心行と祈願文 「われいま我今けんもん見聞し、しょうほう正法にきえ帰衣することをえ得たり。」
このように冒頭に出したのは、人間はすべからく神の子でありますから、正法神理を知った時には、現在ただ今から正法にそった生活をしますと宣言しているのです。インドの時代ゴーダマ・シッタルダーは三宝(仏・法・僧)に帰依するという事を教えました。当時、仏弟子になるには、先ず一週間は最低山中にはい這入って、人生の一切を反省し、心の中を清らかにして、体から(オーラー)後光が出て来なければ弟子としなかったのです。初めてそのような心の境地に到達した人たちに、先ずプッターを信ずるか、私の教える神理・法を信じるか、お前はプタストラー僧伽、即ち宗団に帰依するか、の三つを約束させたのであります。
人間はもともとその神理にそった生活をする事です。この意味から、まず我今見聞し、正法に帰依することを得たり、という事をワザワザ冒頭に書きとめたわけです。正法というものは普遍的な神理であり、大自然の万物を含めて、永遠に変らない○人○間○の○心○と○○行いの在り方を説いたものであります。
「こうだい広大なるうちゅうたい宇宙体は、ばんしょう万生ばんぶつ万物のこんげん根元にして、ばんしょう万生ばんぶつ万物そうご相互のさよう作用により、てんしょう転生りんね輪廻のほう法にしたが従う。」
我々の住んでいる地球を含めて、大宇宙体というものは総て神の体の一部分である。しかも又万生万物は大宇宙体というものがあるから存在しているのだという事であり、万生万物は総て相互関係にあり、その作用によって転生輪廻しております。
水は蒸発して慈雨を降らし、植物はその水と、二酸化炭素を吸収して太陽の熱・光によって澱粉や蛋白質や脂肪を作り、動物はそれらを自分の肉体保存のエネルギー源としております。こうして全体が循環され調和しております。あらゆる万生万物は単独では存在しないのです。植物は酸素を吐き出し、そして我々人間は二酸化炭素を出しており、お互いに相互関係を持ちながら、万生万物は皆関連しあって生きているのです。人間がいかに万物の霊長であろうとも、植物の作り出すところの澱粉や蛋白質を作る事は出来ません。他から吸収しなければなりません。そのように皆相互関係によってこそ、本当に安定し平和なんだという事です。
そこでこの地上界の一切の物は転生輪廻を繰り返している、一つの所に止まっている事は出来ない。どんなに固い金剛石であろうとも、風雨による風化作用でいつかは循環してしまいますし、又どんな立派な家であろうとも、同じように風化作用を起して朽ちて行きます。皆さまの肉体も、どんなに美しい顔をしていようとも、どんなに頑丈な体であろうとも、何時の日かこの地上界の土に変ってしまいます。そして皆さま自身の魂は、あの世へ行き、永遠の輪廻を繰り返しており、万生万物総てそのようになっております。
「だいうちゅう大宇宙だいしぜんかい大自然界にいしき意識あり。いしき意識はだいうちゅうたい大宇宙体をしはい支配し、ばんしょう万生ばんぶつ万物をしてちょうわ調和のすがた姿をしめ示さん。」
大宇宙体というこの大自然界には意識がある、人間の心が不調和になれば、天変地変を起します。暗い想念によって、その分野は神の光を遮ってしまうからです。又地球は生きております。地熱で温泉が湧いたりするのは、地球の内部がマグマと呼ばれる約二萬度近い高温で、それは最も固い塩基性の物質が溶けあっているためなのです。そのために地球の内部温度と表面温度の差によって電気変化が起こり、これが地軸磁力のNとSを決めております。
このように地球も生きており、大宇宙体・万生万物総てが生きている。この生きているものの中に意識があるということで、皆さんの肉体を支配している皆さまの魂・意識のように大宇宙にも意識があるということです。
