同時に、生きている生命体です。労せずして神の光を得ようとしても、それは人間の本性が許さないし、神の光も与えられるわけはないのです。
 例えば観音力についていうと、中国の天台といわれる方が、病める人々を救った林蒋という人の功績を称えて、いわゆる観音経の中に褒めて書いたものが始まりです。
 それが何時の間にか日本に伝わって来た時には、観音様を拝めば救われるんだと変ってしまい、他力信仰が生れてしまった。
 観音力のことを観自在菩薩ともいいます。観自在とは文字通り、過去・現在・未来を見通すことの出来る悟られた方という意味です。
 インドの当時、心の悟りの段階を、最初はシャーミー、サマナー、次はサロモン、アラハン、ボサター、プッタと分けていました。その中のボサター(菩薩)でもある段階にゆくと、自由自在にあらゆる諸現象を見る事の出来る悟られた方々がいるので、普通はその観自在という事が解せないために、観音菩薩を拝む事が信仰だと思い込んでしまったのです。
 観世音菩薩の観音力は、まず自分自身の心が調和されて、中道に生活行為が一致していなかったならばこれを理解する事は出来ないでしょう。
 過日高野山の研修会でもお話ししましたが、実際人間という者は、肉体を持って此の地上界へ出ますと魂の修行を忘れ、不調和な諸現象を自らが作り、自らが苦しみの奴隷の虜になり、その心を魔にゆだねてしまう。その魔に打ち勝つ事が出来ないから、不動明王、大黒天等の諸天善神が、全部協力して悟れるように導いてくれるのが密教だという風に、なっているようです。ところが密教は本当の仏教ではないのです。
 密教はもともとバラモン、ヨギストラー等がミックスされて中国に渡り、それから日本に来る間に仏教と一緒になってしまったのです。真言宗では真言を唱えれば良いのだという。あるいは 、と呼ぶ事によって救われるというのが真言宗のようです。自分の心を真黒にして行いもせずにいくら唱文しても救われるはずはありません。しかしあの世へ通じることは通じますよ。あの世へ私たちが、例えば、 といったら向うからフワーと来ます。来るけれどもその人に能力が無かったら何にもならないでしょう。例えば私たちが今強盗あるいは暴力団に囲まれたとします。お巡りさんを呼んだところで、お巡りさんが来てくれなければどうにもならない訳です。これと同じで真言という言葉で救われると思ったらとんでもない事です。
 密教を秘密の教えといってますが仏教には秘密なんかありません。仏教の般若心経の中に蜜多という言葉が出て来ますが、この蜜多と密教の密とは大違いなのです。ですから文字の上からも密教は仏教ではないのです。
 仏教の出発点は
 人間は何故生まれ
 なぜ老化するか
 なぜ病気になるか                                 
 なぜ死んで行くのか つまり一切の苦しみの原因は所謂、生老病死であり、この四つの苦しみから、まず越えることからはじまっているのです。生れなければ五体を持たないから五欲煩悩に心が支配されない。生れるから苦しみが生ずるのだし、更に生れたから年もとる。生れなければ病気もないだろうし、無常の風が一と吹き吹けば、この肉体は地上界へおいて行かなければならない。ところが此の肉体がいつの間にか仏教でも肉体こそ己なりと成ってしまったのです。
 皆さまがもし我々の神理を伝導する場合は、人間とは色心不二なんだよと、此の色心不二という事を良く説明してやる事が大事ではないでしょうか。
 人間は眠って仕舞ったならば体は自由にならない。いかに頑丈な角力取りでも馬場・猪木のようなプロレスの人でも、どうにもならないのです。そうすると我々は肉体のほかに、心――魂があって、肉体と魂は別々であり、目ざめている時は両者は、不二一体だが、眠っている時に魂だけが分離して次元の違った世界にいっているということを伝えることですね。
 色の世界は現世です。次元の違った世界という事になりますと眠った時は全く意識は次元の違った世界にいきますから、普通の人は見る事が出来ません。見る事は出来ないが存在している事は否定出来ません。色は物質、なぜ色は物質かというと、私たちの目で見るところの赤青黄、此の三原色は、混合の仕方によって何万色にも変ります。私は何時もいいますように何万色にも変るところの我々の目に写る一切の現象は総べて色彩を持っております。それによって区分が出来る訳です。
 けれどもそれも実際は七色の虹しか見る事が出来ないのです。よく私たちは虹の両極端を見る時、紫色と赤色を両極端に狭んでこの中に七色の虹があるのです。これ以外のものは私たちのこの目で見る事は出来ません。然し赤外線や紫外線の存在を何人も否定することは出来ないでしょう。之を図解で説明しますと、このようになります。
 もし私たちの目がX線であったとしたら、恐らく此の色彩は見えません。全部がいこつ骸骨です。此のように私たちの目という物は非常に不確定なのです。そこで我々は次元を越えてものを考えた時に、この現象界三次元以外にも別の世界があるという事に気がつくはずです。これが私の説いているあの世です。つまり意識・魂の世界です。次元の違った四次元以降の世界です。こうした次元のちがった世界は、我々が諸現象を通して、その生命現象を一つ一つ追いかけていっても理解することが出来ます。この地上界にはまず動的生命があります。更に又準動的生命、不動的生命があります。動的生命というのは動物です。不動的生命とは植物です。地上は動物・植物・鉱物に分かれておりまずけれども、これらのものは総べてがエネルギーが内在し、仕事を為し得る能力を持っております。
 エネルギー、つまり仕事を為し得る能力はこの物質の質量と光の積に求められます。この点については、これまで何度かお話したので省畧しますが、ともかく、三次元を投影する四次元以降多次元の世界には動・植・鉱のエネルギーの世界があり、生命が躍動しております。次元を越えた世界だからあの世へ行けば此の地上界の植物とは違って次元の違ったエネルギーいわば成長するエネルギーが非常に生き生きと安らぎのある色彩を(私が画が下手なので書く事が出来ないのが残念ですが)もっております。
 あの世、天上界とはそのような所です。ところが逆に地獄界といったら、此の地上界でいえば何時も薄暮のような環境で冷たい世界が多く、植物自身もその色彩を整えることが出来ません。黒くよどんで植物も無気味な色彩をしています。
 又、土もエネルギーの世界ですから、その物にも仕事を為し得る能力を持っていますから地獄の土は死んだようになって、生命を育む力を失っています。これは物質的次元と生命の次元の差といえます。今我々は此のような肉体を持って、魂と同居して色心不二と云う環境の中に生かされてます。肉体という舟は物質的で固体的な非常に不安定な物なのです。ところがあの世へ行くともっと調和された光という光子体を持っていますから非常に柔軟で安定しています。此の地球上は矢張り物質界である以上、原子と云う細胞、原子から構成された細胞集団によって出来ているために非常に固体的で不安定なのです。あの世とは、安定された非常に柔軟な自由な世界であり、そうしてそれぞれが動的生命といえようし、色心不二の中の特に心の分野の世界が存在しています。
 此の空界は、それぞれが魂を磨くと共に自分自身が此の環境で大調和をする。この事が本来の使命なのです。なぜかというと、この世は不安定な世界であるから、あの世の安定した世界を顕現することにあるからです。あの世では植物も話しかけているような、我々にそうゆう感じを与えてくれます。此の間の高野山の深い山の谷底のような所が、どうも地獄界を見た感じがします。昨日でしが、K氏に地獄霊を入れると、K氏がガタガタと震え始めました。それを私たちは地獄霊が憑いてる、憑依現象というのです。K氏の体に調和さしたところがそのような現象が起ってしまいます。これは当然な事なのです。こうした現象は五官だけでは分からない。我々の五官というものはそれ自体が非常に不確定不安定なものだからです。
 我々は常に肉体の船頭さんである心に、八正道という中道のフィルターを付けて正しく判断をする事、その時に人間は苦しみから自分自身が解脱出来るのです。 苦しみ悲しみは自分自身の心と行いのあり方が作っています。それを修正した時に、皆さまが弥勒菩薩どうぞ御協力下さいといった時は協力します。即座に耳元で、お前そのようなあり方ではいけませんよ、こうすべきですよという事まで教えてくれます。
 私は、講演中あらゆる質問を受けます。質問をうけても答えることが出来ます。なぜ出来るのか、指導霊や守護霊が協力してくれるから、私は皆さまに話せるのです。私たちは原稿などありません。何処へ行っても、身軽に講演をしています。ところが相手は医学者は医学の専問の分野で、質問をしてきます。科学者は科学の分野で突込んでまいります。
 私は万能ではないから、こうした質問には答えられるはずはありません。科学者にはその専門の指導霊が私にポンとはい這入って来ます。これは皆さまの中からも心の目を開く人たちが出て参りますが、その人たちは、今皆さまの普通の目で見れば高橋信次というイメージしかありませんけれども、私の意識を支配する光がポンポン飛び交うのが解ってきます。更に前進すれば、その当時の姿をした、その物ズバリの人と交替してるのが解ります。だから兎も角私たちの意識はいかに重要なものであるか、肉体に抵抗があるとこれは出来ませんよ。それ故に本当に守護霊があるかないかを自分が知りはじめてきた時には、本当に驚きです。今迄そのように頭では学問的に勉強し知っていたけれども、実際にそうゆう体験をすると身にしみて分かります。そうして心をきれいにしなければいけないということを発見すると思います。それまでは、気がつかないから、いろいろと修行の行の字を間違えてしまって、人間はいろいろのところに、暗中模索し自分を見失なってしまうのです。それだけに又宗教は阿片だという事ですね。ですから私は話せず聞えず見えないなら、拝む対象物に手を合せるなというのです。ただし神理は普遍的であるから、その神理をどこからでも突込んで見て成程という自信を持った時に、それこそ神理は光となって我々の心の中に大調和を与えて行きます。それですから我々のグループの中に、心をきれいにして実践をしている人たちの窓が開かれているという事は、素晴しいことです。
 もう既に皆さまの中から現実に霊道の開かれている方たちが沢山おります。これは皆さまだって例え喋れなくとも、霊感という感能は持っているのです。
 感能――それはその人の正しい中道の道を行じた、中道を通して一心に自分の目的に対して勇気と努力と智慧を集中させた時、始めて此の現象が正しく出てくる訳なのです。
 勇気と努力と智慧、目的に対して、例えば一つの新しい問題を研究しそれに対して一生懸命に、自分の智慧を学んで努力して、自分が決断を持って実践行動をした時に、必らず皆さまに霊感が備わります。此の場合には過去に学んでいる人たち、我々のように電気科学専門にやっていますと、私は過去ではやってませんから、指導霊が次元の違った世界から教えてくれます。此の指導霊はこの努力に比例した世界から来ます。ボンヤリしてればボンヤリした程度です。だから一つの問題でも、ポンと突込まれると五つから七つぐらいの答が出てまいります。その中の最もそのものに調和された方向に我々はその解答を選びます。これは総べて指導霊が協力してくれるからです。