そのような意識があればこそ、その意思にそって大自然というものが調和されているのだ。太陽を中心として、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星、この九惑星を初めとして、この外に数万個の小さな衛星群や流星となる微小な天体群などがあり、これらが一糸乱れず、時間も一秒も遅れる事なく、整然として輪廻を繰り返しております。
春になれば若葉が、夏になればそれらが繁茂し、秋には刈り入れがあり、冬には冷却され、その分野は殺菌されて、又次の春には新しい芽が生えて行くように、自然界の意識があればこそ、そのような環境が完成されて行くのです。
「ばんぶつ万物ばんしょう万象は、こうだい広大むへん無辺なだいじひ大慈悲なり。」
我々自身が生存出来るという事は、外を見れば植物、太陽の熱・光のエネルギー、そして地球という環境、あらゆるものを○○ただで与えられているからです。太陽の熱・光のエネルギーを皆さん計算してみて下さい。その電気量と熱量は大変なものです。恐らく太陽が皆さまに請求書を出したなら、地球上の人は全員が破産してしまうでしょう。瓦斯、電力会社に使用料を支払わなければ、まあ二ヶ月も過ぎるとプッンと切られてしまいます。おてんとう太陽さま様は絶対そんな事はしませんね。これこそが神の愛であり、慈悲であるのです。その愛と慈悲に我々は心から感謝することが必要です。その感謝する心をつい忘れてしまって、お太陽さんと米の飯は付いて廻るというような考え方を持ってしまうのです。
我々はそのような大自然の恵みに対して感謝する心は、行為となって人々に対して尽していく、自分の心を豊かにしていく、そして又、この地上界に再び肉体を持って出てくる子孫たちに平和な調和された社会を作るための環境を我々が作っていく、こうゆう事が報恩という行為なのです。〃感謝する〃その事に対する我々は行為が必要なのであります。
「だいうちゅうたい大宇宙体はいしき意識のとうたい当体にして、いしき意識のちゅうしん中心はこころ心なり。こころ心はじひ慈悲とあい愛のかたま塊りにして、とうたい当体いしき意識はふじ不二なることをさと悟るべし。」
大宇宙体は意識そのものである。意識の当体である。そうしてその中心は心だ、神の心だという事を、私はなぜこのように書いたかと申しますと、私があの世へ行きますと、この地球上と同じような太陽が出ているのです。私は初めてですから次元の違う人に、太陽が出ているといったところが、地球の太陽と、どこか違うところはないかと、このように私は云われまして、よく見れば先ず植物で、全く地上界の黒ずんだ青さではありません。何時も春先きの若芽のように生き生きして軟らかく調和されております。この世よりもっと真っ青な空には神の意識(太陽の一番もとの太陽)神の心がゴールドカラー、金色の軟らかい光を放っております。そして向うの修養所では、イエス様もモーゼ様たちも、自分の心に神の光を入れる時は、その太陽に向って祈っております。ハハーあれが神の意識かなァと思いました。
あの世には第二太陽のような神の心が大宇宙を照しているのです。その光は万生万物、この地球上の万生万物にも照らされております。ところが地獄界へ行ってしまうと、神の光は届いておりません。なぜならば、そこに住む人々の心が不調和であり、独善的であり、自我我欲、自己保存、自分の事しか考えない人々の多い場所であるために、彼等の想念は自らして曇りを作り神の光を遮ってしまうからです。
この地球上にも神の光は照らされて、皆さまの心の中にも第二太陽とも言うべき神の意識・心が光を放って、皆さまに平等に与えております。その平等に与えている光を、皆さま自身の心が調和されていないと、想念の曇りを作って、光を遮って自らして苦しみの暗い曇りに包まれてしまいます。そのように意識の中心は心なりというのは、あの世にある神の本当の心、という事でこのように書いてあります。
そこで慈悲と愛の塊りだというのは、自然は我々になんの要求もしないという事です。人間はその環境において、調和された日々の生活をするという事から、心が常に不二一体である。この大宇宙は神の体であり、神の意識である、これが一体であるという事です。仏教の言葉では、色心不二という事になるのです。色という物質、心というエネルギー、これが一体だという事です。色というのは、赤、青、黄、の三原色が何萬色にも変化し、展開されております。皆さまの目に写る物は総て色彩を持って映じます。〃色〃とは私たちの眼で確認できる万生万物のことをいっているのです。
皆さんの肉体も色・物質です。此の物質は心と同居しています。そこでこの物質をMグラムとし、これに光の積を掛けたもの、エネルギーは質量と光の積の平方に等しい、仕事を為し得る能力が即ちエネルギーである。色と心は不二一体だという事を仏教では説いております。そのためにエネルギーは不滅であり質量は不変だと、このようにハッキリと現代の物理学でも証明しています。(E=MC2)
「このだいいしき大意識こそ、だいうちゅう大宇宙だいしんれい大神霊・ほとけ仏なるべし。」
この大宇宙体を支配しているところの意識・色心不二の、この分野こそ神である、神の心であるといっている訳であります。
「しんぶつ神仏なるがゆえ故に、とうたい当体はだいしんたい大神体なり。このげんしょうかい現象界における太陽系は、だいうちゅうたい大宇宙体のちい小さなしょきかん諸器官のひと一つにすぎず、ちきゅう地球は、ちい小さなさいぼうたい細胞体なることをし知るべし。」
この現象界、我々の住んでいる太陽系、太陽を中心として整然として、九惑星、更に三萬数千個から成るところの衛星集団、このものを引き連れているけれども、この神の体の大宇宙体から見たならば、一つの小さな諸器官にしか過ぎない。地球はそれから見たならば、小さな細胞である。そうなれば皆さまは夜空を眺めた時に星が無数にありますが、その星も我々は銀河系宇宙しか見る事が出来ません。銀河系宇宙の中の太陽系は、ホンノ小さな細胞の神経繊維にしか過ぎないものです。
「とうたい当体のさいぼう細胞なるがゆえ故に、さいぼう細胞にいしき意識あ有り、か斯くのごと如くばんぶつ万物すべ総てせいめい生命にして、エネルギーのかたま塊りなることをさと悟るべし。」
エネルギーというものは仕事を為し得る能力だ。万生万物は総てエネルギーだ、このように総て神の体なんだということです。そのために私たちの住んでいるこの地球は、一つの細胞にしかすぎません。その細胞の中に住んでいる人類はカビのようなものです。
皆さま自身の体は、約六十兆から成るところの細胞で、動、植、鉱物のエネルギーを吸収して維持しております。吸収して出されるだえき唾液は小さなバイ菌(酵素)です。その唾液が胃の中に入ってかくはん撹拌されて皆さんの血や、肉や、骨になって行きます。このバイ菌から見たならば、恐らく胃の中はデッカイ宇宙だと彼等は思っている事でしょう。
我々は地球という環境に出て来て、宇宙は広いなァと眺めてきょうたん驚嘆しているように、皆さまの肉体の中にいる血管細胞一つでも、恐らく彼等はビックリしているに違いありません。彼等も又生命を持っているからです。このようにして我々自身もこの地球というものも、神の体の中の小さな細胞にしかすぎない。細胞なるが故に意識があると、斯くの如く万生万物は総て生命、エネルギーの塊りであるという事です。「だいうちゅう大宇宙はだいしんたい大神体なるがゆえ故に、このげんしょうかい現象界のちきゅう地球もしんたい神体なり。しんたい神体なるがゆえ故に、だいしんでん大神殿なるべし。だいしんでん大神殿は、ばんしょう万生、たましい魂のしゅぎょうじょ修行所なり。もろもろ諸々のしょれい諸霊、みな此処に集まれり。」
そこでこの地球という場所も大神殿なのです。皆さまの体も神の子としての分身なのです。ところが人間はすぐに神に頼りたくなってしまって、ペーパーの紙、糸へんの紙や、或は形作った物をおがむ等、他力本願だけが信仰のように大きな間違いを犯してしまいました。