 私は此の地上界に生れてより御経を学んだ事はありません。その場合協力してくれるのは、指導霊と私の過去世を通うした守護霊が協力してくれます。これは皆さまだって同じなのです。それが皆さまが自分の心の窓が開けば、アア此の人か、光なんてものではない、その物ズバリで出て参ります。生きている時のその侭の姿で教えてくれます。ここに高野山の研修会での事を二・三お話します。
 一体此処はどこだろう? と私が思いますと、ハイハイとお坊様が出て来ます。そしてデンシンボウで御座居ますという。さらにたずねて貴方は誰ですかと聞きますと熊谷直実で御座居ますという。それではお寺が有るのかなあと聞くと其処に熊谷寺がありますと解る訳ですネ。
 弘法大師も当時の事を語ってくれます。だから本当に歴史には正しい面もあるけれども、後世の人たちが大分書き加えている事がはっきりするのです。
 当時の弘法大師空海が中国に行った模様を私は聞きました。
 それによると、四隻の舟をともづな纜で一番先端には最澄が乗船し、藤原一族も中国大使として乗船した。そのうち筑紫から出て間もなく大風が吹き、ともづな纜が切れて仕舞い、四隻の船はバラバラになってしまった。最澄の方は帰ってから解ったのですが、揚子江の下流上海という所へ着き、私たちは今でいう台湾海峡からアモイの近く、フッテン省へ流されましたという。このように当時の模様をくわしく教えてくれます。そうすると私は本当か嘘か今度はいろいろと調べ始めます。たまたま弘法様の所ですから彼等の金剛峯寺へ行って伝記物の本を買って来ると大分嘘がある。第一船団に空海が乗船と書いてある。それならと比叡山延暦寺を調べると、第一船団には最澄だと書いてある。
 その当時最澄は三十七才だと云っております。このように歴史はいろいろと坊主たちの、自分の都合の良いように作成したのです。
 弘法大師が本当に神理を悟って、中国から帰って来たとしたら、恐らく先程の密教なんてものは作らなかったでしょう。
 更に又山を探し求めた時に、二匹の白黒の犬が出てきて先導し現在の高野山に、自分の修行所を求めたと書いてあります。その時に猟師を地の神と祭ったことも、これは既に弘法は悟ってない証拠です。しかし弘法自身、高野山にいて修行をし心の窓は開かれていたと自身はいいました。
 弘法自身一生女性関係はなかったのですか?と聞きましたら、私も所詮は男性でございます云々・・・何時の間にか年代が過ぎると雲の上の天上人に周囲が神格化してしまう。奥の院には弘法様の骨を祭ってあるとか、その奥の院へ入って行くと、私の目の前に真黒い玉がグルグルと飛んでるのが見えます。四、五人のお坊さんがおりましたけれど気が付かない。弘法様に後で奥の院には貴方様のお骨を拝ましてるようだが? 一体これはどういう事ですか、ときくと、自分の亡き後の骨を拝めとは一言もいっておりません。という返事がかえってくる。
 人間はそのような物に執着を持たしてしまっている。末法ともなれば此のようになるものですと、こちらは歴史上の事実を追求しますから歴史と現実がどのように間違っているか解ってしまうわけです。
 人間は尊敬の余り自分の宗祖をどうしても大事にしたいものです。正しく物を見てない証拠なのです。しかし高野山が当時の権力と結びついて仏教を中心に弘法様の名前が世の中に広まって行きました。
 修行の課程で霊視が利きますから、病気が解かります。その病気を癒してる間に当時ライ病が流行したそうです。その結果が自分もライ病になり手が全部潰れたともいわれる。だから四十代から殆んど堂に籠って外出しなかったといっておりました。
 それで本当に私に出て来たのは弘法であるか?ないか、テストをしなければなりません。顔形を見て弘法さんと解っても、人は信じません。
 たまたま高野山で寺院を持ち当時衆務総長K氏が三年前に死去しました。その方の奥様が私の講演を聞きにまいり面接致しました。見たところ御主人が横に来ております。背は一米七十四・五糎位で丸々と太った一見浅黒いお坊様、私は奥様に此の事を話しますと、私の主人ですという。
 その時、K氏は、私は精神的に非常に宗派の見苦しい環境の中で苦しみました。私は心筋硬塞で一夜の内にあの世へ帰りました。今は執着がありませんが、ただ自分の妻をかえりみるいとまがなかった・・・・・・万が一私が死んだ後お坊様たちの宿泊所でもよい、よい生活環境を作ろうという約束をしたが、それを果たす事なくお前に苦労かけて申訳ないという。お前には色々苦労ばかりかけて多くのお客様に接待するだけで、青春も老後の幸福も与えなかった、本当に申訳ない。お前には見えないだろうが何時でも側にいて協力するからうらまんでほしい。気の強い女であったが、もう少し体の方にも気をつけて医者にも見て貰ってほしい云々・・・・・・。
 ところが偶然にそのK氏は衆務総長時代に私の縁生の舟を読んでいたそうです。不思議な事です。先生の御本を読まして戴きました。先生はそうゆう事から通うして、御存知でございましょう。高野山内部の事も・・・・・・妻にもいろいろと御教導下さい。又夫婦二人だけの話しも喋って仕舞ったのです。サァ奥様信じざるを得ません。全部ですから、これで始めてアアそうかと矢張り前へ出て来たのも、弘法大師には間違いないと私は信じました。又、弘法様が、貴方様の説いてる心、私の寺の中にあります。ぜひそれらを見て欲しいといって皆さまと一緒にいろいろの国宝を一パイ陳列してある宝物殿へはい這入って行きました。
 心を中心に書いてあります。だから何んでこれだけの物が書いてありながら、人はこの心を調和する道に実践しなかったのだろう。弘法死後どうなったのですかと聞いたところ、いや私が亡くなって百二年目、すでに僧兵を作って私の神理にないものがはい這入って来たのです。そのために最後は、あの中は阿修羅界に変ってしまいました。滅後二百年でこのような現象が出るとは思いませんでした。このように弘法さんは当時の事をいろいろと、すでに天上界へ上っておりますから解ります。その張本人は誰ですかと聞いたところ、現代の名前で何とかいう宗祖だそうです。この人が鎖鎌を持って権力と組んで、最後は四十三才で殺されたようですが、一つの分派活動を起して、混乱に導いて仏教を段々変えてしまったのです。
 だから日蓮が、真言亡国といった意味がよく解ります。
 このようにあの世を通うして我々はいろいろと説明を聞いてる中に、現在我々の今の心のあり方、生活のあり方、これがいかに重大だという事が益々、身に泌みて考えざるを得ない。我々がこのようにして本当に、普遍的な魂、その中心である心を知ったならば、私が皆さまにいろいろお話しをしますこの言葉が言霊となって、皆さまの心の中に皆記録されます。テープレコーダのある人はテープに残され、ごまかせないのです。そうゆう意味からして、皆さまの場合、自信を持って、あらゆる角度から皆さまなりに理解して指導して頂きたいと思うのです。自分自身が悟ってからという事は仲々大変です。あらゆる角度から批判し、理解を深め、成る程と自分の生活の糧とすると共に、人々の心に植え付けて行くことではないでしょうか。
 人間は一生懸命に一つの根本的な物を追求し探究し実践して行きますと、必らずいろいろな苦しみから超越出来得るものです。ただ我々は今自分が本当に悟ろう!と一つの自覚が自分自身に生れたならば、執着を取る事です。この執着とは生と死についてですが死を恐れないで、捨ててしまう事が大切です。
 生きるためへの生活環境、経済、それがいろいろと精神面に出て悩み苦しみます。人間の欲望には際限がない。欲望解脱には、足る事を知った生活、八正道を通しての感謝の生活、一秒一秒に最善のベストを尽す事に、勇気と努力と智慧以外何ものもないという事です。此処で始めて報恩行為が執着解脱となる立証を各自が生活の中に密着させねばなりません。
 ゴーダマ・シッタルダーが五人の弟子と六年余りの修行半ばで、一口の牛乳の一件で別離する事になり、悟りとは自分が悟るのである、友ではない。カピラを抜け出したあの時の気持ち、光を求めた心が再び戻って来たのである。否むしろもう死んでも良い。悟るまでは死ねぬと、共に苦しみ共に扶け合って来た五人の仲間と別れた時迄抱いていたそれすらも捨てる気持ちになり、中道という、いわば片寄りのない心の物差しで三十六年間を一つ一つチェックして、悪い事は深く反省し、執着解脱によって心の悟りを得たのです。私たちも自分の心の分野を良く見て下さい。
 家庭の引っ掛り、つまり執着、肉体的・経済的な執着・・・・・、心より勇気を持って自分に足る事を知り報恩と感謝を、そして不平という自己保存を捨てて、その道に精進して下さい。そうすれば本当の悟りの境地に到達します。
 例えば聞く事も悟りの一つ。仕事をしてその中から覚えるのも悟りの一つ。悟りには大小があります。人生は一生を通じて悟りへの挑戦です。自分自身がアラハンの境地に成る事が大切です。アラハン、五百羅漢、これをアラハンといいます。非常に便利なのです。次元の違った所と話が出来ます。ただし自分の心と行いが常に正道に適った生活に努力しなければ交信は出来ません。自分が努力をしてこの分野が解らんから教えて下さいといいますと必らずヒントを与えてくれます。だから非常に便利なのです。しかし心が綺麗でなければ駄目です。
 商売上の取引・肉体的な欠陥の理由又は精神的な問題、人を導く事についても、速やかに現象が出ます。不思議でもなんでもないのです。私一人だったら脳細胞は狂ってる、おかしいといわれても仕方がないが、しかし今多くの人々が、全く同じ現象を、同じように見て話せるのですから否定出来ません。だから特定な霊的な現象が出たから、その人が偉いのではなく、そのような現象を通うして、皆さまに自信を持って貰う事が大事なのです。この自信が必らず自分自身の勉強にもなり進歩をも早めるからです。
 神理は一人一人の心のあり方に、鍵がある事を知り、私たちは相許し、相励まし、感謝し合い、正しい心を持って、正しく生きる。人生は短かいが故に大切にしなければならない。
posted by ゆき at 11:37 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

転 生 輪 廻 に つ い て

 今日は、転生輪廻についてお話をしてみたいと思います。
 まず皆さまは、このような大自然界の目に写るもの全てについて考えてみてください。
 太陽は東から昇って西へ沈んで行きます。
 今日という日は太陽が西に沈んで暮れてゆき、又明日の朝に太陽は東から昇って来ます。輪廻です。春夏秋冬、四季も又輪廻しております。
 最も極微な世界の原子も、核を中心に陰外電子が太陽系と全く変りない変化を起しながら輪廻をしております。
 皆さまの身体も又同じです。口から、動物、植物、鉱物のエネルギーを吸収し、身体の血や肉や骨になって繁殖されて行きます。血液も心臓から動脈を通してやはり輪廻しております。
 このように輪廻していないものはありません。しかも又、万生万物はいつ時としてその場所を保持する事は出来ません。