人間本来、そのような目的で出ているのではありません。神の体であるこの地球上の調和を計るために、人類は肉体を持ってこの世に出ているのです。だから手を合せなくとも、心が綺麗ならば即座にあの世も皆さまの神と称する人々と話をする事も出来るのです。不思議でもなんでもありません。
イエス・キリストもゴーダマ・シッタルダーも、神社や仏閣は持ちません。自分の行く場所々々によって、心の窓を開き、自由自在に実在界(あの世)の上段階の光の天使たちと話をしてきました。
何れにせよ、我々はこの大神殿・地球上を肉体舟に乗って調和させるために、九〇パーセントの潜在意識で自分の過去を全部密閉して、表面意識の一〇パーセントで、人生というものを、しっかり自分自身を正しく見詰めた正道の生活をして行く修行場所としているのです。皆万生万物の修行所である。諸々の諸霊が実在界を通して、又地球上の人類の魂も皆この地上界に集まっているのです。
「しょれい諸霊のりんね輪廻は、さんぜ三世のるてん流転、このげんしょうかい現象界でおのれ己のたましい魂をみが磨き、しんい神意にそ添ったぶっこくど仏国土・ユートピアをけんせつ建設せんがためなり。」
諸霊の輪廻は過去、現在、未来と転生輪廻を繰り返している。これは我々人間に対する使命と目的を示したのであります。そこで私たちはこの現世において先ず魂の修行をする、しかも神の体である地球上に人間の心と心の調和のとれた平和なユートピアを作る、此の二つの目的を持ち、それぞれの部署により、与えられた環境によってベストを尽し、中道という根本原則を元とした生活行為の中に魂というものは、どんどん進化浄化されて行きます。
「さら更に、うちゅう宇宙たいばんしょう体万生が、しんい神意にかな適う、ちょうわ調和のとれたせかい世界をけんせつ建設せんがために、おのれ己のたましい魂をしゅぎょう修行せることをさと悟るべし。かこせ過去世、げんせ現世、らいせ来世のさんぜ三世は、せいめい生命るてん流転のかてい過程にして、とわ永久にふへん不変なることをし知べし。」
我々は過去から現在、現在から未来へと、皆さまの魂は永遠であって一つも変っていない。般若心経では、不生不滅、不増不減つまり、生れる事も滅する事も、増える事も減る事もないといっていますが、ここでは、私たちの魂は永遠に自分自身を磨いて行くのだ、この地上は魂の修行所だという事をいっており、これを皆さまが、悟らなくてはなりません。
過去世というのは、皆さまが転生輪廻してきた心の中に記録されている潜在意識のテープレコーダー、ビデオテープ。即ち前世で学び、体験されたもの、これを前世といっております。
「かこせ過去世はおのれ己がしゅぎょう修行せし、ぜんせ前世、すなわ即ち、す過ぎさ去りしじつざいかい実在界とげんしょうかい現象界のせかい世界なり、げんせ現世は、せいめい生命・ぶっしつ物質ふじ不二のげんしょうかい現象界、このせかい世界のことなり。ねつ熱・ひかり光・かんきょう環境いっさい一切をふく含めて、エネルギーのかたまり魂りにして、われ我ら等せいめい生命いしき意識のしゅぎょうじょ修行所なり。」(この世)現象界における大自然の移り変わる姿や、自然の法則は、心の世界、(あの世)実在界の表現体です。即ち大宇宙体を支配している神の意識の現われだといえるのです。
この地球上という場所は皆さまの魂の修行所なんだ。盲の人生の中で、貧乏人に生れても、神の子として、自分がその環境の中から己自身を悟って人生の価値を、そして偉大なる心を豊かにしてあの世へ帰らなければならないのに、人間は貧乏に生れてしまうと、心まで貧しくなって人を恨んだり、自分の物足り無さを妬んだりして自分自身というものを失ってしまいます。あるいは又経済的に豊かな環境に生れてしまえば、その中で優雅な生活をして人生を無駄に過してしまいます。
そのように人間というものは、金の高さや地位の高さで、あの世の生活が保障されているわけではないのです。皆さまがこの地球上での物質経済やあらゆる混乱した不調和な環境の中から、自らのカルマ(業)を修正して、中道を根底にした正しい日々の生活をしたならば、心の豊かな自分を作り出す事が出来るのです。総ての規準はこれ以外にないわけです。
あの世では総理大臣であろうとも、その人が私利私欲、自我我欲の人生を送ったならば地獄へ真っ逆さまに落ちて行きます。たとえ国家の元首なりといえども、神の子なのです。彼等は自分が望み、その環境において修行をし、人の上に立つ人間はそれだけ己自身が謙虚で、多くの人々に愛と慈悲の道を教えなければならないのに、その使命を果さず、己の私利私欲に走ってこの地上界を去った時、彼等はその間違いを訂正するまで地獄界において反省を強いられます。蒔いた種は刈り取らなければならないからです。人間は貧乏であろうと、金持ちであろうと、地位があり一国の元首であろうと、皆総て平等に、神の愛と慈悲の光は与えられているのです。それ故に、たとえ貧乏人に生れようとも、心まで貧しい心を持ってはいけません。金は生きるための一つの道具にしかすぎないのです。その奴隷から己自身を開放する事です。
「しんぶつ神仏よりあた与えられし、じひ慈悲とあい愛のかんきょう環境なることをかんしゃ感謝すべし。らいせ来世はじげん次元のこと異なるせかい世界にしてげんしょうかい現象界のにくたい肉体をさ去りししょれい諸霊のせかい世界なり。いしき意識のちょうわど調和度により、だんかい段階あり。このだんかい段階は、しんぶつ神仏のこころ心とおのれ己のこころ心のちょうわど調和度によるひかり光のりょう量のくいき区域なり。しんぶつ神仏とひょうり表裏いったい一体のしょれい諸霊は、こうみょう光明にみ満ち、じつざい実在のせかい世界にあって、もろもろ諸々のしょれい諸霊をぜんどう善導するひかり光のてんし天使なり。」
我々は、物質経済の万能の唯物的人生観に落ち入りがちですが、その上に己自身の偉大なる魂を置き替える事なのです。その時に心というものが、本当にその価値を示し、その偉大さが悟られていくものです。
まず私たちの心の段階というものは、実在界(あの世)、現象界(この世)を通しまして段階があります。心の段階というものは、光の量によって違って参ります。あの世では地獄界の暗い世界から光明に満たされた金剛界まで、霊囲気の違った世界が作られています。この世で、どんな生活をしたか――その自分自身の想念と行為の総決算が、自らふさわしい霊囲気に導くということです。この地上界は善と悪とがミックスされております。悪というのは、人間が長い転生輪廻の中において、作り出した想念と行為、このものによって悪の世界を作っております。それは、この現象界は、表面意識が一〇パーセント、潜在意識九〇パーセントと五官に頼る盲目の人生ですから、自己中心的な考え方が支配するようになって、生かされている環境に心を向ける事を忘れ、大自然の恵みに感謝することなく、自我の道を突っ走って行くのです。それですから、当然、光の量というものは、己の調和度によって、その質量が違いますから、その段階の落ち着く先きが無数にあるといえるのであります。こういうように、皆さん自体の、毎日毎日の生活の無限大な心の中に、自由な心の中に、皆さんの地獄、極楽の世界は厳然として、現在を基点に未来にわたって存在するのです。
又、私たちの心というものは、丸く豊かで、片寄らない生活をしている人々の身体からは、柔らかい黄金色の光が出ています。更に神理を知った生活をして心が綺麗になると、段々(オーラー)後光が大きく成って行きます。此の分野にも如来界、菩薩界、神界、霊界、と光の段階があります。
宇宙即我・即ちプッターという悟りの境地に到達した人たちは、後光が大きくなって、大宇宙の姿になります。そう致しますと、地球や月も自分の手の中にあるのです。つまり悟った者は、心が調和されているため、心にひっかかりがなく、一切の恐怖心もないから、光明のある、執着のない究極の悟り、本当のアーヌクタラ・サンミヤク・サンボデーの境地・即ちねはん涅槃の境地、宇宙即我の境地になるのです。