 今皆さまは、この一つ所のこの場所で私の話を聞いているかのごとく思っておりますが、地球も又実は太陽の回りを自転公転しながら輪廻を続けているのです。
 輪廻と申しましても、物質ばかりではありません。皆さま自身の肉体、この肉体を支配している意識、或は魂というものも輪廻を繰り返しているのです。
 今迄、あの世という問題に関しては、行った事がないから解らないと人々は言います。それは、この地上界という最も現象的、固体的に不安定な場所に私たちが生れてしまいますと、約九〇パーセントの意識というものが潜在してしまうからなのです。
 生まれて来る時には、一〇〇パーセント潜在しておりますが、成長するにつれて生れたその環境や教育、思想、習慣などを通して、自分自身の自我というものが芽生えてまいります。芽生え切っても殆どの人々は、一〇パーセントしか表面に意識は出てまいりません。
 それ故に、多くの人々は他力的信仰という長い歴史の中に、旧来のろうしゅう陋習を破る事なく、信仰というものはお経を上げて仏壇や神社の前で祈る事であり、それによって人間は救われる、という盲目の信仰に変ってしまいました。やはり心の一〇パーセントの表面意識なるが故に、長い歴史の中に神理というものが失われてしまったからです。
 我々のこの地球上という場は、あく迄も皆さまの転生輪廻の過程において作り出したところのカルマ、即ち生活行為の中で悪い点は改めてより豊かな心を作るのだ、という事が皆さまの生れて来た本来の目的の一つなのです。
 皆さまは、我々が住んでいるこの三次元の世界だけが全てだと思っておりますが、三次元の中にも二次元の世界があるはずです。二次元の平面の世界に写し出されている映像は、三次元から投影されているはずです。映写機によって投影された幕に写っている映像に対して、果して皆さまは語りかける事が出来るでしょうか。
 という事になれば、我々は三次元を投影している四次元以降の世界というむのを誰が否定出来るでしょう。
 これを私は、意識界といっております。それも現実に、我々は一〇パーセントの表面意識で、正しいという片寄りのない心の物指しを通して生活をしている中に、私たちの肉体からもう一人の自分がぬけ出して行く姿を、自由に観察する事が出来るのです。
 皆さまは、意識というものが輪廻転生をし続けており、肉体というものはあく迄もこの地上界に適応した物であり、ただ人生航路の乗り舟にしか過ぎないという事を悟らなくてはなりません。人生航路の乗り舟も、実は我々が次元の違ったあの世、実在界において、役所のようなところで、お父さんになる人たち、お母さんになる人たちとお互いに約束して頂いたものなのです。
 その当時(実在界)においては、皆兄弟であり、友だちであります。それは、過去何億何萬兆年転生輪廻を繰り返して来た中に、それぞれの縁によって作られているのです。特に縁の深い人たちは、両親、兄弟という環境を作ります。
 例えば、大阪の方たちが外地に移住したとしますと、「わては大阪や」といわれると自然と大阪の人たちはそのグループを作ります。あるいは又、東京方面の人たちがいると又そのような人たちが集まってまいります。「類は類を呼ぶ」といいます。あの世でも同じです。しかしあの世という次元の越えた世界には国境はありません。
 低段階の世界においては、〃日本国だ〃〃中国だ〃という国がありますが、上段階になるに従って次元が高くなるに従って、という事は、調和された世界に上るに従って、世界国家というものになっております。
 太陽系グループというのがあります。これは、アガシャー系グループとも申しまして、ゴータマ・シッタルダー(釈迦牟尼仏)、イエス・キリスト、モーゼの三人を中心としたグループです。
 勿論、他の天体にもグループがあります。 
 私たちアガシャー系グループの中には、夜、あるいは禅定中に、自分のこの肉体から抜け出して次元の越えた世界に行って自由自在に見て来る事の出来る人々がおります。
 私たちも自由に行きます。勿論この地上界の何処なりとも、我々は見て、そして聞いて、その状態を知ってくる事も出来ます。これは決して私たちの独占物ではありません。人間は皆神の子であり、その力は誰も持っているのです。ただし、自分自身の生活行為というものを正さないで、徒らに他力信仰というものに頼ってしまうと、お経でもあげていなければ調和する事もダイヤルを合わす事も出来なくなってしまいます。たとえダイヤルが合ったとしても、その人の心に比例した世界が展開されて行きます。
 そうするとどうなるでしょう。「吾こそは稲荷大明神なり」、「吾こそは龍王なり」と、そういわれると〃神の声を聞いた〃という事になりかねません。
 あるいは又、「私は先祖何代前である。子孫の者たちの不遇な生活は、そのような環境にあるワシが浮ばれないからだ」といわれると、盲目の人は解らないから、〃へへえー〃といっておがみ始めます。このようにして、そこに一つの新興宗教が出来上るのです。
 我々は、見えず、聞えず、話せないなら、そんなものを信じたらとんでもない事になります。お経を上げて救われるものではないのです。お経の内容を良く自分自身の心の糧として生活し、自分自身の心のスモッグを取る以外にないのです。スモッグがなければ、太陽が今日のようにさんさんと熱光のエネルギーを与えているように、神の偉大なる慈愛の光も次元を越えたあの世を通して、此の地上界にも到達しているのです。神はいつでも人類に全て平等に慈愛の光を与えているにもかかわらず、それを受け取らないのはその人々の心と行いの不調和にあるのです。心の公害にかかっているのです。それを私たちは次元の越えた世界から眺めておりますと、全部解ってしまいます。
 例えば、あの世から見ますと、皆さまの現在の姿がそのまま投影して見る事が出来ます。嘘はつけません。人間は自分の心に嘘がつけないという事は、神の子としてのあかし証なのです。
 嘘をつくという事は、もうすでに自分自身に都合が悪いからです。怒るという心も又同じです。自己保存です。自我我欲です。
 大自然界を眺めて下さい。万生万物全てが相互関係を保って調和されているではありませんか。その姿一つを見ても、我々の自己保存が、自我我欲が、その調和をさまたげる事は明白です。
 現代社会における多くの歪は、その社会を調和し、うるおいを与える正しい法則が失われてしまったからなのです。即ち、心の物差しがなくなってしまったからなのです。このように人心の混乱した時を末法といいます。
 その結果、現代社会の不調和な諸現象を御覧なさい。日本においてもアメリカにおいても、物質経済を中心に自由主義を謳歌していますが、その根本にあるものは金権資本主義で、金さえあれば人はどうでもということです。逆に共産主義の世界、マルクス主義の世界は独裁政治です。自分自身が都合の良い天国の座を占めるためには、今日の友は明日の人民の裏切り者です。団結という美名のもとに、闘争と破壊を繰り返しております。このようなものが、果して神理でしょうか。
 そうではありません。なぜ実在界、あの世においてこんなマルクス主義を発展させねばならなかったかという事を皆さまにご説明しましょう。人類がこの地上界に出た当時は、皆平等な調和された社会だったのです。我々は二億年前、他の天体から此の地球上という場を仏国土にするために出てまいりました。その当時は約六千萬人で完全なユートピアでした。しかしその間に地球は多くの天変地変を体験して来ております。出て来た当時の人類というものは、皆神の子、仏の子という自覚を持っておりました。我々は何処にいっても、次元を越えた世界を総て知る事が出来たのです。しかし、子孫が増えるに従って地獄を構成して行きます。それが結果的に自己保存を作り出して、自分自身のグループを作って他から他を排撃するようになって行きます。そこに、争いというものが作り出され、心に曇りが生じてしまったために、偉大なる神の光を閉ざしてしまったのです。こうして、ムー大陸、あるいはアトランティス大陸にしても、この地球上は幾度かの大きな天変地変を体験して来ました。
 しかしそのような人類の文明の進化に従って、豪族という一つの種族は武将を産み、武将は何時の間にか自分自身の力を確立するために酷しい封建社会を作り、インドのごときは、きびしいカースト制度、日本においては、士農工商、各々が自分の立場を守るための階級制度を作って行ったのです。
 そして武力の時代においては、武力によって住民を指導、支配する事が出来ますが、これはあく迄人間の肉体の活動範囲しか制約する事が出来ないのです。心まで支配する事が出来ないために、日本においては、一向一揆などが起こりますが、こうした権力に対する反抗も武力によって成敗されてしまうから、皆途中で砕けてしまいます。               
 こうして丁度千七百九十八年、オーギュスト・コントという人を実在界から出します。彼はナポレオンの全盛時代において、酷しい社会制度の中で九五パーセントから成る底辺の階級が常に犠牲になっているのを見て、果してこれで良いのだろうか、と疑問を持ちます。そして、初めてここで社会実証哲学というものを発表します。この人は技術家です。電気工学を修業した方で、世の中の矛盾というものをつきとめます。更に続いて千八百二十年には、ハーバード・スペンサーという人をイギリスに出します。彼も又、社会有機体説というものを作り、社会の矛盾を突いてゆきます。
 こうして、カール・マルクスも又光の天使として出て来たのです。僅か五パーセントの貴族や僧侶、あるいの権力者によって、九五パーセントの人々が奴隷になっている。こういう社会を修正するために、実在界ではこういう手を打たなければならなかったのです。
 人々の、大衆というものの調和、人類は皆兄弟だ、という事を自覚させるためだったのです。だから、マルクスだって決して神はいけないとはいっておりません。後の人がそれを神格化していつの間にか闘争と破壊が武器のようになっているけれども、権力や武力によって人間の心は支配出来ないという事です。現代社会における思想、即ち資本主義も社会主義も共産主義も心を完全に失ってしまい、物質と経済の奴隷への道を歩んでいるのです。その結果が、今日の混乱した社会であり、しかも又心は当然失われているから、益々混乱に拍車をかけているのです。これも各々が、そのような環境を人間のカルマによって作り出してしまったからです。
 こうして我々は転生輪廻の過程の中に、ようやくのこ地上界は地球国家という陽差しが生れて来るのです。今から百八十一年後になりますと、此の地上界は一つの大きな転換期を迎えて、人類は平和な共存をせざるを得ない調和された環境が作り出されて行きます。今我々はその基盤をきづく目的と使命をもっているのです。
 人間というものは、あの世からこの地上界に出て来る時には誰も皆神の子として、広く、豊かな、丸い、大きな心で生れてきたのであります。あの世では、銭の勘定なんて全く関係ありません。日本の一萬円札を持って行ってもあの世では通用しません。いわんや、ドル弗を持っていっても〃ドウ〃にもなりません。そして、人間の地位や名誉や経済、家柄も同じく、あの世では一つも通用しません。金持に生れたからといって、その人が特別にあの世から金・銀・銅を持って来たのならいざ知らず、同じ〃きん〃でも違うはずです。人間は真裸で生れて来ているのです。死ぬ時も同じです。 我々は、丸い心の環境の中に、何時の間にか自己保存というものが育って来て、心の中にひずみを作り人生に疑問を持ち始めます。その結果、神様があるのではなかろうか、ひとつ他力でもやってみようか、あるいは拝んでみようか、という所へ到達します。それは総て、皆さまが神の子として悟るための一つの環境なのです。