この後光の強い程、調和されている。皆さんの肉体を通うして一人一人に後光が出ております。暗い想念で恨みばかりを持つ人たちは、自らして想念の曇りが出ているために、神の光を遮っております。そこで一番大事な事は、自分の心と行い・思っている事と行う事を神理に照し合せた中道の道、調和ある生活をしていると、皆さまの心の窓は開かれ、アボロキティー・シュバラー即ち観自在という状態になって行くのであります。
観自在になると我々の原子細胞の肉体が、遥か小さくこめつぶ米粒位になってしまいます。もう一人の自分の光子体はドンドン大きくなって地球は青かったと宇宙飛行士がいったように、本当に青く真下に見えます。アメリカを見ようとすればすぐ見られます。どこでも構いません。自分が望んだ場所ヘサッーと行って見て来ます。
なぜならば、宇宙は自分の体の中にあるからです。我々は神の子であり、それだけの力を誰も持っているのです。そのようにして我々の心が調和されれば、段々後光は大きくなって行きます。これがあなた方のあの世へ帰る時に、この光が強ければ高次元の世界へ、あの世はこの世より精妙で、オートマチック・コントロールドアーです。自動です。自分から出ている光が無ければそのドアーは開きません。だから心が綺麗な人はその光の場所に行きますが、暗い人はそれ以上、上の世界には行けません。しかし光の天使たちが一緒に付いて行けば、どの段階でも通じます。一方暗い地獄界へ光の天使たちが行きますと、昼間のように明るくなってしまいます。その時に彼等は神だァ、太陽だァといっております。彼等にはまばゆくて見えないんです。
私が講演中に、私から出ている光が見える人が何人かいるはずです。それは心が調和されている人には見えるのです。次元の違った光であるからです。
ですから、皆さまは毎日の生活に神理に適った想念と行為の実践をして、物に災わされず、心の中で正しい判断をした生活をしておれば、誰も心は綺麗になり、神の光によっておお覆われます。今私の話を聞いた人たちのテープレコーダー(意識)の中には、皆記憶されております。やがて皆さまは、あの世へ帰る。その時に、善なる心は自分の心に嘘はつけないはずです。人には都合が悪ければ嘘をつきますが、あの世では嘘のつけない自分自身の心で自分を裁くのです。この世では、地球上の人間としてのルール、その国としての法律の範囲内にそって、裁判官が裁きます。ところがあの世へ帰る時には、裁く事の出来るのは他人ではない、神の子の己の善なる心が、自分を裁くのです。酷しいのです。情状酌量という事はありません。いわんや執行猶予何年なんていう事は絶対ありません。皆さまは自分で犯した罪を、自分のテープレコーダーを、全部チェックして、皆さまは自分で裁くのです。
今私の話をしている神理正法は、皆さまの意識に記録されております。そのためにあの世へ帰って、ひろげたら、その分野だけは違っております。その時に、〃ああ彼奴の言ったのは本当だった〃〃あの時にもっと真面目に聞いておれば良かった〃と殆んど人はそのように思うでしょう。私はなぜそれを自信を持って言えるかといいますと、我々は、あらゆる所へ行って神理の講演をしますが、その時に聞いた人たちの中から、年をとって亡くなって行く人たちがあります。その人たちの所へ私が行って見ますが、その分野がパッーと光っております。彼等はそこを通して反省しています。それですから、心の曇りは晴れて、神の光に覆われます。瞑想的反省は、神の光によって覆われ、、心の曇りが晴れてしまう事を発見したのです。そのために、正しい神理を知り、正しい法を知り、心の中の歪が晴れていった時に、自らして神の光が出てくるからなのです。
このような事実は、まず地獄へ行ったか、天上界へ行ったかを調べればすぐ解ってしまいます。その内に皆さまが、一年、二年、三年と神理を学ぶ過程に、この地上界を去って行く人たちがあるでしょう。その時に皆さまの中から心の窓が開かれて、あの世の通信を入れて話すような人たちが何人か出てまいります。真剣に神理を聞いた人と、聞かない人の差がハッキリ出てまいります。
神理は聞く事により、行う事によって、その光が出てくるのです。いかに私の話を聞いたところで、皆さまが実践してこそ、この地上界においても価値が出てくるのです。実行をしなかったならば、これは画餅にすぎません。ボタ餅は矢張り口に入れてこそ味が解るのです。その味は喰わずして思案する事は、真に愚かな事です。
そのように我々の心は不変的なものであり、心の世界は無限である。そうして実在界を通して心の綺麗な人たちは、諸々の諸霊が善導して、光の天使たちが皆さまの心の中に調和と安らぎの道を教えて行きます。そして本当の正しい道は、疑問を持っても、その疑問の解答は教えられ、しかも又心に引っ掛りが無く( )調和されて、己自身はより広い魂になって行くのです。
「ひかり光のてんし天使、すなわ即ちしょにょらい諸如来、しょぼさつ諸菩薩のことなり。このげんしょうかい現象界は、しんぶつ神仏より、いっさい一切のけんげん権限をひかり光のてんし天使にゆだ委ねしところ処なり。ひかり光のてんし天使は、じひ慈悲とあい愛のかたま魂りにして、あ彼のよ世、こ此のよ世のしょれい諸霊をみちび導かん。さら更に、しょ諸てんぜんじん天善神あり。もろもろ諸々のしょれい諸霊をいっさい一切のま魔よりまも守り、ただ正しきしゅじょう衆生をようご擁護せん。」
何んとか菩薩、何んとか如来、或は何んとか大明神なんて言われると、もうすでに神様だァなんて思うでしょうが、残念な事に彼等は神様ではありません。若し神だ!なんて名乗ってきたら動物霊です。人間は盲で見えないので解りませんが、神だ!仏だ!菩薩だ!と言って出て来る連中は絶対に正しいものではありません。
なぜならば、如来や菩薩たちが出て来る時は、絶対に盲の人生を歩んでいる人々に対して、脅迫的な観念は与えません。安らぎと調和の言葉をもって、心に光を入れて行きます。だが、日本の神様はよく霊媒を通して威張って出て来ます。我こそは何んとかのみこと尊なり、信じざる者頭が高い、と殿様のような態度を示します。そんなものではありません。盲の人生を、自分の可愛いい子供たちが、この地球上で修行して、酷しい環境の中で苦しんでいる時に、なぜそのように、神は無慈悲な言葉を使うのでしょうか。愛と慈悲に満ちた言葉で、皆さまの心の安らぎを与えて行くものです。
それ故に今後、我こそは稲荷大明神なり、我は何々と出て来る連中をよく見て下さい。まず、その人の家庭、行動等を見る事です。これはおか可笑しい、と思ったらやめる事です、深入りしない事です。一番重要なのは、本当にそういう人たちであるならば、心は綺麗で、人を恨む事も無く、自分というものをよく知り、家庭も円満で平和です。そうゆう事を確かりみてから、正しい目で皆さまは判断しなくてはいけません。
このように、諸天善神というものは、特に稲荷大明神とか、龍王と言われる連中があの世におります。インドの当時は、ナガー・ラージャンと言っておりました。ナガー・ラージャンと言うのは龍王の事です。ナガーとは動物ですが、動物といえども神の子、万物の霊長に進化するための過程なのです。万物の霊長たる人類は、神の子として同じ形を持ちながら、闘争と破壊を繰り返し、動物的本性というものを捨て去っておりません。闘争的な破壊活動、争い、戦争、このようなものは、万物の霊長に進化する過程の動物のやる行為なのです。こうゆう事を知ったならば、動物霊たちも矢張り同じように神の子なのです。ただ彼等は神の子としての本性を知らないために不調和な行為をする。そうゆう動物霊たちを、仏教で言う菩薩界につれて行くまで、神の子としての神理を教える使命を持った者たち、こういう者たちを龍王といっております。