 そういう環境を我々は無駄にして、おかしな信仰に盲信し、自分を益々泥沼の中へ突っこんでしまうのです。信仰というものは、そんなものではありません。
 皆さまは、その丸い心を更に豊かにすると共に、神の身体である大宇宙の中の細胞の、ほんの小さな部分にしか過ぎないこの地球という場を、万物の霊長として、心と心の調和のとれた平和なユートピアにするという事が、生れて来た目的と使命である事を知らなければなりません。
 それを歴史はいつの間にか先祖代々、これは俺の国だ、これは俺の土地だ、といって勝手に占拠してしまいました。占拠した所であの世に帰る時は何も持っては行けないのです。それどころか、もしそれに執着を持ってしまえば、その場所は地獄界です。よく世の中に墓相というものがあって、お墓を作る時こういうお墓が良いんだとか、お墓の石塔の頭が欠けていると先祖がこうで、残されている者はこうなるんだ、とかいろいろな事をいう人がおります。ところが、実は(金)もあるのです。なぜならば、執着を持っている人たちはその場所を地獄界とするからです。長い歴史の中の習慣というものは恐ろしいものです。あの世へ帰っても、正しいという心の規準がないために、そういう世界で生活して地獄界を展開しております。我々は度々お墓へ行きますと、地獄に落ちた霊たちが墓を持ったまま、〃救って下さい〃と手を出している者や、首から上を出している者や、足を半分出している者たちがたくさんいるのを見て来ます。
 それは皆自分自身の心の執着を持って、この世に対する去り難い心がそのような世界を展開しているのです。大体が、お寺とか、神社とか、仏閣に執着を持って死んで行った人は、間違いなく地獄界です。本来は、次元の違った調和された世界に帰るのが本当の姿でありますのに、恨み、妬み、謗り、自分さえ良ければよい、あるいは自己保存、自我我欲という不調和な想念と行為によって、自らの手で偉大なる神の光を遮り、広く、豊かな、丸い、大きな心をいびつにし、多くの苦しみを作ってしまうからです。
 あの世の世界は、その人の心に比例した光の世界です。下の方の低次元の人々は、上の光の世界に行く事は出来ません。まず、イエス・キリストやモーゼたちが地獄界へ行ったら太陽と同じです。光で輝いて見ることが出来ません。皆さまの中にも心の窓が開かれている人たちが出てまいりますと、その姿をはっきりと確認する事が出来ます。
 あの世とこの世は〃ア〃と〃コ〃の違いで裏表です。遠いようで近いものです。何時でも行ける世界です。我々はこうして次元の違った世界から、各々の深い縁によって、お父さん、お母さんを選んで出て来ているのに、親不孝をし不調和な諸現象を作って苦しんでいる人たちがいっぱいおります。 そして、金持、貧乏人、こういうものは実はあの世では関係ありません。貧乏の中に生れた人たちは〃よし、私は今度は最も厳しい貧乏人の中に生れて、その中で自分自身を悟って多くの人々を救って来よう〃、そう思って出て来ている人たちがほとんどなのです。ところが生れてしまうと、親を恨んだり、世間を恨んだりして自分自身の心まで貧しくしてしまいます。こういう姿であってはならないのです。
 反対に経済的環境に恵まれた人たちは、自分自身を優雅に装い、そして人々に対しても優越感を持って自分自身を誇張します。実はこれが苦しみなのです。ですから、過去世において王様だの貴族の生活をして地獄に落ち込んだ連中は、絶対に貧乏人に生れて来ます。今度は酷しい環境の中で自分自身を悟ろうとして出てくるのですが又その苦しみの中で失敗してしまいます。
 ですから人間の作った制度の中の地位や名誉があるからその人が偉いのではありません。本当の人格とは、経済をはじめ全ての執着から離れて人々のために心から尽せる、豊かな、丸い、広い心の人たちこそ、真の偉大なる人格者です。我々はこういう事をしっかり考えたならば、人それぞれ自らの環境の中で、自分自身がより広い、より豊かな心を持って人々のために尽し、そして自分自身常におご驕る事なく執着から離れた日々の生活をした時に、人間は皆神の子だという事を発見するのです。それは決してお経などをよんで悟れるものではないのです。
 皆さまは、果して経文というものの成立ちを知っているでしょうか。いわんや、この中には念仏宗をやっている人たちもおります。あるいは南無妙法蓮華経を拝んでいる人たちもおります。何とか宗とかいう、ドンツクドンツク太鼓をたたいている人たちもおります。己の心を忘れ、神の子としての自覚を忘れて他力を求める。そういう人たちはひょうい憑依されてしまいます。皆さまの心はごまかせないのです。
 殆どが、身体の状態を見れば、即座にその人々の心の状態が解るのです。皆さまのそれぞれの意識の中には、テープレコーダーと同じように、転生輪廻の全てを記録している九〇パーセントの偉大なる智慧があるのです。この九〇パーセントの中には、今迄の体験された人生航路の全てが記録されております。
 これをあの世へ帰って、皆さまは自分自身の嘘のつけない善なる心で裁くのです。みせかけだけで形だけでやっている人たちは、それは全て偽善である事を知らねばなりません。みせかけなどはどうでも良いのです。人が見ていようが、見ていまいが、真実自分自身に正しい片寄りのない心の物差しを持って生活し、人のために尽す行為、これを実践した人たちは執着はなく、そして心というものは丸く、広く、豊かなものなのです。我々は外見にとらわれてはならないという事なのです。
 皆さまは己自身、心からして真実なものをよく知らなくてはなりません。人間の大脳皮質というものは、物を記憶する装置ではないのです。その理由は、皆さまが眠ってしまった時には鼻の穴も立派に開いております。蓄脳症の人は別です。耳の穴もちゃんと開いております。しかし、眠ってしまったらどこが記憶しているのですか。ある脳外科の先生は「人間の脳細胞の中には皆引き出しが入っておって、その中に総て記憶されておるんだ」といっておりました。そしてその先生に私は聞きました。「その引出しはどのように出来ているんですか」と、すると「それは良く解らない。想像ですがね・・・・・」その想像を一般大衆が信じてしまうのです。とんでもない話です。
 皆さま自身の肉体は、客観的にとらえ得た記憶装置にしか過ぎないのです。
 まず皆さま自身の五官を通して感じ得たもの、例えば眼で見たものは、視覚神経を通して大脳皮質の神経繊維に脳波という電気的振動が起ります。その電気的振動が皆さまの肉体舟の船頭さんである意識、もう一人の自分に記録されて行くのです。これは総てキャッチしております。それが皆さまの転生輪廻の総てを記録しているのです。
 九〇パーセントの意識、これをインドの当時は〃パニヤーパラミター〃といっておりました。〃内在された偉大な智慧〃ともいいますが、これを紐解くにはどのようにしたらよいか、それを私が説いているのです。
 霊感を呼ぶのではないのです。
 自分自身の思う事と行う事が調和された真実の片寄りのない生活行為の中にこそ、それを紐解く事が出来るのです。此の時に皆さまが転生輪廻を繰り返して来た偉大なテープレコーダーのスイッチを、あるいはビデオテープのスイッチを、皆さま自身が入れる事が出来るのです。こうなりますと、我々は自分の今思っている事と行っている事、その姿こそ過去からの自分の姿だという事を悟るのです。真の信心というものは、己の心の善なる道を信じ行う事なのです。 
 それを特に日本においては、今から百年程前仏教と神道に分けてしまい、そして神道は国家の守護を受けて日本を神国にしてしまいました。昨日の方の質問ではありませんが、日本は神国であり、その神国に神の道を説く人々が出るのだ、という事を言っておりました。残念な事に、日本ばかり太陽が照っているのではありません。地球全てが神国です。人類は皆兄弟なのです。黄色人種、白色、黒色の違いも、彼等の自然の環境に適応した場所を神は与えたのです。舟は変っても、乗っている各々の人格は変っていないのです。
 このように、普遍的な意識というものは、又眠っている時に次元を越えてあの世に行ってる場合もあります。あるいは過去世は、かって何処何処で生れ、このような環境だったという事で行ってる場所もあります。それに我々が心を調和してあの世に行く場合、途中迄ついて来る人たちもあります。あるいは、夢という現象になって現われている場合もあります。それですから眼が覚めてみると、あっちも、こっちも途切れ途切れの所しか解らなくなってしまいます。
 それが今の一〇パーセントのこの眼で、この耳で、見て聞いて来る能力が出来るようになった時に我々はも早や次元の違った世界、あの世というものの存在を否定する事が出来ないのであります。
 今迄、頭の中や口先で、本に書いてあるものだけを見て、それを信じておりました。しかし我々は今、この時からそれを卒業しなければなりません。まず正しい片寄りの無い神理、八正道の根本というものを、己自身の心の物差しとして生活する事が第一なのです。
 その行が積み重ねられた時に、皆さまは初めて己自身を悟り得るのです。
 我々は先祖を拝めば救われると思っておりますが、先日の人は一生懸命に白龍という龍神を拝めば救われるといい乍ら、自分の身体はがたがたです。ある大きな会社の社長です。こういうような人たちも盲なのです。先祖を拝んで救われるものではないのです。皆さまは、この辺から大きな間違いを犯しております。先祖は肉体の舟の提供者です。こちらから頼んでそれを頂いたのです。その肉体先祖に感謝し一番供養になる事は、己自身が健康である事です。
 舟を頂いたのです。魂まで頂いたのではないのです。本当に親が魂までくれたとしたら、お父さんの思っている事も、子供の思っている事も、お互いにちゃんと解らなければならないはずです。解らないというのは、そこに問題があるのです。
 肉体を頂いた事に対する感謝の心で、親孝行する事は当然の道です。それも出来ないような人々がたくさんおります。先祖を拝む前に一番大切な事は、健康でありそして心が豊かであり、家庭の中がいつも、オホホ、アハハと笑える生活の出来る環境を作る事です。その時、おのづから皆さまの家庭の中には曇りがないために、神の光によって満たされ、平和な、調和された環境が作り出されて来るのです。
 それを拝み屋に聞くと「お前の家の先祖の四代前がそのようにして、このようになった。この人が浮ばれていないから二十一日間一心に祈れば救われる」といいます。冗談じゃありません。地獄に落ちる責任は、他人事でなく己自身の想念と行為にあったのです。心です。心の曇りがあるから、自分自身地獄に落ちて行くのです。
 こういう先祖に対して、わけの解らぬ南無阿弥陀仏を唱えたところで、あるいは南無妙法蓮華経を唱えたところで救われると思いますか。とんでもない事です。
 そもそも「南無妙法蓮華経」とは、今から二千五百有余年前、ヒマラヤの地において、ゴーダマ・シッタルダーの説かれた神理の一片にしか過ぎないのです。
 彼は七十代の時に「諸々のびく比丘、びくに比丘尼たちよ、このハスの池を御覧なさい。あの泥沼の中から美しい花が咲くではないか。お前たちの身体は一体どうだ。眼から眼糞、あるいは鼻糞、耳糞、身体から出るものは何一つとしてきれいな物はないであろう。この汚ない肉体は、あの泥沼とひとつも変ってはいないのだ。あの美しいハスの花も又あの泥沼の中から咲いているのだ。諸々の比丘、比丘尼たちよ、そなたちもこのような汚ない無常なる肉体というものに執着を持ってはならん。その肉体の船頭さんである心が、真に正しい片寄りのない中道の物差しを持って生活したならば、自らしてあのやすらぎのあるハスの花と同じように調和されて行くのだ」という事を説きました。
 これが、二千五百有余年過ぎますと、「南無妙法蓮華経」と、日蓮は余分に〃南無〃までくっつけてしまいました。〃南無阿弥陀仏〃を拝み、又〃南無妙法蓮華経〃をつき合わすれば人間は救われるというのもあります。ナンセンスです。それによって救われるのではないのです。我々は、この汚ない自分自身の肉体であうとも、神理を通した正しい片寄りのない法というものを心の物差しとして生活をした時に、本当のあの美しい仏の境地に到達するという道を教えたものです。
 このためには「止観」、止まって見る事が大事です。
 我々人間は一〇パーセントの表面意識で人生航路を歩んで行くために、多くの間違いを犯してしまいます。間違いは、間遣いであってよいのです。「過ちは改まるにはばか憚る事なかれ」です。
 自分自身の心を、片寄りのない正しい心の物差しでみつめ、間違いがあったならば素直にその間違いを訂正して、「神よ、私の罪を許して下さい。ここを間違いました。原因はこれこれこういう訳です。今度は絶対にこの間違いは犯しません」という反省、即ち止まって見ることが必要なのです。止まって反省した時に、皆さま自身の心の曇りは晴れて行くのです。
 それを、人々はいろいろと病気をしたり、経済的に不調和になると、ワラをもつかむ気持ちになって〃どこかで拝んで貰えば救われる〃とか、〃どこかの宗教に入れば救われる〃となる。これはとんでもない事です。なぜならぱ、そのような原因がどこにあったか、という事を追求する事が一番重要であるからです。
 〃なぜ、病気になったのか〃、〃なぜ、経済的に不調和になったのか〃。その原因はどこにあったのか。その根っ子を取らない限り、又同じ間違いを犯してしまいます。他力によって人間は救われないという事です。自力の中にこそ、はじめて他力が得られるのです。
 それ故に大事なのは、人間として為さねばならない最低の行い〃八正道〃を実践する事なのです。 例えば、正しく見るという事は、片寄って見るな、という事です。自分だけを中心にして見てはいけないという事なのです。万生万物は相互関係にあってこそ安定しているのです。自分を中心にするより、まず相手の気持になってみる事です。それから自分自身の行動に移すことです。                                  二四二
 正しく聞くという事も同じです。
 他人様から色々酷しく中傷を受ければ、すぐに人間は〃カッー〃となって、心の中の感情の分野に大きなイビツを作り、理性を失ってしまって自己保存になってしまいます。それ故に、そういう場合には、なぜそのような事をいわれるのか、自分のどこにその原因があるのか、という事をしっかりと見極めてから正しく行動を取る事が大事です。
 世の中には〃悪い事を聞いたら、ただ耐え忍んで、口惜しいけどじっと我慢をしてるのが賢明だ〃という人々が多いようです。殊に、嫁と姑の中によくあります。顔でニッコリ笑って、心の中では〃このクソババー、早く死んでくれれば良いのに〃と思っております。そのような家庭は必ず病気の原因を作ります。
 我慢する前に、自分自身の心の中に、例えば見たり、聞いたりしたことを、片寄らない八正道という中道の物差しで正しく判断して、余分なものは詰め込まないことが大切です。
 不必要なものを、右から左へ出して行くことです。そして機嫌の好い時にお互いに話合うのです。相手が感情的になられている時には、まず、一旦受け止めてその意見をよく聞き、自分は感情を出さず正しく相手の気持になって判断したならば、〃ああ、気の毒な人だ。神よ、どうぞこの方に光をお与え下さい、やすらぎをお与え下さい。〃と心の中で相手のために祈ってやることです。 人間の心というものは一念三千です。無限に広いものなのです。終りもなければ、始まりもないのです。この心の中の針は、皆さんの眼や耳や鼻や口という五官を通して三六〇度自由に動いております。
 恨みの心を思えば、即座に恨みの世界へ針は通じ心は暗い世界に行きます。病気、あるいはあらゆる精神的悩みという場合には、その人の心の針の修正が必要な一つのチャンスを与えられているということです。その時にこそ、なぜ、どうして、とその原因を追求して悪の根っ子を取り去ることが大切なのです。
 それを何時の間にか〃仏教はお経を上げさえずれば救われるんだ〃という風に変ってしまいました。とんでもない話です。インドの当時は、そんな事をひとつも教えていなかったはずです。 特に日本の場合は変ってしまいました。お坊さんたちは檀家の上にあぐら胡座をかいて生活し、仏教は観光仏教、葬式仏教に変り、何も解らなくなってしまいました。あの世でも行って、エンマ様か何んかにあって、力を得てくれば考える事も変るけれども、末法の心ですからとうていそんな所へ行けません。
 本来仏教というものは〃プター・ストラー〃といい、〃悟りへの道の教え〃なのです。いわば〃パラ・ミタ〃という〃内在された偉大な智慧〃に到達する道なのです。決して、お経をあげよ、拝めなんてことはいっていないのです。
 大体お経というものは、ゴーダマ・シッタルダーが四十五年間説いた〃人々を救済する道〃を、ゴーダマ・シッタルダーの死後九十日目、マガダ国の東北東にあるベルベーナーという竹林精舎の裏の洞窟の中で、マーハー・カシャパーといわれるナーランダから来た仏弟子を中心として、約四百数十人の人たちが、それぞれの四十五年間に説かれたものを、お互いに「私はこのようなことを聞きました」、「私はこのように聞きました」という事を暗記して、あのインドの各地に散らばって行ったのです。
 それを、紀元前二世紀アショカ王の時代に、口から伝えられたものを一部のバラモンから来られたグループが、文字に残されたのです。これが中国に渡って非常に哲学化され、語句だけを知っただけでも、大変な難しい問題になって来ました。
 今私のいってる〃一念三千〃というのも、こういう難かしいものに合わしたものです。三千というのは、割り切れない無限に広い、という意味で、仏典では〃三千大千世界〃といっております。無限に広い大宇宙の事を、こういう言葉で表わしておったのです。そのように難かしく説かれてしまうから、心のあり方を知る前に、その語句の意味を知る事だけでも大変だったのです。
 よく観自在菩薩と経文の中にありますが、実はこれはインドの当時のバラモンのウパニシャードといわれた中に書かれている文字なのです。アボロキティ・シュバラーといっています。
 シュバラーというのは、悟ったという意味です。バラモン教の一つの言葉です。アボロキティ・シュバラー・ボサターというのは、あらゆる過去、現在、未来の総てを見通す事の出来る悟られた方をいうのです。
 ところが日本の般若心経の解説を見ると、わざわざ観自在菩薩を観音様だといってます。冗談じゃありません。観音様というのは、あの世におりますが、アボロキティ・シュバラーは決して観音様ばかりではありません。読んで字の如く、ゴーンという鐘の波動やお経の波動に乗って、過去、現在、未来を自由に見て来る事を観音力といい、こういう能力のある悟られた方を観音様といったのです。それをいつの間にか偶像崇拝になって、一生懸命に拝んでおれば、人間は欲望にきりがありませんから、一念三千の心の暗い方向へ行ってしまいますと、動物霊たちが「私は観世音菩薩だ」なんて威張って出て来ます。あの世の光の天使たちが、人間を通して威張って出て来たら、一〇〇パーセントこんなのはインチキです。
 菩薩だとか如来といわれる光の上段階の指導霊たちは、そのように正しい心と調和されておる人たち以外には出て来ません。
 いわんや龍王などと威張って出て来るのは動物霊に決っているのです。
 皆さまの中からもすでに心の窓が開かれている人たちがいますが、そういう人たちは即座にそれを見抜いてしまいます。皆さまもやがてそのような力を次々と持つようになります。日本ばかりではありません。GLAという名前に拘らず、正しい片寄りのない中道の道を実践した光の天使たちの心の窓は、全世界に次々と開いて行くのです。
 その時に人々は、現代社会の歪を各々が直さなければならないということに気がつくのです。そして決して他力ではなく自力で実践してこそ、偉大なる神の光は与えられるのだということを知ります。
 神様をいくら拝んでも無駄です。拝む前に自分の心の曇りを払う事が一番重要なのです。その時に初めて、皆さまの心は偉大なる神の光によって満たされ、皆さまの魂の兄弟たちがあの世から協力てくれます。
 この地上界に出て、最も不調和な環境の中で悩み、苦しんで自分を悟りあの世へ行きますと、これは大変なことです。
 調和された人々の心の窓が開かれますと、天上界のこのグループにはその分野がビカッーと明るくなります。そのために、今度は何処何処で悟った人が出て今こういうようにやっている、という事が次々とあの世では解ってしまうのです。そうすると大変です。イエス様の系統のグループの人たちは、すぐパーティというのをやります。
 そして指導霊たちは急がしく動き初め、神なる偉大な智慧を与えその人に協力するのです。そのために奇蹟が起るのは当然のことで、奇蹟でもなんでもないのです。動物霊などが拝んで病気を治すなんて事とは全然ちがいます。もっともっといろいろな奇蹟が起ってまいります。それも総て自分の力ではないのです。次元を越えた世界から、偉大な光の天使たちの協力があればこそ出来るのです。それは善なる己の心の向上に比例した世界から、我々の口を通し或は又霊的な現象を通して、皆さまの前に我々の人生の偉大なる価値を教えて行くのです。
 しかし何時迄も悟らない人たち―自我我欲、自己保存に明け暮れて、自分の本能に自分自身を埋没している人たち―の場合には、あの世から見ている皆さまの魂の兄弟たちは大変です。あの世で一生懸命に操っているのが、肉体を持っている者が勝手に意識を持ってとんでもない所へ行ってしまいますから、アラアラという間に見失ってしまって暗い曇りに覆われて、不調和な地獄霊に支配されてしまいます。
 我々の住んでいるこの酷しい現象界というものは、地獄と極楽がミックスされております。このミックスされてる世界だけに、私たちは善なる魂、片寄りのない正しい判断の心と行いが大事なのです。                               二四八