稲荷大明神というのは、そのような動物たちの指導者で神理を教える純然たる神の子人間です。菩薩界まで進化する魂の浄化する過程において、彼等はその心を自分で身を持って体験して来なければならないのです。しかし菩薩界まで行く過程で、動物を支配する途中で失敗する者が多い。増上慢になってしまうのです。神界の上段階の連中が、菩薩界に行く途中、例えば力士であれば、幕内から小結になり、関脇になり、大関になって行く途中、矢張り相撲取りでも増上慢になりますと平幕に落ち込んでしまいます。同じです。
あの世でも、つい動物たちがチャホャしたり、色々手伝いもしてくれます。現象界の盲の人間が、商売繁盛を願いこんこん狐々さんを祭ります。いつ時は感謝もしますが、いつか忘れてしまいます。商売繁盛に協力した動物たちに挨拶もしない。すると彼等はムクレてしまいます。〃何だ商売が繁盛するように、一生懸命こっちは、してやったのに俺たちの事を忘れやがる〃と必ず文句をいって来ます。やがて動物霊たちは不調和な環境を支配しはじめます。家族に現象が出たりして家の中は混乱してまいります。そこで神と自称する所へ拝みにいくと、〃貴方の家は稲荷大明神に供養が足りないからたた崇っている〃といわれ、こんどは一生懸命に、ちがった方法で、拝むようになる。その人たちは、欲が所詮深いですから、又やり出すのです。やればやる程混乱して泥沼の中へ足を突っこんで行く。そして最後は、死んだ時には動物界におちたり、人にひょうい憑依したり、じばく自縛れい霊になっていきます。そうゆうように非常に危険なものです。〃さわ触らぬ神にたた祟り無し〃という諺があるように、一つ間違えば宗教も阿片です。
一方、不動明王とか弁財天という諸天善神もおります。弁財天というのは決して皆さまが金持になるために協力するのではありません。真の弁財天というのは、中国の四世紀時代に出られた方です。それは財は財でも丸い方の財ではありません。皆さまの過去世においてある時は王様の体験をし、又天文学を学んだ事もありましょう。あるいは貧賎の生活の中で人々から白い目で見られ酷しい生活をして来た人もありましょう。そのような皆さま自身の内在された偉大なる智慧、心の中にあらゆる体験を探り出す、このようなものを司どり、協力する光の天使を弁財天というのです。不動明王と言われる方は、善なる人々に近寄ろうとする次元の違った悪魔たち、又悪魔の憑いた人々を、皆さまの周辺から護ってやろうという天使たちなのです。諸天善神とはそのような使命を持っている人々です。
実在界を通して見れば、諸如来、諸菩薩は心の内面を教え、諸天善神と言うのは善なる心の人々を擁護するために協力している光の天使です。
前にもふれたように光の天使が地獄界にまいりますと、地獄界はパァーツと昼間のように明るくなります。地獄界の者たちは、神が来たあるいは太陽が出て来たとおどろきます。そういう現象を縁として彼等は自分自身を悟ってゆくのです。然し彼等はこの地球上において神の子としての使命を忘れ去ったために、その原因が結果となって現われたのですから、あく迄もこの地球上という場所を縁としなければ彼等自身は悟れないのです。地獄界に落ちた原因はこの地球上と云う場ですから、その故に皆さま自身は地獄に落ちている人たちを救う力を持っているのです。修行はこの地上界であるからです。それ故に私たちはこの地球という場所においてこそ、亡くなった先祖やあるいは地上界を去る時に執着を持って地獄界にいる迷える人たちを、救う事が出来るのです。然し大事なことは自分自身が神理を悟らず、地獄界のような心で彼等にお経をあげたところで、かえって皆さん自身が疲れるばかりでなく、心の不調和を呼ぶと同時に苦しみと悲しみを更に撤き散らして行く事になるという事です。本当に先祖に供養しようと思えば、まず自分自身の心を清らかにして神理を実践し、そして先祖代々の諸霊に対して模範を示すような生活行為を実践し、神理を教えていった時にこそ、本当に彼等は救われてゆくのです。
諸天善神は皆さま自身の心のそばにおります。魂の兄弟たちも又皆まんの調和と安らぎのために協力をしております。それを受け取るのは皆さまの日々の生活行為いかんにあると言う事であります。