 こうして皆様は転生輪廻の過程において、今最も厳しい地球上の環境の中で修行の過程にあるのです。転生輪廻の永遠の生命として、皆さんは今あるのです。今自分自身が置かれている場所が、自分の魂をより豊かにする環境であるということです。それを確っかりと知ったならば、この世から去る前に一切の執着から離れて、次元の違った実在の世界に帰ることです。
 神や仏を信ずる事なく、自我我欲、自己保存に明け暮れて此の地上界を去った人たちは、そのまま真暗な世界えストンと落ち込んでしまいます。それが百年、二百年、三百年です。そして争いばかりしてこの地上界を去った連中は、阿修羅界という同じような類の最も酷しい地獄界において修行させられます。その場所でも彼等は〃なぜ人間はこのような争いばかりしなければならないのか〃という善なる神の心が芽生えて来た時に、彼等の心に神の光が入り、やがて彼等は自覚をするのです。〃自分の今置かれている環境は、地獄界である。自分が現象界においてなしたその行為によって地獄に落ちたんだと気付きその罪の償いを彼等はします。そうすれば自ら又神の心をよみがえ甦らせて光明に満たされるから彼等はその場所を去って又新しい光の世界へ進化して行くのです。
 皆さまは全て天上界の上段階から、丸い、豊かな心を持って肉体を持った人たちです。決して地獄界から人間は生れる事が出来ないのです。誰もが、仏教的に云えば幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界という、いわば次元を越えて四次元、五次元、六次元、七次元の高次元から、皆神の子としての自覚を持って生れて来たのです。
 そして、自分の生れた環境の中にベストを尽し、片寄りのない人生を送って多くの人々を救って来ますという約束を、皆さんは果さなければならないのです。この時に皆さまの心は豊かに、そして皆さまの魂の兄弟は皆さまに調和とやすらぎの道を与えてくれるのです。こういう事実を、私たちは転生輪廻の過程に記憶しているのです。私は一萬二千年前、アトランティス帝国に生れました。その当時の社会情勢というものも全て知っております。当時の言葉も知っております。そして、その後私はアフリカのナイル帝国に逃れてまいりました。アトランティスが陥没した時です。ナイル帝国の一端のピラミッドが、やがて我々の手によって発見されます。その中には、我々の残したものが発見されます。そして、その当時の人たちも今此の中に何人か出ております。                  
 東京にも、またアメリカにも、エジプトにも出ているのです。我々はその人たちと交信をしております。
 皆さまは、信じると信じざるとにかかわらず、人間の生命は永遠の中に、今も又その環境を克服し、より豊かな心を作るための修行の過程だということを認識すべきです。
posted by ゆき at 11:36 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

諸 法 無 我 (宇宙の心理)

 しょほう諸法むが無我という仏教の言葉がありますが、この意味は、こういうことです。まず、この大宇宙は不変的な「法」、つまり正しい秩序にもとづいて、永久運動をつづけています。たとえば、地球は太陽の周囲を三百六十五日と四分の一という時間をかけて正確に動いています。また、地上の水は高きより低きに流れるのも同じ理屈です。つまり、こうした自然の秩序というものは、永遠に変えることの出来ない法にもとづいているわけです。
 そうして、さまざまな秩序、つまり、諸法は、すべて神の意という統一された心を中心に成り立っているので、これを無我という言葉で表現したのです。無我というと、自分がない、あるいは他力的な意味合いに受け取られるようですが、この無我は、万生万物を生かしつづける慈愛をいうのであり、人間のしい恣意が入りこむ余地のないものなので、こうした表現になったわけです。
 もし仮りに、宇宙の秩序に人間の表面的な感情、本能、知識などが入って変えられるとしたら、大宇宙の整然とした秩序ははかい破壊されてしまう。宇宙の秩序はそうしたもので変えることの出来ないもの、不変的なものであり、そこで、諸法は無我であるというわけです。
 人間がこの境地に立った時、真に、安らぎある自分を発見し、諸法無我を体験することができるものです。
 さて、そこで私たちがこの地上界に生れてきた目的と使命は、諸法無我の通り、左右に片寄らない中道の真理、大自然の姿がそれを教えてくれています。決して難かしい経文や或は、祈りの中にあるのではありません。人間はこの地上界に出てしまうと意識というものは僅かに一〇パーセントしか表面に出ておりません。皆さまの転生輪廻をくり返してきたところの偉大なる智慧は九〇パーセント潜在され、それはちょうどテープ・レコーダーやビデオテープと同じように全部意識の中に記録されています。
 私たちは長い歴史を通して、現在の神信仰、仏の信仰という形が一般に習慣づけられてきました。
 その神とは一体なんでしょうか。ほとんどの人々は人間の作り出した糸へんの紙や、偶像を作って祈ることが、あたかも信仰しているがごとくさっかく錯覚しております。こういうものは神ではありません。真の神というものは我々の住んでいるこの地球上の一切の諸現象を支配しているところの根本のものが神であります。まず星空を眺めた時に、頭上にはあらゆる自然が展開されております。我々の住んでいるところの太陽系、この地球という環境を含めてぼう大なこうせい恒星やわくせい惑星、えいせい衛星を通して一定のリズムをもって循環を繰り返しております。また、太陽の熱・光のエネルギーにより、大海、湖沼、河川等々七一パーセントからなる地球すいけん水圏から、その水分はじょうはつ蒸発して雲となり、雨となる円運動を常にくり返しております。それは万生万物を育ぐくむ慈雨となり、ある時には大地の汚れたものを洗い流して美くしくしたり、中道をはずれた私たち人間の生活の知恵で作り出したスモッグ、この公害も綺麗に流してくれます。そうした自然のばく莫大なる熱・光のエネルギーというものが、神の心の現れとして、すべて無償で万生万物に与えているのです。この大宇宙、太陽系を含めて銀河系宇宙、他の天体も、すべて、これが神の体の一部分であるということです。人間はこの地球上に住んでいるわけですが、この地球というものも、大宇宙から見たならば、けんびきょう顕微鏡で見てもわからないような存在です。その中に住んでいる人間はそれこそカビかバイ菌のようなものです。その人間が争いと斗争をくり返して、神の体の中を混乱させているのが現状です。
 私たちはこの地球上という場に出てしまうと、みなめくら盲になってしまいます。皆さまもこの地球上という三次元的な世界に住んでいるつもりですが、眠っている時は、ほとんどの人々が次元の越えた世界で生活しているわけです。それが眠ってしまうと、わからなくなるというのは、肉体から抜け出した私たちの意識は九〇パーセントになってしまい、今まで苦しみ、悲しみなどの諸現象を通して自分が体験した事も、実はみな忘れるようになっているのです。
 肉体にもどれば、又今までの苦しみが戻ってまいります。そこで、我々は神の体の中にあるところの神の子だということを自覚せねばならないのです。私たちは万物の霊長として神の子としての一切の権限を与えられ、この地球上の支配を依頼されている本当の自分自身というものを忘れ去って、長い歴史の中に習慣づけられた他力本願によって、神と対話出来ぬようになってしまったのです。
 公害問題にしても、人間がよりよい生活をしょうと研究努力したはずのものが、その物質文明にげんわく眩惑されて、人間の本当の目的と使命を忘れ去って私利私欲に走るからであります。この大自然を毒する公害もさることながら、それ以上に一番恐ろしいのは人間の心の中に作っている公害です。この公害が即ち神の子としての本性を失ない、人生の目的と使命を忘れ去ってしまった時から、人間の心は外に向けて物質文明のどれい奴隷になり下ってしまいました。なぜなら現代社会における労使の争いにしても、家庭の不調和にしても、親子の断絶、学生と先生の不調和にしても、すべてが人間の心不在というところに起因するのです。
 我々は物質文明のための人間ではなく、物質文明をいかにくし駆使して、より豊かな心と、より調和された環境を作るかということに人間の目的と使命があるのです。その努力が人生というものに対する偉大なる価値を悟って、皆さん一人一人が偉大なる神の子だということを知って行くのです。先ず自然を見て下さい。自然のせつり摂理というものは、人間の知恵によって変えられないものです。その自然の摂理、法則というものを我々の生活の中に導入して自分自身の豊かな心を作り上げてゆくこと、それには先ず正しいという人間の心の規準が必要です。その規準を失なってしまった時から、混乱した社会が訪れてくるのです。
 スモッグのかかった大自然はあらゆる公害を生んでおります。それと同じように自分の心に曇りを作った時から、偉大なる神の慈愛の光を自らさえぎ遮ってしまったのです。それが苦しみという大きなお荷物なのです。皆さまは次元のちがった四次元以降の世界よりみな神の子として光明に満たされた豊かな丸い心を持って両親を選び、そして新らしい此の地上界における学習をよりよく学んでこようして出て来たのです。皆さまはあの世からこの修行場に降りた時に皆さまの魂の兄弟や、光の天使たちに、今度は確かりやってきます、地上界を眺めて見ると多くの人々はみな心を失ない、間違った信仰に自分自身を没入している、これではいけない、私たちが出たらより多くの病める人たちを救い、平和なユートピアをつくろう、と、百人が百人全部が約束してきているのです。しかしお父さん、お母さんが先に出ている苦しみを皆さまは誰れもが知っているのです。お父さん、お母さんの調和によって、先ずこの地上界を渡っていくための、新らしい縁生の舟、肉体舟を与えられてお母さんのお腹の中に皆さまの魂が入った時から、だんだんと次元の違った世界からかくり隔離されてゆきます。
 最も不安定な個体的なこの地上界という場にとつき十月とうか十日たって生まれると同時に皆さまの意識は一〇〇パーセント潜在してしまい、その潜在された意識の中から除々に除々に本能が芽生え欲望が出て参ります。生まれた環境や教育、思想については、そうした中で自分を磨いて行くと言って、自分が望んで出てきたのです。あの世では人間のつくり出した経済、地位、名誉等の欲望は一切持っておりませんが、しかし私たちは自分の生まれた環境に左右され、貧乏をしてしまうと、あらゆる面で自分の心まで貧しくしてしまいます。反対に恵まれた環境の人々は変な優越感を持ってまいります。家柄とか地位とか財産というものにおぼ溺れてしまいます。金持三代続かずという諺を知っているでしょう。その実例も沢山ご存知じのはずです。
 人間の欲望が呼び込んだ苦しみのお荷物を持った時から、心というものを失ってしまうのです。
 えいこ栄枯せいすい衰盛は世のならいという言葉もあります。その栄枯衰盛もすべて心の有り方が原因です。欲望、自我々欲がこうじると自分自身の思想をも狂わしてしまうのです。このようにして自ら選んだその環境を通して、自分が今世においてまた新らしく学習をするのです。その新しい学習により自分の心を豊かにするためにやらなければならないのだと、いうことを知らないのです。
 我々はいかに経済的に恵まれていても、地位、名誉があろうとも、この地上界を去る時には誰も一銭もあの世に持って帰ることは出来ないのです。若し意識の中に、それらのしゅうちゃく執着をもって帰ったとしたならば、やがて皆さまは再び地獄界に、そして地獄から上ったところの修養所という場で、自らをさば裁かなければなりません。人生におけるところの一切の想念と行為、諸現象を皆さまの心の中のテープ・レコーダー、ビデオデープに記録されているものがそのまま現象化されます。その現象化されたものを、自らの嘘のつけない善なる心が裁くのです。自分自身を自分が裁くからきびしいのです。
 この地上界においては人間のつくり出した法によって裁く場合には、じょうじょう情状しゃくりょう酌量という言葉があるけれども、皆さまの善なる心はきびしいのです。ちょっとの狂いも許しません。そのために修養所から少し離れたところには、仏像だの、マンダラ曼陀羅だの、十字架等、色々の物が捨ててあります。これはこの地上界において体験してきたところの執着を、自分が裁き善我なる悟りへの反省を重ねた結果、捨てられたものです。
 想念は物をつくり出すということを皆さまは知っているはずです。その想念を持ち続けてゆくのです。ある者は間違った宗教を通し、ある者はぜん禅によって悟れるのだと思って心を無にした時に、我々の心は一念三千、悪にも、善にも通じますから、この地上界の転生輪迴の過程において、正道をふみはずした人たちが展開している地獄界というところがあります。その地獄界に住んでこの地上界に執着を持った霊達が、同じような心の人々にひょうい憑依するのです。文明が発達して心が失われるに従い、知と感情だけがふくらんでしまった多くの人々に憑依してゆきます。その結果が学生諸君の中にノイローゼ、うつ病が多くなっているというのもそこに原因があります。また、一部に斗争と破壊を旗印に、それにほんろう翻弄される人たちも地獄界即ち阿修羅界の迷える霊に支配されているのです。
 皆さまの目は現在この様な諸現象を見ていますが、存在していても見えないものも沢山あります。
 それが心の目を開いた時に、一人一人の心に同じような同通された者が常に同居していることを確認できるはずです。迷える霊は憑依霊となり、ある者を怒らせたり、不調和にさせたりして、その人の本性を失わしめてしまうのです。それだけに混乱した社会が展開されればされるほど、地獄界は騒ぎ立ててきます。その結果が天上界にも影響して参ります。すでに人間が心不在となり、斗争と破壊の中に、人生の目的と使命を忘れた人々が多くなるに従って末法と化してゆきます。つまり、諸法無我の神の心の現れである法という神理が、人々の心から失われてゆくのです。
 比叡山延暦寺では、ほうとう法灯を絶やすべからずといって、人間のつくった灯明を千年も千五百年も燃し続けておりますが、そんなものは法灯でもなんでもありません。真の法灯というものは、皆さんの心の中を光明に満たす法灯でなければならないのです。それが宇宙の神理、諸法無我の神理なのです。
 大自然は神の心の現れであり、すべてが調和されています。たとえば、植物は太陽の熱・光によって、まず水を吸収し、二酸化炭素も吸収して光合成し、澱粉や蛋白質や、あるいは脂肪や糖分を作っております。
 私たちはその野菜や植物から血や肉や骨になる成分をとって肉体を維持しております。一方においては二酸化炭素や肥料を植物に与え、植物の成長を助けています。すべて、大自然はみな相互関係をもっており、動物、植物、鉱物、それぞれが相関の中に安定しているのです。しかし、太陽の熱・光のエネルギーが少しでも狂ったらどうゆうことになるでしょう。地球のNとSという地軸が僅か狂っただけでも大変なことになります。夏と冬の差どころの騒ぎではありません。我々は自然に万生万物が相互関係の中に安定しているのだということを考えたならば、人間が肉体を持って自分の心の調和を計れば、皆さま一人々々の心は無限大に広がり、宇宙大になってゆきます。心の曇りを取除き心が調和された時に宇宙即我、皆さまの心は拡大され、大宇宙を飲み込むだけの偉大なる力を持っている万物の霊長であり、長い転生輪廻の中に体験されたるところの偉大な智慧の所有者であることを自覚するのです。そういうことが解ってまいりますと、我々は神とどうこん同根なのです。宇宙即我、一人々々が神の子であり、神の心と通じる魂だということがわかるのです。そして一人一人が個性を持っておりますが、その個性が間違った方向に展開してゆくと人間は物質文明の奴隷になり下り、斗争と破壊を繰り返してゆくのです。
 しかし神は我々に反省というチャンスを与えております。万物の霊長は本来、斗争と破壊ということは許されるものではないのです。なのに我々はそのような不調和な心が出てまいります。そこにまた、この地上界は盲の中から、より豊かな自分を悟る絶好の環境なんだ、ということになるのです。私たちがこの地球上という場、最も不安定な固体的な環境の中で、盲目の人生を通してあらゆる体験された事を、より自分自身の心を豊かにする糧として、より飛躍するための自分を作ってゆかなければならないのです。
 皆さまの心はそれはそれは大変なものです。どんな智識も、あらゆる体験も、永い何十億萬年に亘る転生輪廻のすべての記録を誰れもが持っているのです。心の曇りを晴らしてみて下さい。皆さんが体験されたるところの一切の諸現象はすべて記録されているという事実、只そのスヰッチの入れ方がわからないために苦しくなると、歴史的につながっている習慣的な信仰などに走り、手を合せてみたり、一生懸命におがんでいる内に憑依されてしまったり、滝に打たれて肉体煩悩を滅するためだと間違った方向に進んでしまうのです。いかに立派な舟をつくり、立派な装飾をしたところで、それだけでは決して安全航海への基礎にはならないということを皆さまは知っているでしょう。人間の肉体も人生航路の只の乗り舟なのです。その舟についている眼や耳、鼻、口、これはたゞ最低の生活が出来る上に必要なものだけしか与えられておらないのです。その肉体五官で正しくものを見る、片寄らない正しい見解を持つことが実は大切なことなのです。我々自身の心が光明に満されていなければいけません。一番重要なことは片寄らないということです。
 正法という片寄らない中道の道を、自分の心の柱として生活をしたならば、必ず皆さまも光明の道が開かれてきます。片寄った物の考え方を持って人を恨んだり、妬んだり、謗ったり、そして怒る心、愚痴をこぼす心、心はすべて自分中心の考え方であり、それが不調和な現象を起すのです。目には見えないけれど、それは大きな毒を自分自らが喰べているということです。また、人から怒られると自分も怒る心をもち反発心をもった時、その人は相手から毒を喰べさせられたということです。
 たとえ相手にどのようなことがあろうとも、一旦、自分の心に受けとめて、なぜ、どうしてか、とそのいわれる原因をしっかり受けとめて、判断出来るような正しい心の物差し(八正道)をもつことが大事なのです。
 人間の眼で見る視覚の範囲というものは、ほんの小さい世界なのです。皆さまがどんなに立派な眼をしておったところで二・○以上にはなりません。それでも足りなくなると人間はもう一つ眼鏡をつけて見るようになります。それでも人間の目というものは不確定であります。私が今話をしているこのマイクの声も電気エネルギーから磁力のエネルギーにかえて振動されたものが、また受信器を通じ声となって出てまいります。この中には電波が一杯満ちております。その電波ですら見ることは出来ません。
 紫外線、赤外線、ガンマー線、デルター線、χ線も、これも見ることは出来ないが、しかし存在しています。目に見えない世界の方が多いということを皆さまは知らなくてはいけません。我々が生活行為の中に、物質的なものだけをとらえて欲望に走る、つまり、足ることを忘れ去った人生航路というものは、本当の神の子としての心の偉大性を悟っていないからです。そうゆう人々は自らをして苦しみの原因と結果を輪廻させているのです。
 そういうことが理解出来る様になれば、心は調和されてきます。なお、勇気をもって自分の欠点を修正していく人たちは正しく一切を見る、聞く、語ることが出来てくる人たちです。そういう人こそ、過去、現在、未来を通して見ることの出来る心眼の開いた人たちなのです。
 私たちは人生航路におけるあらゆる苦しみを土台とし、反省のかて糧として、その苦しみの原因がどこにあったかということを追求することが大事なのです。えてして人間は苦境に出合うと救いを求めて神仏にすがるようになります。ある者は曼陀羅を、ある者はちまた巷の神々というように拝めばよくなるだろうというような間違いをしてしまいます。もし曼陀羅や偶像が絶対に必要なものであるとしたならば、皆さまが生れてきた時に神は与えているはずです。
 重要な事は自分の生活態度が片寄っているか、いないか、しっかり見つめる勇気をもつことなのです。片寄らない中道の道を心の柱として生活する以外にありません。人間は欲望というものをもてば尽きることはないものです。自分をより経済的に安定させようとその欲望に振りまわされ、苦しみを作ってゆきます。病気も同じ、生活環境の苦しみも、家庭の混乱も又同じ、その混乱になる原因があるから作用を起し、反作用という苦しみが起きてくるのです。その原因をしっかり見抜いたならば、その原因の根っ子を取らない限り、又大きな反作用が生活の中に襲ってまいります。
 原因と結果というものは輪廻しているからです。物理学でいえば作用反作用の法則です。人の悪口をいえばそうゆう心が自分に反作用となって帰ってまいります。そこで反省するのに重要なことは、自分の思ったこと、行ったことがどこにひずみ歪をつくり、どこにかたよ片寄りが出来たかということを見つめ直すことなのです。その時に自分の欠点もよく解り、二度と同じ間違いを犯かさないということになってゆきます。そうした日々の生活をして行く内に心が調和されてまいりますと、肉体を持ったままで次元の違った、やがて帰らなければならない世界に通じるようになってきます。そう致しますと、光の天使たちが多くいるあの世に何時でも行って見ることが出来ます。勿論望めば地獄にも行って見ることが出来ます。皆さまの肉親の人々が天上界にいるか、地獄界にいるかも解るようになってまいります。
 我々はこのように人間の次元の越えた意識の世界というものがわからないため、人間は死後の世界があるか、と問えば、ほとんどの人はないだろうと答えそうです。若し死後の世界即ち次元の違った世界がないとしたならば、我々は果してどのようなことになるでしょうか。この地上界を含めて万生万物はすべて転生輪廻し、いつ時として、その場所に止まることの出来ないのが、自然の法則であり神理です。人間の魂が肉体と共に終ると思ったら、とんでもないことです。皆さんがもしそうゆうような間違いを犯しているなら、先ず自分自身が私の説いている神理を少なくとも一週間、二週間、三週間と実践してみることです。守護霊にあの世の存在が信じられない、曇った心を磨いて下さいと頼むのもいいでしょう。その結果が初めて次元を越えた世界から現象が出てまいります。
 現代のお坊さんですら「あの世がありますか」と尋ねたら「そんな所はないでしょう」とあいまいな返事をする。それなのに死人に引導をわたしているのだから死人もとまどっていることでしょう。
 物理学でいうとうそくど等速度運動というのを皆さまは知っているでしょう。電車に乗っていて急ブレーキを掛けられれば、その方向に転んで行きます。この世からあの世に行く場合も、これとちょうど同じです。死んで即座に仏になれるような人たちは未法の世となればおりません。ほとんど地獄へ行ってしまいます。
 神を信ずることなく、己自身も信ずることの出来ない人間が何んで救われるでしょうか。私たちは自分の心をしっかりと持って生活をしておれぱ、あの世へ行っても魂がフラフラしないのです。皆さまは光子体という新しい肉体と今も同居しているのです。それが心の調和によって後光(オーラー)となって出てまいります。それは心にスモッグがないために神の光は新しい肉体、現在の肉体に光明を与えます。それが怒りの心になれば、その光は逆に焔のように燃えた赤い後光に変ります。我々の心というものが調和されるに従って光明に満たされて行きます。あの世に帰る時にはこの原子肉体と訣別しますが、全く同じ光子体の肉体をもって四次元以降の世界へ帰って行きます。
 肉体が病み病院へ入院し、不調和の根本も解らずに死にたくない、死にたくないといってこの世を去る人たちは、この地上界に執着をもってしまいますので、連続体であるこの地上界の生きている人々や家族に憑依してしまいます。それがあらゆる肉体現象、精神的現象となって現れてくるのです。
 皆さまが真に自分の心を知ったならば、この点がはっきり解るようになるのです。それは一切の執着から離れることです。人間は苦しみや悲しみの原因である荷物を降すことに抵抗を感ずるでしょう。でも苦しみから解脱する早道は執着から離れることです。荷物を早く降せば心が軽くなり安らぎを得ることが出来ます。執着が欲望をつくっていくのです。といって現代社会は経済が優先している以上そのようには行きません。物質経済社会である以上、我々はその中で足ることを知り、自分の心に曇りをつくらないような生活行為が大事なのです。
 そういう事が解からないから、現代社会は労使の争いにしても尽きることがないのです。毎年毎年時期が来ると物価値上げ反対、運賃値上げ反対といいながら給料値上げ賛成といっております。その矛盾を何んと説くのでしょうか。これは政治も悪ければ、人間も悪いのです。お互いに話し合い、争いを前提にしてやるのでなく、労使共互いに感謝と報恩の心で接し協力しあったならば、必ず善い環境がおのずと出来てまいります。大体、資本主義も共産主義もよくないのです。すべてその思想の原点はお金即ち経済と物質です。人間の心がどこにあるでしょうか。心不在、心の尊厳性を無視したところにたえず争いが生じるのです。
 我々はいかに経済的に恵まれたとしても、心の中にある悩みは解消することが出来ません。人間の心は無限に広く、仏教でいう一念三千であります。まず、この地上界という環境に対する感謝の心が大切です。そして感謝の心が湧いたならば報恩という行為がともなわなければなりません。自然が私たちに教えているように、万生万物は相互関係の中に生かし生かされていることを知ったならば、人を愛する事も慈悲を与える事も、すべて自分の心をより丸く豊かにする早道だということが理解出来るはずです。そうして、段々と調和の輪を広げていったならば、斗争はこの地上界から消えて行きます。決して資本主義でも、マルクス主義でも、この世の中は調和することは出来ないのです。武力、権力によって人間の行動範囲を制約する事が出来ても、人間の心は本来誰も神の子であり、自由なのです。だからその心までそくばく束縛することは出来ません。
 人間の肉体は滅することは出来ても、その魂まで滅ぼすことは出来ないのです、問題になるのは、間違った宗教、間違った思想というものは心を狂わし、自分をも見失ってしまうものです。
 皆さま一人一人は偉大なる神の子として、偉大なる智慧を誰もが持っているのです。それをゆ涌げん現した時に人間はこの地上界の大調和という環境を作らなければならないという結論に達してゆくのです。
 今私たちのグループの中からは色々とあらゆる転生輪廻の過程を思い出し、そして習わなかった国の言葉で、当時はこうゆう生活をした、そして人間はこのようにして生れ、このように死んでいった。そして、今自分が望み、日本人として生れてきた。そうゆう体験を話せる人たちが多く出ております。これは生命の不変を証明する、何人も否定することの出来ない事実なのです。
 我々、特に日本人は先祖崇拝ということから、先祖を大事に一生懸命拝んでおります。これも悪いことではありませんが、しかし重要な事は、まず先祖から貰った肉体です。この肉体が健康であること、そして家庭の中が明るく、いつもオホホ、アハハと笑って暮せる環境を作ることが本当の先祖に対する供養なのです。皆さんの父母が、健康で平和な生活を営なんでいるならば、あの子は本当に親孝行だ、親に心配もかけないでよく育ってくれた、と思っているはずです。おじいさん、おばあさんもおそらく孫に対しては同じようにいうでしょう。何んで先祖が罰など当てたりするでしょうか。
 我々の先祖に対する供養は、あくまでも健康と平和な環境をつくり、明るい光明に満たされた家庭を、社会をつくることにあります。決してお経を上げることが、供養でもなければ、信仰でもないのです。お経の意味をよく理解し、そのお経の中に書かれていることを生活行為の中に生かすことです。思うこと、行うことの大事さを教えているはずです。
 それをお坊さんを呼んできて亡なった人たちにお経を上げてもらったところで、その亡くなった人たちが経文の意味をよく知って生活をしているならば、別にお経もいらないのです。自分の力で自由にあの世へ帰ることが出来ます。亡くなった人たちの中には自分は一体どうゆうことになるのかと迷っている者もあります。自分の肉体からもう一人の自分が抜け出してあわ泡をくっている時に、いくらお経を上げても無駄なことです。生前中に貴方は何をしたか。その間違いを教え反省をさせてあげる方がはるかに功徳があります。
 いわんや難かしいかんじざい観自在ぼさつ菩薩ぎょうじん行深はんにゃ般若はらみ波羅蜜たじ多時と教えたところで、本当は何も解りません。その経文、教えの意味をよく理解させる事です。本来、死はあの世に帰る卒業式です。しめっぽいものではないのです。皆さまの心の眼を開けばチャンと前へ出てきて挨拶をします。着ている着物からすべてが皆さまの眼に見えます。不思議でもなんでもないのです。
 皆さまは三次元的な盲の目で見ているから見えないのです。心の眼を開いて下さい。それには正しい神理を自分の心の柱として生活することです。心の柱こそ皆さまの師であり、その柱は大自然界が教えている諸法無我の神理なのです。それを皆さまは勇気をもって実践して下さい。実践のないところに前進と調和はないのです。思うことはそくおこな即行うことです。その思うことも片寄った間違った方向にいってしまえば、その行為も又違った方向に進んで行きます。
 想念というものは物を作りだす能力をもっております。思うことはエネルギーです。しゃべ喋る言葉も又ことだま言魂となって人々の心に響いていきます。ぎょうそくひかり行即光です。皆さま自身が生れてくる時、神と約束をしてきた本来の目的と使命にめざめ、正しい神理に立脚した勇気ある実践は必ず皆さまの心に、神の光明を与えるでしょう。
posted by ゆき at 11:35 | 講演集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あ と が き

 この講演集編纂の計画をお話した時、側近の霊道者の先生方は「演壇に立たれた時の先生は、もう一高橋信次ではありません。天上界とコンタクトされた、即、神の声そのものです。それは、いい蔵書が出来るでしょう、家宝になりますよ」
 と双手をあげて賛成して下さいました。
 御講演集の前に掲げました関西本部長の挨拶文は、旧瑞法会がGLAに帰依致しました当時、私たちに正法神理の正しさを伝え、数万に及ぶ会員の指導者の立場にあった本部長の心境を伝えるものとして収録したものでありますが、現在本部長は霊道を開かれ、当時の心境を益々確固たるものにされております。
 然しその当時、瑞法会会長として、教団のあり方や教義などに疑問の点も多く、わが仏ひとり尊としではなく、真に普遍的な本当に正しい法を数万に及ぶ会員に伝えることが使命であると自覚され、広く深く探究されておられたのであります。そういった時期にGLAの存在を知られ、文中にありますようにいろいろと神理正法について研究され、先生にお会いになり、「これこそ間違いのない正しい法だ」との結論を得られて、私たちの会員に対する慈愛の心から、さきにありますお話のような決意を固められたのであります。
 言葉でこそ、旧来のろうしゅう陋習を破り正しきに就くということは簡単ではありますが、数万の会員の信望を一身に集め、その一挙手一投足が注視の的になる環境にある者が、その方向を百八十度転換させるということは並大抵のことではなかったでしょう。結果において全員がことごとく心から喜べるようになれたのも、こうした大きな決断をなされた本部長の、人間としての心の大きさ豊かさを物語るものでありましよう。
 また、数回しか先生にお会いしていない本部長にこのような確信と不動の決意を与えた縁生の必然、天の配剤の偉大さに只々感謝するものであります。
 関西本部事務局には、日常事務に当る若干の職員のほか常任は一人も居りません。ために編集部スタッフが、二、三篇宛分担致しましたので、全体としての統一を欠く面がかなり多く、加えて、いまだ理解のとぼしい私たちがテープから御講演をコンパイルしたものでありますから、先生の御本旨を少しでもまげることを恐れるのでありますが、幸い御多忙の中をさいて頂いて、ザッとではありますが堀田和成先生に御推稿いただきましたのでその心配はなくなったと思われます。なおもし欠文脱落等がありました時は全て編集部の責任であります事をお詫びしておきます。
 それから本書の編纂に当って感じた事でありますが、私たちは少くとも本書に集録された御講演は真剣に聴いたつもりでおります。いや一度だけではなくテープによってなおくり返し聴き、人にも聴かせて上げたのです。ところがテープから筆耕していただいたものを原稿にしておりまして、はてあの時にこんなお話をなさったのだろうか? と全然記憶に止まっていない個所がいくつも出て参りました。私たちはその中から、いくら御説話の全部を真剣に聞いているつもりでも知らぬ間に、自分の性で聴き、色で受取って片よった理解をしておったのだという事を本当に教えられた思いが致しました。御著書を何十回も読めと云われる事の大切さを今さら乍ら深く感じている次第でございます。
 最後に堀田和成先生、編集部スタッフ並びに本編の集録に御協力をいただきました諸彦に深く感謝の意を表します。
                                         
 編集部長  増 田 駿 一

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